森長可(1558−1584年)

縮小したら髭が消滅 森 武蔵守 長可

もり むさしのかみ ながよし

幼名 /勝蔵(しょうぞう)

金山城主・岩村城主・海津城主

合戦 / 天正2年7月-9月 長島一向一揆平定

天正3年5月 長篠の戦い 

天正10年2月-3月 甲斐平定

天正12年 長久手の戦い 

命日 / 天正12年4月9日

法名 / 鉄開秀公大禅定門(可成寺)  
  法号/霊光院殿慧徳長榮日勝大居士(森立寺)

墓所 /美濃可成寺・美濃真禅寺・津山本源寺

 
■■■■■■■■■■■■■■■■■若き当主誕生■■■■■■■■■■■■■■■■■

永禄元年(1558年)長可は森可成の次男として生まれる。元亀元年(1570年)長男の可隆と父の

可成が相次いで討死する。それを受けて、次男のこの長可が家督をつぐ。この時、長可13歳。

下の弟蘭丸も、わずか6歳の少子で若き当主を支えるほどの齢ではない。森一族とその家臣た

ちの未来が、長可少年の双肩にかかっていた。
■■■■■■■■■■■■■■ 初陣は、激しく、華やかに■■■■■■■■■■■■■■

デビュー戦は、17歳、天正2年(1574年)長嶋の一向一揆討伐だった。面白い逸話が残っている。

敵の攻撃を見た織田信忠(信長嫡男)が、長可のそばでブツクサ独り言。「奴等を何とかして追

っ払いたいものだ。」

長可はそっとお側と離れて小船にのって川を渡り、自ら敵陣に駆け込み大暴れをはじめた。

これを目にした森家家臣も(あわてて?)後に続き、奮戦。長可は初陣で27もの首級をあげて、

華々しいデビューを飾った。大将の長可が先陣を切り、長可のパターンを見切った重臣がとっさに

反応し、あとから軍勢が慌てて追っかけるパターン。これでいいのか?これでいいのか!?

森家一同!とにかく、とにかく、長可は一番乗りが大好きなのである。
■■■■■■■■■■■■■■■■信長の関所をやぶる■■■■■■■■■■■■■■■

信長が念願の上洛を果たし大名を京へ招集したとき、関所を設け入京する者を厳しく改めた。長可

は先を急ぐと馬上から名乗っただけで、のこのこ通り過ぎようとした。役人達は槍ぶすまで長可の行

く手をさえぎると、怒った長可はたちどころに役人の首をはねてしまった。緊急事態に役人らが木戸

を閉鎖したので、長可は火を放たせ混乱に乗じて入京し、上様に事の次第を述べ切腹を申し出たと

いう。よく最近の子は切れやすい、と言いますが、昔の人もこんなに切れやすかったんですね。

さすがに信長も長可にあきれ果てたがこれを許した。上様をあきれさせるなんてなんという天才だ。

残念ながら、信長さまはこの後何度も何度もこの人のはちゃめちゃぶりにあきれるはめになります。
 
■■■■■■■■■■■■■■■■鬼武蔵とよばれる■■■■■■■■■■■■■■■■

天正10年(1582年)春、時は満たされた。織田信長は武田攻めにかかる。長可も先鋒隊として信

忠に従い、伊那へ攻め入り武田方の武将保科正直を破ることを皮切りに、長可は行く先々で活躍

して勝利を収めた。若く激しいこの暴れん坊は、武蔵坊弁慶の再来よ、「鬼武蔵」と呼ばれるように

なった。なってしまった。鬼と言っても、当時は鬼の如く強い人物を称えてつけたのであって、別に、

関所破りをしたからとか、信州とかで放火略奪めちゃくちゃやった鬼悪魔、とかではないのだ。

信忠は長可らに信州高遠攻めを命じる。これが初めてではないが、長可と梶原景久が勝手に前進

して、信長から大目玉をくらう。軍律違反は切腹レベルの重罪です。放課後に居残りで梶原君と反

省文とか書かされたかもしれない。怒られて10日も立たないうちに、また長可と梶原景久が勝手

に前進したので信長にふたたび大目玉をくらう。ちなみに、軍律違反は切腹レベルの重罪です。

血の気の多い彼は合戦時には都合の悪い事はきれいさっぱり忘れてしまうらしい。上様お側で報告

を受けていた蘭丸は気が気じゃなかっただろう。

さて、武田方の高遠城主・仁科五郎盛信は前髪の美しい19歳の少年だったが、最後まで抵抗し

ぬいた。そこで長可軍団は高遠城の屋根に登ると、板をめくって上より敵をことごとく発砲攻めにし、

その城内は血にあふれ、悲惨な最期を迎えた。信盛は自害、ついに城は落ちた。長可たちは”屋根

葺衆(やねがわらしゅう)”という、大変名誉なあだ名をもらえた。よかったね、長可兄貴。

つづき