長野県 高遠


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 森長可が高遠城を睥睨した月蔵山。
織田軍に滅ぼされた高遠城主・仁科五郎盛信の眠る悲しい五郎山。
勝者にも、敗者にも、美しい彩りを添えるこの高遠には、その戦いの軌跡が色濃く残っている。



■ 高遠城跡

 天正10年(1582年)、織田信忠を大将として織田軍がこの城を攻撃した。
当時の城主は武田信玄の5男、仁科五郎信盛。
 武田攻めの先鋒隊であった森長可は、高遠城内で手に怪我を負いながらも家臣とともに大いに
活躍した。(その前に抜け駆けして信長に2回も叱られちゃったけど。)
ついには屋根にあがりこみ鉄砲の雨を降らせ、仁科信盛を自害に追い込んだ。
森隊は高遠城の屋根に登って敵を追い詰めたことから村人から”屋根葺衆”と呼ばれた。

《 みどころ 》 よく撮影の対象となる本丸へ到るこの門は、実は城の遺構とは全く関係なく、昭和
          30年ごろに、町中の問屋の門を移築したもの。
          また、城内には天守閣や隅櫓が建てられた形跡がないという。
          搦手には築城当時からの大きな空掘りがあり、城を守る。
          春は桜の名所としてにぎわう。

《 交通 》 JRバス高遠駅下車


■ 森軍陣所跡

 森軍は兵三千で高遠城の東側大手口前に陣取り、大手口から攻撃をしかけた。
なお現在の高遠城の東側の搦手が、戦国時代当時の大手口に当たる(江戸時代
初期に搦手に変わった)。
高遠城周辺には、「織田軍本陣」「滝川軍」「川尻軍」などの各陣所を示すのぼりプ
レートが立ててある。 

《 みどころ 》 高遠城搦手近くの駐車場の広場に、この「森軍 三千」のぼりプレ
          ートが立っていた。


■ 月蔵山

 天正10年(1582年)、織田軍が高遠を攻めた際、森長可は大将の織田信忠とは別ルートを取り
諏訪へ迂回して高遠へ侵入、月蔵山(がつぞうざん)越えをして高遠城の挟み撃ちを計った。

《 みどころ 》 地元の方のお話では、森隊は川辺地区より月蔵山に押し登ったという。
          江戸時代には高遠藩が水を確保するために、この山から用水の土管を
          引いた。

 


 

■ 高遠町立博物館

  城跡のすぐ側にあり、高遠城に関する資料を見ることができる。歴史関係の書籍販売もあり。

《 みどころ 》高遠城主・仁科盛信、松姫(信忠許嫁)、織田軍の高遠城攻めの史料がみどころ。

《 交通 》 JR高遠駅下車



■ 桂泉院梵鐘

 もとは法幢院という高遠城内のお寺だったが、戦後に織田信忠が戦死した敵味方の法要を行なっ
た際、法幢院は場所を移され、桂泉院と改名された。
ここにある梵鐘は、天正10年2月に織田信忠が武田攻めの際、開善寺というお寺を焼いてその
寺にあった梵鐘を高遠まで運んできたもの。そのせいで傷が多い。

《 みどころ 》 この梵鐘は高遠城攻めの際には織田軍の陣鐘として使われた。
          戦後の法要の際にもこの鐘を鳴らして霊を弔った。         
          

 



■ 弘妙寺

 日蓮宗の名刹で寺宝も多い。武田攻めの折、森長可がこの寺に炊き出しを命じたが、時の住職
日藤上人は頑として聞き入れなかったが為に、長可が怒ってこの寺を燃やして行ってしまった。
ゆえに忠義の寺と賞されて後々まで称えられている。

《 みどころ 》 長可がこの寺を燃やした際、寺を焼く前に仏に罪はないということで、仏像はすべ
          て川向こうの畑に出した。当時その場所は「仏畑」と言われたとの事。
          現在は「毛畑」と呼ばれる。

 

 



■ 遠照寺

 武田攻めに来た森長可の炊き出しを命令に応じたので、長可は喜んで、諏訪から略奪してきた陣
太鼓と鰐口をこの寺に与えた。
また、別の伝承には、この度の戦で亡くなった霊を弔うように頼んでこれらの物を長可がお寺に
寄進したとも。この遠照寺は「ぼたん寺」としても有名。

遠照寺サイト http://www5b.biglobe.ne.jp/~onshoji/

《 みどころ 》 森長可奉納の陣太鼓は、諏訪の神宮寺普賢堂に奉納された物(坂上田村麻呂
          が蝦夷征伐の戦勝祈願に奉納した。)を分捕ってきてたもの。
          また、鰐口には「奉奇進濃州土岐郡高田郷高山大神宮御宝前鰐口 文明十五年
          八月吉日 施主堅室宗忍信女」の銘が彫られている。   
       

《 交通 》 


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