なんだよ。長可関係書状・遺言


一覧(番号をクリックすれば、詳細項目へジャンプします。) 長可花押一覧
番号 文書名 機能 年月日 差出人 宛先 形態 所蔵 備考
1 森長可ら連署奉書 書簡 元亀3年12月6日 木藤秀吉
森勝蔵長可
その他
(不明) 不明    
2 織田信長朱印状 書簡 天正6年10月11日 信長 斎藤新五郎殿 不明 個人蔵 UP
3 織田信忠書状 書簡 天正6年10月12日 信忠 斎藤新五殿 不明   UP
4 織田信長黒印状 書簡 天正10年2月23日 信長 河尻与兵衛殿 不明   UP
5 織田信長黒印状 書簡 天正10年3月1日 信長 河尻与兵衛殿 不明    
6 木曽義昌書状 書簡 天正10年 義昌 森仙蔵殿 尾藤甚右衛門殿 御宿所      
7 織田信長感状 書簡 天正10年4月11日 信長 森 勝蔵とのへ     UP
8 織田信忠感状 書簡 天正10年4月11日 信忠 森 勝蔵殿      
9 森長可書状 書簡 天正10年4月10日 森勝三長可 西条治部少輔殿      
10 森長可書状 書簡 天正11年3月24日 新助殿(真屋前新助)      
11 森長可遺言状(案) 書簡 天正12年3月26日あさ むさし 尾藤甚右衛門さま 切継紙 名古屋市博物館 UP

2 織田信長朱印状

解読文
書状并鈴木越後口上之趣聞届候、河田至太田面罷出候由、幸之儀候間、
此時為可打果、重而毛利河内守、坂井越中、森勝蔵以下遣之、可相談事
専一候、次斎藤次郎右衛門尉別而可抽忠儀候由、神妙候、然者朱印之
儀遣之候、何も神保越中守相談尤候、猶、鈴木越後守可申候也
 (天正六年)十月十一日        信長(「天下布武」朱印)
                             斎藤新五郎殿

書下し文
書状并(ならび)に鈴木越後口上之の趣聞き届け候、河田、太田面(おもて)に至って罷り出候由、幸の儀に候間、
此時打果すべき為(ため)、重ねて毛利河内守、坂井越中、森勝蔵以下之を遣わす、相談ず可き事専一に候、
次、斎藤次郎右衛門尉別して忠儀を抽んずべく候由、神妙に候、然らば朱印の儀、之を遣わし候、何(いずれ)も
神保越中守と相談じ尤に候、猶(なお)、鈴木越後守申すべく候也
 (天正六年)十月十一日        信長(「天下布武」朱印)
                             斎藤新五郎殿

現代語訳:書状、ならびに鈴木越後守の口上を聞き届けた。河田長親(上杉景勝の武将)が太田表に至り、出陣してきた事は幸いなことなので、この時に討ち果たすべきだ。重ねて、毛利河内守・坂井越中・森勝蔵以下を遣わすので、彼らと相談することが専一だ。次に、斎藤次郎左衛門尉が際立った忠義を尽くしたいということは神妙である。そういうことならば朱印状を遣わす。いずれも神保越中守長住と相談することが尤もなことである。なお、鈴木越後守が申す。

解説:斎藤新五郎は、加治田城主で織田信長に仕えていました。この年に上杉謙信が亡くなって後継者争い(御舘の乱)が始まると、これ乗じて信長は斎藤新五郎を越中に進軍させました。更に森長可らを援軍として派遣しています。余談ながら、この斎藤新五郎はのちに本能寺の変で二条城で討ち死にすることになります。そして美濃にあった彼の居城・加治田城は森長可に攻め落とされることになります。


3 織田信忠書状

解読文
  尚々、寒天之時分、一入苦労察候、
注進之趣披見候、仍其面敵取出候所即時覃一戦、得大利首三千余打捕之由、
寔無比類仕合、令大慶候、弥無越度様可被申付事専一候、尚自是為加勢毛利
河内守相添、森勝蔵、坂井越中守、佐藤六兵衛尉差遣候、重而追々可申付候、
切々注進待入候、謹言
 (天正六年)十月十二日                  信忠(花押)
                                        斎藤新五郎殿  
書下し文
   尚々、寒天の時分、一入(ひとしお)苦労察し候、
注進の趣披見候、仍って其面(おもて)敵取出候所に即時に一戦に覃び、大利を得、首三千余打ち捕るの由、
寔(まこと)比類無き仕合せ、大慶せしめ候、弥(いよいよ)越度(おちど)無き様申付けらるべき事専一に候、
尚、是より加勢として毛利河内守に相添え、森勝蔵、坂井越中守、佐藤六兵衛尉を差し遣わし候、重ねて追々
申し付くべく候、切々の注進待ち入り候、謹言
 (天正六年)十月十二日                  信忠(花押)
                                        斎藤新五郎殿  

現代語訳:注進の内容を見た。従って、その(太田)表で敵が出撃してきたところに即時に一戦いに及び、大利を得て首級三千を討ち取った事は、まことに比類ない幸運、非常にめでたいことだ。
ますます失敗がないように申し付けられることが専一だ。なお、これより加勢として毛利河内守に添えて森勝蔵、坂井越中守、佐藤六兵衛尉を遣わすので、更に追々に申し付けるように。たびたびの注進を待っている。さらに寒天の時分、ひときわの苦労と察する。
解説:上記2の「織田信長朱印状」と関連する書状です。この書状を発行した信忠も、上記の信長同様、森勝蔵(長可)の名を書きこんでいますが、信長とは違って坂井越中守の順番より長可のほうを先に出してきているのが、ちょっと嬉しいですね(何のこっちゃ)。この坂井越中(坂井政尚の次男)も、また、本能寺の変の時に二条城で討ち死にします。


4 織田信長黒印状

解読文(略)
一、城介事、是も如言上、信長出馬之間ハ、むさとさきへ
不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要候

一、森勝三、・梶原平八郎各不及談合、先々へ陣取之由
候、わかき者共候之間、此時盡粉骨名をも取、又我々へ
訴訟之たね等も可仕と存事にて可有之候、聊爾動無用之
由、度々申聞候、猶以可申遣候間、
何も令介杓、能々申聞候て、其動専一候
(中略)
二月廿三日      信長(黒印)
 河尻与兵衛殿

書下し文(略)
一、城介の事、是も言上の如く、信長出馬の間は、むさとさきへ
越さざるの様に、滝川と相談じ堅く申聞かすべく候、此儀、第一
肝要に候

一、森勝三、・梶原平八郎、各(おのおの)談合に及ばず、先々
へ陣取の由に候、わかき者共に候の間、此時粉骨をも盡(つく)
し名をも取り、又我々へ訴訟のたね等も仕るべしと存ずる事にて
之有るべく候、聊爾(りょうじ)の動き無用の由、度々申聞かせ候、
猶以って申し遣すべく候間、何(いづれ)も介杓(かいしゃく)せしめ、
能々(よくよく)申し聞かせ候て、其の動き専一に候(中略)
二月廿三日      信長(黒印)
 河尻与兵衛殿

現代語訳:一、信忠についてだが、信長が出馬するので、前進しないように滝川一益と相談して、申し聞かせろ。
一、森長可と梶原景久がそなたに相談もなしに前進した件だが、若い者たちであるから、この時に粉骨をつくして功名を上げ、又それを私に訴えるためだろう。粗忽な行動をせぬよう度々申し聞かせたが、なお申しておく。彼らの面倒をみてよくよく言い聞かせること、それが専一だ。

解説:河尻秀隆に宛てた書状。天正10年、織田信忠を総大将に武田攻め。若き長可もこの先鋒を勤め、人無きがごとく進軍してゆく。信長は蘭丸たちと、ゆったりゆったりしていたが、予想外に早い進軍にあせったもようです。グランドフィナーレを飾るのは私だから、ちょっとうちの倅(せがれ)留めといて!それから、長可と梶原が先陣争いで勝手に前進してしまいました。若者たちの軽率さをたしなめるよう、河尻に頼んでいます。


5 織田信長黒印状

解読文
(略)
一、森勝三、・梶原平八郎如言上、自此方も申聞候、
猶以同篇之由曲事候、先程も如申聞、わかきものにて
規模たてを仕、訴訟之種ニもと存事にて可有之候、
是も我々いまた無進発故候、城介堅申付候ハぬ事
沙汰之限候、如此之段も信長発足候者、不可及異
儀候、右如申其内只今陣取能々取堅、あとあと仕
置以下相急候て、可相待候、

(中略)
三月一日      信長(黒印)
 河尻与兵衛殿
書下し文
(略)
一、森勝三、・梶原平八郎言上の如く、此の方よりも申し聞かせ候、
猶以って同篇の由の曲事に候、先程も申し聞かす如く、わかきもの
にて規模たてを仕り、訴訟の種にもと存ずる事にて之有る可く候、
是も我々いまた進発無き故に候、城介に堅く申し付け候はぬ事
沙汰の限りに候、此の如きの段も信長発足候はば、異儀に及ぶ
可からす候、右申す如く其の内に只今陣取、能々取り堅め、あとあ
と仕置以下相急ぎ候て、相待つ可く候

三月一日      信長(黒印)
 河尻与兵衛殿

現代語訳:一、森長可と梶原景久の件(※4を参照)は、そなたから言上のあった通り、こちらからも、申し聞かせた。しかしなおもって彼らが直らないのはけしからぬことだ。先日も申し聞かせたように、あれら若い者たちで、功名を上げてそれを私に訴えるためにしているのだろう。これというのも、私がいまだ進発していないからだ。城之介(信忠)には厳命しているが、それがいつもの命令の限りだ。このような一件も、私が出て行けば異論に及ぶことはないのだ。右に申した様に、今は陣を張り、よくよく陣地を取り堅め、後に仕置きなどを急ぐことにし、私の行くのを待っておくことだ。

解説:4番目の文章とセットでお楽しみ下さい。長可と梶原景久が、叱られたにもかかわらず、また軍令違反して勝手に前進してしまいました。信長もちょっと切れかかっています。信長と行動をともにした蘭丸は「うわ、兄のせいで上様の機嫌悪いよ。」ともう、ドキドキだったでしょう。信長を以ってしても止められない長可。もう、誰にも止められない!!(汗)


 

 7 織田信長感状

解読文

今度、於其表一揆駈催、数千騎令蜂起之處、早

速馳着遂一戦、悉討果之旨、尤神明之至也、殊

大蔵城乗取彼是頭数三千餘到來、誠ニ遠國

其方一人之覚悟謂、己之地而多勢旁以(武功)不浅

思召候、仍如件

    天正十年四月十一日 信長御判

     森 勝蔵とのへ

書下し文

今度其表に於いて一揆駈催し、数千騎をもって蜂起之をせしめ候処、

早速馳着一戦を遂げ、悉(ことごと)く之を討果す旨、尤(もっと)も神

明の至り也、殊に大蔵城を乗っ取り、彼是(かれこれ)頭数三千餘到

來、誠に遠國其方一人の覚悟と云ひ、己の地多勢旁以(かたがたも

って)[武功]浅からず思召候、仍って件(くだん)の如し


 天正十年四月十一日 信長御判 
     森 勝蔵どのへ

現代語訳:この度、その地において一揆軍が蜂起したところ、そなたは早速馳せ参じて一戦し、悉く敵を討ち果たしたこと、なおまた神妙のいたりである。殊に、大蔵城を乗っ取ったこと、兵数もかれこれ3千余りであったということ。遠方においてそなた一人の覚悟ではあっても、敵は己の地でその多勢、いずれにしてもそなたの武功は浅くない。従ってここにこれを述べたものである。

解説:天正10年、森長可は信州武田攻めの華々しい武功により、信濃四郡を与えられ海津城主となります。しかし、長可の治めるところの領民1万が即、蜂起。大蔵城にもたてこもりました。長可は3千余りの兵を率いてこれを撃退、その武功を信長が称えたというのが上の感状(軍功を褒める手紙)です。しかしその詳細は古文書によってまちまちで、差出人も信長だったり、信忠だったり。(恐らく信忠であったと思うのですが)ここには一番判りやすい内容のものをもってきました。


11 森長可遺言状

一、さはひめのつぼ、秀吉様へ進上。但、いまは宇治にあり。

一、だいてんもく、秀吉様へ進上。ふだにあり。

一、もし、うちじに候はゞ、此の分に候。母に候人は、かんにんぶん、秀吉様へ御もらい、京に御いり候
  べく候。せんは、今のごとく、御そばに奉公の事。

一、我々あとめ、くれぐれ、いやにて候。此の城は、要にて候間、たしかなるものを、秀吉様より、
おかせられ候へと、御申すの事。

一、をんなどもは、いそぎ、大がきへ御越し候べく候。

一、あしき茶の湯どうぐ、かたな、わきざし、せんに御とらせ候べく候。いづれもいづれも、ふだの如
  く、御とどけ候べく候。ふだのほかは、みな、せんにとらせ申し候。但し、なり次第

    天正十二 三月廿六日あさ             むさし  
     尾藤甚右衛門此御申候べく候 留申べく候

又、申し候。京の本阿弥ところに、秘蔵のわきざし二つ御いり候。せんに取らせ申し候。尾甚に御申し候べく候。
おこう事、京の町人に御とらせ候べく候。薬師のやうなる人に御しつけ候べく候。母に候人は、かまいてかまいて、
京に御入り候べく候。せん、こゝもとあとつぎ候事、いやにて候。十まんに一つ、百万に一つ、総負けになり候はゞ、
みなみな火をかけ候て、御死に候べく候。おひさにも申し候。以上。

現代語訳:(※ 2012年11月13日:文中にある「ふだ」の解釈を、仏陀寺という意味ではなく、「札」と考え直して書き改めました。)
一、沢姫の茶壷を秀吉様に進上します。但し、現在は宇治にあります。

一、台天目を秀吉様に進上します。その旨を札に書いてあります。

一、もし、自分が討死にしたら、母は堪忍分の領地を秀吉様にもらって京都に居るべきです。仙千代は今のまま秀

  吉様のおそばで奉公してください。

一、自分の
跡継ぎはくれぐれも嫌です。金山の城は要所だからしっかりした者を秀吉様に置いていただきたい、とお伝えください。

一、女たちはいそいで大垣(奥さんの実家)に移りなさい。
粗末な茶の湯道具や、刀、脇差などは仙千代にあ

  げ
てください。すべて、札がついた通りの人の元に遺品をお届けください。札がついた物の他は、みな、仙千代にあげてください。ただし、可能な範囲でと、仙千代に申し付けください。

又、京都の本阿弥のところに秘蔵の脇差が二つあるのも、仙千代にあげますので、尾藤にそのようにお願いしなさい。おこうは京都の町人に嫁入りさせなさい。(相手?は)医者などにしたい。母は絶対に京都にいてほしいです。仙千代が跡継ぎになるのは絶対に嫌です。万が一、総負けになったら、みなみな火をかけて死んでほしい。
おひさにも申し上げます。

管理人コメント:
あの、鬼武蔵の異名をいただいたアニキの遺書とは思えないほど悲痛な内容です(でもやっぱり内容は過激。)父親兄貴が討死にして、早くから森家を支えて苦労して(?)来たのに、大事な主君と頼みの綱の弟3人にまでことごとく討死にし、そのために心優しき慈母が泣くのを見ていたら、戦国の世の無常を嘆きたくなるのも無理ないでしょうか、、。それにしましても、みな火をかけて死んでくれ、というのは壮絶です。しかし、どうしてこのお人は自分の家族のことより先に茶器のことを冒頭に挙げて遺言してしまうのかい?追伸と本文が逆のような、、。(私の尊敬する桑田忠親氏によれば、信長様が武将たちに殺伐とした気風を払うために、礼節と風流を教育したことの賜物だとか。ほほう、、、そんなもんですか。)でも、もらう方の事を考えると、わざわざ「あしき(粗末な)」茶の湯道具は仙千代に!と書かなくてもいいのに、、、。下賎に言えば「がらくたはお前にやる、」ということかな?そんなふうに遺言で言われても、、、、。兄上様、最期の文面にも性格がモロダシです。

解説:(真面目に)これは、秀吉の直臣の尾藤甚右衛門に遺品の配分や家族の後事を託した遺書。当然、秀吉に読まれることも前提なので、秀吉に対する遺品の配分に関する条項を冒頭にもってきています。「我々(あとめ)」は「私」のこと、古文書ではこのように複数形を使うこともありますが、決して複数とは限りません。また、遺言にでてくる「おこう」とは誰なのか伝わっていませんが、長可が後事を託すほどですから、よほど大事な人だったのでしょう。娘だったとも、「鴻野さま」と呼ばれた妹の事とも言われています。また、「おひさ」は誰なのか、伝わっていません。この遺書は、長可討死の後、家臣の各務兵庫や林長兵衛、林新右衛門の手で秀吉の元へもたらされました。秀吉はこの遺書に涙を流し、即、仙千代を長可の跡目につけるように各務らへ申しつけました。意味わかってないじゃん、秀吉!

関連項目→尾藤甚右衛門(作成中) 沢姫(作成中) 大天目(作成中)


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