福岡県


ホーム  史跡INDEX



より大きな地図で 【新・森家史跡マップ】福岡県 を表示


 小倉城(北九州市)

 関ヶ原合戦の功労で豊前に入国した細川忠興によって築城された小倉城は唐造り(南蛮造り)の城であった。
 森忠政は、居城・津山城築城に当たり、この小倉城を手本にしようと考えて、密かに家臣を遣り、小倉沖より小倉城の絵図を写し取らせた。この事は、すぐに細川忠興に露見してしまうが、忠興はこれを許して城を写し取らせてやり、かつ津山城完成の際には『朝顔の半鐘』という南蛮風の釣鐘(南蛮文化館所蔵・大阪)を贈っている。この釣鐘は津山城の天守の最上階に吊るされた。

《 みどころ 》 現在の小倉城は和風に再建されている。その上、変なショッピングモールが背後に建って景観が悪い(画像はそれ以前のもの)。なお、小倉城内には、当時の唐造りの形をした小倉城ジオラマがある。
 また、八幡東区にある「北九州市立いのちの旅博物館」には、朝顔の半鐘の類似品である「細川家九曜紋入り南蛮鐘」のレプリカがある。

《 交通 》 JR鹿児島本線 西小倉駅下車、徒歩15分


 岩石城跡(田川郡)

 保元2(1157)年に始まるという岩石城は、天正年間には秋月氏の支城として栄えた。
しかし豊臣秀吉の九州平定の時、天正15(1587)年4月1日に15万の大軍で攻めこまれて1日で落城してしまう。
『森家先代実録』には「豊前筑前の境なる岩弱の城」として登場する。
 森忠政は病気(若すぎてダメと言われた話もあり)のため、豊臣秀吉の九州平定には森忠政の陣代として、林長兵衛為忠が森軍を率いて参戦していた。
(ただ、森軍は同日「目白の城(戸代城のこと?)」攻めをしているので、こっちの岩石城攻撃にもどこまで参加したのかよく判らない。)

《 みどころ 》 画像のレプリカ城は、実際の岩石城の麓に建てられ、地元の美術館っぽい利用をされつつも、熊井越中守の鎧があり、『岩石城』という本がさりげなく販売されていた。その近くには、城を守っていた熊井越中守久重と芥田悪六兵衛の「岩石城武将の碑」がある。
本物の岩弱城跡はこの山の上にある、かなり本格的な山城な上に、足元が岩場なので、それなりの覚悟と時間を要してをして登る必要あり。

《 交通 》 JR日田彦山線添田駅から徒歩15分・本物岩石城跡まではそれから1時間以上登山


 益富城跡(嘉麻市中益)

 別名・大隈城。古処山城を拠点としていた秋月氏の支城のひとつであったが、対抗していた豊臣秀吉軍
に支城の岩石城が1日で落城されたために秋月氏はこの城を破却して古処山城へ退却し、豊臣軍(森軍
もいた)は城下の大隈に押し寄せた。そして嘉麻・穂波の村中に篝火を焚かせ、古処山城の秋月氏に城下
が火の海に見えるように演出。さらに秀吉は町中から戸や障子などをかきあつめてハリボテの城を建て、
破却した城を一夜で修復したかのように見せた(一夜城として有名)。しかも充分な水があるように見せかけるために白米を城から滝のように流させるなどし、その力の差を見せつけられた秋月氏は戦わずして豊臣軍に降伏した。
後にここは、筑前黒田家の筑前六端城のひとつとして、母里太兵衛(黒田節で有名)が入城。 

《 みどころ 》 
『中川氏御年譜』には天正15年4月1日に中川秀政が森忠政の陣代・林長兵衛とともにこの城を攻めたこと
が記されている。(『
筑前ノ秋月三郎種長カ楯籠ル小隈城(大隈城)ヲ攻メラル』)。
遺構はわりときれいに残っていて、秀吉がパフォーマンスで白米を流した場所も示されている。

《 交通 》 JR福北ゆたか線新飯塚駅から徒歩10分 

 


戸代城跡とか関係あり?

ホーム  史跡INDEX