RANMARU! 管理人イラスト

ここには、著作権があったり寺宝となっていたりと、故あって写真が掲載できないものを、イラストにさせていただいて掲載しています。(ペンタブレット買ったのでつい・・・。)実物とは違う!と思われることもあるかもしれませんが、広い心で見てやってください・・。


12/18 妙願寺・森忠政木像をUP


1. 蘭丸肖像画 

「森長定」肖像画の顏部分だけを模写したものです。写真掲載禁なので、これで。
蔀(はじとみ)の上に信長が茶碗を置いて、幼い蘭丸にいたずらする逸話(くわしくは逸話のページ「頭上注意」を見てください。)が描かれたものです。
詳細は違いますが、構図が京・建勲神社にある画像に似ているので、恐らくはそちらの画像とも関係があるものと。建勲神社の画像は左手で帯をにぎっていますが、この画像は台に登るために袴をたくし上げています。
横に漢文で蘭丸の賛が書いてあります。
しかし、髪型が異様に気になります・・・。(゚-゚)有名な中宮寺の半跏思惟像と一緒です。
これは、古代中国の処女(おとめ)のする髪型らしいのですが、幼少の頃といえど、蘭丸どの、何があったの?

 


2. 長可の人間無骨の槍 人間無骨の載る『古今鍛冶備考』を観る機会がありましたが、自分のイラストと相違があるので消しました。
 

”鬼武蔵”と呼ばれて恐れられた猛将・森長可の愛用の人間無骨の十文字の槍の穂先のイラストです。
表の首に「人間」とうがち、裏の首に「無骨」とあります。戦には、長可公、常にこの槍を携えておびただしき功名をあげました。

人間無骨の詳しい解説

解説にあるように、本物は現在、所在不明です。10年くらい方々を探し求めて、遂につきとめた話は、焚き木にされたようだとのこと。そ、その百万ドルの火にあたらせて〜。(>〜<)
悲しいオチで、その時はさすがに凹みました。
嘘であってほしいと今でも希望を持って生きています。

本物の槍の拓本(個人蔵)と、江戸年間に作製された複製品の槍(赤穂大石神社宝物)が現在に伝わっています。


 3.関小十郎右衛門共成の墓

森家と運命をともにした蘭丸らの義理の兄弟・関小十郎右衛門共成。
その名の通り、『森家と”共”に”成る”』人でした。
森長可とともに長久手で若い命を散らした彼の墓は菩提寺である尾張国常念寺(一宮市)にあったといいます。

あった、というのは今はもう戦災でどうなってしまったか判らないという状況です。
かろうじて尾張地方のことを綴った古文書にその墓の絵がありますが、見づらいので、それをイラストにしました。
「高さ4尺ホド」とのこと。
墓というより、供養塔というべきなのでしょうか。
中央の梵字は”北”という意味のもので、残りの三方と併せて「東西南北」を意味する梵字が刻まれていたのでしょう。

 



4.朝顔の半鐘

森忠政が津山城築城の際に、豊前小倉藩主・細川忠興から贈られた釣鐘です。

その形から「朝顔の半鐘」と呼ばれました。

大阪の南蛮文化館に所蔵。北九州市いのちの旅博物館にはレプリカがあります。

 




.蘭丸愛用槍の穂先
兼山の常照寺は、妙向尼の菩提寺ですが、ご寺宝に蘭丸が愛用した槍の穂先が伝えられています(非公開)。本物は錆びていますが、イラストは気持ばかり当時の色に近づけてみました。微妙に形が整っていないのは、私の腕のなさです。m(_ _)mともかくも、笹穂槍といわれる種類のものだと思います。レプリカが兼山歴史民俗資料館に展示してあります。


 6.蘭丸が明智光秀にもらった文箱

蘭丸が明智光秀より拝領したと伝えられる文箱がございます。
2人のしのび草といわれる品が、武ばった鎧や刀ではなく、ささやかな文箱というのがまた謙虚でオツなものですね。
本皮製のベルトつき、箱のフタに金のロゴ入りの逸品となっております。更に箱を閉じるヒモ革までもが!!!!表面はイラストよりも、もっとザラザラしていました。

蘭丸はこの中に、何を入れたのでしょうか。
ロゴはやはり光秀の家紋の桔梗・・・?

 


7 長可が着用したと言われる脛当

現存する日本最古の脛当(すねあて)としても有名なので、書籍などで写真を見かけることも多いことと。修復される前のボロボロの写真も見かけます。これは、鎌倉時代前期のものと言われています。今はバッキンバッキン割れちゃってパーツになっていますが、三枚の鉄板を蝶番であわせてあったそうです。中央に双鳩文を(よくわかんなかったけど。)配しています。両端の上中下の3箇所に小さな穴が開いているのですが、そこに緒を通してX型に交差させて結び上げて着用するもの。可成寺に伝来しています。
古い武具は古い家柄を示すお家の宝、かなり大事にされていたものと思います。
持っていたって実際に本当に着用したのかしら?とも思ったのですが、当時、平安時代の鎧とかを着こんで家柄の古さを誇示するような風潮もあったようなので、本当に長可がこの脛当を着けて戦場へ赴いたこともあり得ますかしら。


 8 妙願寺・森忠政像 

昭和12年12月14日に焼失してしまった津山・妙願寺の森忠政像を小さな新聞記事を元に描きました。
残念ながら木像の着色がどうなのかが白黒写真では判りませんでしたので、写真の濃淡に合わせて黒で表現しています。
顔の細部や表情まではわかりづらいですが、形は特徴的なうりざね顔。
津山城にある森忠政銅像のモデルになった津山・本源寺の森忠政像と比べると全体的にほっそりとして、首もあります。

《参考》津山城・森忠政銅像
しかしながら、この銅像モデルとなった本源寺の木像はもっと美男子です。


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