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2011/01/04

今年もamemura様[URL]からの年賀イラストをいただきました。
美麗な蘭丸、眼福です。

←クリックすると大きな画像を見ることができます。

2010/9/2
鶴丸さま[URL]よりいただきました9月2日現在の可成寺森家墓所の様子です。どうもありがとうございます。
現在、重機が入って墓所の復旧作業が進んでいるようです。
それにしてもなんだか墓石の苔がすっかりとはがれ落ちてしまって不思議な色合いですね。

森長可-可成-可行-可隆墓
↑画像クリックで拡大。
森坊丸、蘭丸、力丸の墓
↑画像クリックで拡大。

2010/07/24
鶴丸さま[URL]よりいただきました。どうもありがとうございます。
先日7/15の豪雨により、兼山でも土砂崩れが発生し、森家の菩提寺である可成寺の森家墓所を直撃しました。
その時の被害の様子がわかる画像です。ご心配していらっしゃる皆さまの為に、許可をいただいた上、ここに掲載させていただきました。
以前のように元通りになることを願ってやみません。

参考1:(管理人撮影画像)災害前の墓所 1、可成寺森家墓所案内図 2、森長可-可成-可行-可隆墓 3.森坊丸-蘭丸-力丸墓
参考2:岐阜新聞記事『森蘭丸一族の墓に土砂直撃 可児の寺、豪雨被害』

可成寺森家墓所の
被害状況

各画像の説明は管理人が入れました。

画像をクリックすれば、
より大きな画像を見ることができます。

  墓所左方
森長可の墓(画像右側)は土台のみが
元の場所に残っています。
↑画像クリックで拡大。
墓所中央-右方
敷地内に植えられた木の左側が森可成の墓
だったところ(五輪塔下の土台は残留)、
右側が可行と可隆の墓。
↑画像クリックで拡大。
墓所右方
敷地内に植えられた木の左側が森可成の墓、
右側が可行と可隆の墓。
画像右端に2つ並んでいるのは坊丸と蘭丸の
墓です。
↑画像クリックで拡大。
森坊丸、蘭丸、力丸の墓
何とか難を避けられたようです。

↑画像クリックで拡大。
森可成の五輪塔の上部分(宝珠と受花)

名鉄軌道跡地まで押し流されていたとのことです。
↑画像クリックで拡大。

2010/5/9
きち様さま[URL]よりいただきました。貴重な情報どうもありがとうございます!

中村一氏公夫人ひさ墓(池田恒興娘、元・森長可夫人)
 今川義元や駿府城主・中村一氏の菩提寺である静岡市葵区大岩の臨済寺に、
最近、中村一氏夫人(安養院)の墓が建立されたとの情報とともに、きち様さま
よりそのお墓の画像をいただきました。ひさという俗名は森家関係の文献には出
ていないし、『御家聞伝記』には
「御名ハ原一春より申候へ共、失念」
と書かれていて身もふたもないのですが、池田家の記録(こちらもチェックした
つもりですが、俗名は書いてなかったような…)、あるいは中村家の記録、ある
いはお寺の記録にその名が残っているのでしょうか。わからないので、今度、
お寺の方に伺ってみようかと思います。
とにかくも、長可の夫人でもあった方のお墓が建立されて何よりです。

※森長可の遺言状案には「おひさ」という続柄不明の人が出てきます。
この方は長可の妻ではないかと言われてはいますが…。

臨済寺の安養院さまのお墓
表には「中村一氏公夫人ひさ墓」と刻まれて
います。
『森家先代実録』に書かれた彼女の法名は
「安養院春林宗茂大姉」です。
臨済寺の安養院さまのお墓
[
拡大]
文字は
「慶長四己亥年 安養院春林宗茂大禅定尼
七月二十日」


澤田常長墓
 こちらは京都市の黒谷の金戒光明寺の澤田(木屋)常長のお墓です。
「木屋」は江戸幕府のお抱え「御研師(刀を研ぐ技術者)」でもありました。

 きち様より『黒谷に眠る人びと』という書籍内容とともに画像をいただきました。
『黒谷に眠る人びと』によれば、
「天正12年、家康が尾張長久手に秀吉を破った時、十一歳の常長は豊臣の将、
森長可の死を、その佩刀から確証して賞された。」
とのことなのですが、私は澤田常長のことからして存ぜず、勉強になりました。
長可の佩刀の話も含めて、木屋の資料がないかあたってみなくては。

■墓石表面
「木屋氏澤田常長墓」


■裏面の一節
「…東照宮大破豊臣公之師於尾州長久手、殺其将池田勝入紀伊守森武蔵守等、
武蔵守死於亂兵之中、莫能辨其屍、時常長歳十一、従常堪在 東照宮之幕下、
嘗識武蔵守之佩刀、故得以知其死矣…」


『京都名家墳墓録』より引用
金戒光明寺の澤田(木屋)常長のお墓
[
拡大]←文字が見やすいように墓部分のみ
私の都合で切り貼りさせていただきました。
 

2010/2/7

お友達に強奪したいただいた、2010年2月3日(節分デー)の
武蔵塚です。
「鬼はうち!」です。
介さんより強奪したいただいた津山の岩屋城跡の画像です。
伝・森忠政公御休憩小屋なるものがあったとは存ぜず、
不覚。

2010/10/18追記
現在、この標識は撤去されています。
この件については伝承はあるようですが、それを裏付けする
資料がないとのことです。
でも、もしや文献などあれば情報ください。
2011/2/19追記
根拠となる文献が出てきましたが、解読に時間がかかりそう。
もう少々お待ちください。


2010/1/3

今年もamemura様[URL]から年賀イラストを
いただきました。
可愛い★


←クリックすると大きな画像を見ることができます。


2009/9/7
 

またしても自分で撮影したものをここにつっこんでおきます。9月6日に熊本県八代市内の史跡をめぐりました。

 明智光秀の娘ガラシャの婿としても有名な細川三斎忠興(ちなみに忠興の”忠”は織田信忠の”忠”の字をもらったものです)は、加藤家改易後の寛永9(1632)年、細川家の肥後への国替えにともない自らは八代城に入りました(隠居♪隠居♪)。

 その彼は、織田信長を供養するために「泰巌寺(たいがんじ)」というお寺を建てています。泰巌寺は細川家領地の丹後・宮津、豊前・小倉を経て、忠興とともに八代へ移ってきました。

 この寺は移転当初は八代の平河原町というところにあったものの落雷を受けて焼失。その後、細川家菩提寺・泰勝院が熊本に移った跡地(現在の場所)に移転してきました。で、なんか明治9(1876)年に入って廃寺に至ったようで、結局、織田信長の墓だけがここに残ってしまったようです。
泰巌寺跡は今は八代第一中学校の校庭と化し、ブロックで囲まれた一角に織田信長の供養墓と細川忠興の供養塔があります。

 今に遺る織田信長の墓からは、自分を引き立ててくれた織田信長に対する細川忠興の畏敬の念と、明智光秀の親戚であったがゆえにひたすら信長の冥福を祈る一途な気持ちを感じずにはおれません(当社比)。

 

泰巌寺跡
 なんと、織田信長の墓は現在八代第一中学
校のグラウンドにあり、若人に日々囲まれて意
外や明るい雰囲気を醸し出している。
泰巌寺という寺名は織田信長の法号「総見院
殿泰巌信齢大居士」にちなんだもの。
織田信長の供養墓
寛永10(1633)年6月3日、細川忠興
は信長供養のために五輪塔を建立。

織田信長供養墓に刻まれた文字
「織田将軍去遊四十九歳、
天正十年六月二日」
(墓石正面・画像部分)
※裏面に「寛永十年六月三日」、
※左側に「細川参議敬建」
細川忠興の供養塔
 当初、この地には細川幽斎(忠興
父)の菩提寺・泰勝院があった為、
忠興もここで荼毘に伏された。
浄沢寺本堂(古閑中町)
泰巌寺の本堂は、現在浄沢寺の本堂と
してリサイクル中。
   
  光圓寺にある鐘
慶長19(1614)年、細川忠興がまだ
小倉にいた時に、信長の三十三回
忌に小倉で造らせた鐘。
泰巌寺から光圓寺へ引き取られた。
   

2009/7/8
 自分ででかけて撮影してきたものですが、このページにつっこんでおきます。
福岡ドームの飾り山です。

■飾り山解説■:見送り【小牧長久手之戦】(こまきながくてのたたかい)
織田信長の死後、天正十二年天下の覇権を懸け羽柴秀吉と徳川家康両雄が、最初で最後の直接対決の場面。
家康は自身の本拠地、三河を襲う秀吉軍の動きを見破り、長久手に秀吉の軍勢を追撃、急襲する。
戦いの後、家康は秀吉に巨従するが、天下取りの夢は捨てない。
本多忠勝は家康の四天王の一人、名槍蜻蛉切りの槍を かざして戦い、秀吉方の武将森長可は、鬼武蔵といわれる荒武者で、よく奮戦した。
福岡ドームの飾り山
白馬に乗った王子様は本多忠勝。
上の左右が徳川家康と豊臣秀吉。

森長可人形
クリックで拡大(上の画像のみ)
長可手前の「小牧長久手之戦」の
習字を書いたのが「織田」さんという
のもまた運命か。
森長可人形
胴の蛇の目とでっかいリボンが気
に気になりつつも、立派な武者姿
の森長可、福岡ドームに見参!
今回、ケツアゴは無し!
森長可
飾り山解説に載っていた長可の絵。
「蘭丸兄」という肩書なしで解説されていたのが
なんだか嬉しい今日この頃。

2009/1/1

amemura様[URL]からの年賀イラストです。
丑ですね♪


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2008/1/4

amemura様[URL]からの年賀イラストです。
蘭丸もネズミもかわいい♪


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2007/11/17
 団地猫さまから浮野古戦場址画像を頂戴しました。
先月10/21に私自身がこの史跡を訪問したのが夜間だったせいで真っ暗だったため、後日、団地猫さまが再訪問の上、史跡を
撮影して送ってくださったものです。その一部をご紹介いたします。

浮野古戦場址
(看板の背後右奥の一角に碑や案内がある)。
浮野合戦の解説板にある”岩倉合戦の図”
(の一部分)from『尾張名所図会後編』
★おまけ★の生駒屋敷跡(江南市)
  戦死者の首を埋葬した場所(通称:うぐひす塚)に建てられた碑    

2007/04/12

ゆうさまからの津山城跡の桜だより(4月7日の画像)です。
やはり城には桜がよく似合います。


2007/01/04

amemura様[URL]からの年賀イラストです。
温かみのある色彩が春を呼んでくれます。

←クリックすると大きな画像を見ることができます。

 


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