兵庫県


  森一族が織田信長の天下統一のために関わった摂津。森長可は摂津の三木や伊丹で戦い、森蘭丸は信長の使者として摂津多田へ赴いた。
そしてやがては津山森家が4代の統治の後に移ることになる赤穂藩もある兵庫県には見どころが多い。


【森家史跡】兵庫県案内地図
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 三木城跡(三木市) 

  三木城主・別所長治の謀反で天正6(1578)年に織田方の豊臣秀吉が城を包囲する。
三木城は2年近い籠城の末、「三木の干殺し」と呼ばれる飢餓状態になり、ついに城主の長治は城兵の命と引き換えに
切腹した。
 『森家先代実録』によれば天正8(1580)年には森長可も軍を出している。
森軍が三木城の近くに附城を築こうとしていたところ、三木城から兵が出てきて「東の麦畑」で戦闘に及んでいる。

《 みどころ 》 三木城跡の一角のみが保存されており、元は城内は公大な面積に及んだ。
城内には当時の遺構である「かんかん井戸」や天守跡がある。
画像の白い人は別所長治像。
森長可の「附城」と、戦闘の場である「東の麦畑」は現在はどこにあたるのか、管理人未確認(どなたかご存じでしたらご教示ください)。

《 交通 》 神戸電鉄「上の丸駅」下車10分。


 有岡城跡(伊丹市)

 天正2(1574)年、城下町を城郭の中に取りこんだ惣構(そうがまえ)と言われる築城法で、荒木村重が元あった伊丹城に築城。
有岡城と改称した。
 織田信長より摂津国の支配を任された荒木村重だったが、天正6(1578)年には、荒重に異心ありの風説が流れ、結局、謀反
に至る。籠城は10ヶ月にも及んだ。村重は落ち延びたが、城内に残った村重の妻子、家臣は処刑された。

森長可も出陣して有岡城攻めをしており、各務兵庫をはじめ、家中も多くの手柄を立てた。
更に、翌天正7(1579)年には、長可は池田軍とどこかに川端砦を築いている(『森家先代実録』『織田軍記』『信長記(池田家
文庫本)』)。

《 みどころ 》 伊丹駅がかつての本丸。惣構をてっとり早く知るには、駅構内の観光物産協会で配布されている「伊丹郷町有
岡城跡」地図を参照すればよい。
なお、川端砦の所在地は有岡城外の離れた場所にあると思われるが、現在はどこにあったのか不明とのこと。

《 交通 》 JR「伊丹駅」徒歩0分。

 


 多田神社(川西市)

 清和源氏の祖廟。
天禄元年(970年)に清和天皇の曾孫・源満仲(清和源氏の祖)が「多田院」を建立したことに始まる。
天正5(1577)年に織田信澄の兵火で焼失したが、江戸期に入って徳川4代将軍家綱により再建された。
明治維新期の神仏分離令によって多田神社となる。
源満仲をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公がご祭神として祀られている。

《 みどころ 》 織田信長は各地で課した矢銭(軍事費)を多田院に対しては免除しており、それを証明する書状には
森可成も奉行として連署しており、その奉行連署状は「多田神社文書」として現存する。
管理人がお参りした時には宝物館が閉鎖されていたこともあり(平成20年7月現在)、開館していても拝見できるのか
わからないものの、連署状の現物は未確認。

《 交通 》 能勢電車「多田駅」下車。徒歩15分。


 山下城跡(川西市)

 塩川氏の居城。築城にはいくつか説が残る。別名・龍尾城。
文献に残る”多田一蔵(一庫)城(『細川両家記』)”や”獅子山の城(”七月末ヨリ国満獅子山ニ城ヲ築給フ”『高代寺日記』)”
もこの山下城の事ではないかと言われている。
山下城は谷底を挟んで尾根続きの古城山と向山の二か所にわたって築かれた双頭の城であった。
 信長の時代には塩川摂津守国満が活躍し、また娘たちは織田信忠と、池田之助(恒興の子)に嫁いでいたという。

《 みどころ 》 天正7(1579)年4月18日に信長は塩川伯耆守に銀子百枚を遣わし、その使者を森蘭丸が務めた(『信長公記』)。
その時の蘭丸の行動についてはそれ以上の詳細がわからないので、蘭丸と塩川伯耆守との対面はこの塩川氏の本拠地であっ
た山下の地だったのかも知れないと類推するにとどまる。
たとえこの山下までやって来たとしても麓の居館(下財町にあったという)での面会だったかもしれないけど。
また、城下の「善源寺」と「大昌寺」には塩川氏の墓所がある。

《 交通 》 能勢電車「山下駅」下車。山下城跡の麓までは徒歩20分くらい。山頂はそこからまた20分くらい。


 おまけ三将の像(川西市)

塩川摂津守国満(左)・織田信長(中央)・森蘭丸(右)の像。
大阪青山歴史文学博物館敷地内にある。

《 みどころ 》 塩川摂津守という人物はジモティーで摂津多田の人。
 天正7(1579)年3月に織田信長が「多田の谷」という場所で鷹狩りに興じたその節には塩川家の者が信長に一献献じたこと、
また4月18日に森蘭丸が信長の使者として銀子百枚を塩川氏に渡した(『信長公記』)事をベースにして作られたと思われる
鷹狩りの銅像。解説によれば、蘭丸は竹を持って獲物を追いやっているとのこと。

《 交通 》 能勢電車「一の鳥居駅」下車。徒歩10分。


 越水城跡(西宮市)

 16世紀に瓦林氏が築城したのが始まり。一時は、三好長慶の居城ともなる。
永録11(1568)年の織田信長の摂津攻めには森可成もこれに従軍した。信長が池田城や芥川城を攻略してゆくと、この越水城を
守っていた篠原長房は城を開いて逃亡した。 

《 みどころ 》 『森家先代実録』では”小清水城”と表記されており、一連の摂津攻めでは「可成君、能き御働きこれ有」という。
西宮市立大社小学校の一角に越水城跡の案内看板と石碑がある(この一角は自由に見学できた)。
案内看板によれば、この地には戦国の世から清水が湧く泉が現在も3ヶ所残っている旨が書いてあったものの、私はその泉がどこ
にあるのかわからなかった。

《 交通 》 阪急電車神戸本線「夙川駅」下車。徒歩15分。


 篠山城(篠山市)

 慶長13(1608)年、豊臣方と西国大名を分断し、また西国大名の抑えとするため、徳川家康は「笹山」の地に築城を命じた。
縄張りは藤堂高虎によるもの。翌年にこの天下普請を命じられた西国15カ国、20大名のうちには美作国主の森忠政もいた。
慶長15年には森忠政も普請中の篠山城にやって来ている。築城は急ピッチで進められてわずか6ケ月で完成した。

《 みどころ 》 
平成12年には大書院が復元されていて、中にあるミニシアターでは「森忠政」の名も登場(H21.3.20現在)。
それぞれの石垣の普請場を受け持った諸大名が他家の石と区別をつけるために石に刻んだ刻印のバラエティーさにも注目。
さらには、土塁馬出などの遺構もめずらしい。
管理人は目下、森忠政が割り当てられた普請場を捜索中。(+_+)

《 交通 》 JR篠山口駅よりバス「二階町」下車。


続く、先に赤穂を入れないといけませんね。ホーム  史跡INDEX