愛知県・一宮市内史跡(関氏関係史跡)       一宮市内史跡紹介地図                 


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 浮野古戦場 (一宮市浮野)

 永禄元(1558)年5月28日、清洲城主織田信長が岩倉城(城主・織田信安)攻略のために浮野に布陣。
この日は小競り合いで終った。
 7月12日には犬山城主織田信清も信長の援軍として馳せ参じ、両軍、浮野川を挟んでの戦いとなる。
 岩倉勢は押されていったん城際まで追い詰められたが、信長と信清が勝鬨を上げて引き上げて
ゆくのを見て信清軍を追撃。それを知った信長は取って返し、浮野で再びの激戦となり、結果、信長が
敵勢を城まで追い詰め、敵の首900余りを討ちとって勝利を収めた。

《 みどころ 》 5月28日の戦いには、信長は森可成を大将に500ばかりの軍勢を送った。
        森軍は足場の悪い浮野で崩れかかったが、足場のよい「能所」という場所で反撃に転じる。
        7月12日の戦いでは、
森可成と中条小市が共に敵の引き色を見て下知を下して突きかかり、
        敵を城際まで追い詰めて勝鬨をあげたといい、可成自らもよく敵を討ち取った。
        奥には合戦の死者を弔う首塚があり、通称(うぐひす首塚)と言われている。
        (夜行ったので画像が暗くて奥がわからず、すみません。)

《 交通 》 交通手段がよく判らなかったので、車で行きました。


関氏関係史跡
 森家と関氏とは、森可成娘が関小十郎右衛門共成に嫁いでより以降、関家の人物を、森家の養子にしたり、家督を継がせるなど、切っても切れぬ長く親密な縁戚関係が続く。その関氏の発祥の地が愛知県一宮市。


 一宮城跡 (一宮市)

 森家と親戚関係で、長可と共に討死した関小十郎右衛門共成(長安)の居城跡。駅前のUFJ銀行前に
石碑が建てられている。

《 みどころ 》 「一宮城跡」の石碑だけはある。この一宮は森一族がいた蓮台にも地理的に近い。

《 交通 》 尾張一宮駅下車。


 常念寺 (一宮市)

 明徳元年(1390)空遷召運上人の開基の寺院で関家の菩提寺。天正年間に戦災に遭ったこの寺院を
関共成が城の鎮守として、一宮城の鬼門に当たる現在の場所に再建。
当時の関家の墓石は太平洋戦争の戦災で今は消失したらしいが、現在は新しい石碑が建立されている。


《 みどころ 》 山門くをくぐると、関政経(康正)、関十郎右衛門長直、関十郎右衛門長安の三代、三
          基の一宮城石碑が並ぶ。

《 交通 》 尾張一宮駅下車。


 真清田神社(一宮市)

そもそも関家はこの神社の神主だったと言われる。
蘭丸の義兄・関小十郎右衛門は信長から拝領した蘭奢待をこの神社に奉納した。

《 みどころ 》 関小十郎右衛門の奉納した蘭奢待と、書状が宝物として残る。
          境内には、宝物館(開館については社務所に事前確認が必要。)もある。

《 交通 》 尾張一宮駅下車。


 苅安賀城跡(一宮市苅安賀)

 浅井政澄(高政)が築城し、長男田宮丸長時との二代の居城となった。かつては二重の堀が存在した
という。
 田宮丸は本能寺の変後は織田信雄の三家老の一人となるが、豊臣秀吉との内通を疑われて長島城で
殺害される。その後、田宮丸を討った森勘解由が居城した。

《 みどころ 》 苅安賀自動車学校の入り口に石碑があるのみ(画像右側の石碑)。
浅井新八郎政澄と関小十郎とはかなり仲が悪くて「境目の出入りに毎度せり合い」していたという。

《 交通 》 名鉄尾西線「苅安賀駅」下車後徒歩5分。


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