■■■■■■■■■■■■■■■長可、上杉景勝を見張る■■■■■■■■■■■■■■■

3月11日、武田勝頼がついに自害し、武田家が滅ぶ。この武田の旧領信濃4郡(更級・高井・水内・

埴科)が長可に与えられる。上杉領と接する土地である。信長は対上杉戦に対して長可に大いに期

待していたと見える。案外「なーんか信濃って山ばっかりだから、山国暮らしの長可にまかしとこ。」と

織田父子が語ったかどうかは定かではない。昔の通例では、攻める敵領に一番近い者が先鋒隊を

つとめ、敵の領土を手に入れた暁には、それを貰えることになっている。その点、武田領に隣接する

東美濃を領する森長可はラッキーだったといえる。

長可は、信州の海津城に入城。地元の残党からいきなり蜂起されたけど、これを散々に蹴散らし

ている。あ、槍の刃が鈍くなった。といって戦のさなかに自分でシャコシャコ研ぎはじめる逸話もある

くらいだ。余裕だな、兄上さま。

長可自身も「俺1人で上杉景勝を滅ぼし越後をとってやる!」と豪語していたから、きらめく未来を想像

して疑わなかったのだろう。5月27日には長可越後に進出。これを知った上杉景勝は越中から越後に

兵を戻す。いよいよ、上杉と火花を散らす時がきたようだ。

そんな時だった、長可の元へ急を知らせる使者が来たのは、、、、。(あるいは柴田勝家に直接聞いた

とも言う。)

■■■■■■■■■■■■■■■■■長可、金山に還る■■■■■■■■■■■■■■■■

本能寺の変を知った後の長可の反応は早かった。信長なくして信濃の維持は到底無理と察すると、た

だちに信濃4郡を放棄して旧領金山に向う。新領地に固執して、その場を動かなかった河尻秀隆が放棄

された領民によって命を落とすことを考えれば、長可の判断は的確、かつ迅速だった。

更には長可のあの気性、きっと光秀を攻め滅ぼしてこの仇を討たん、と思ってもいただろう。もしかすると、

森政権樹立まで考えていたかもしれない。

「いいチャンスでござる。」長可を亡き者にせんとする春日周防や木曽義昌らが長可の行手をはばんだ

が、そして長可が木曽義昌の居城、木曽福島城へ立寄ったところを暗殺しよう、と東美濃諸城主らが立

ち上がったが、暗殺計画を事前に知った長可は、予定よりも1日早く福島城へやってきた。行くんかい!

まだ何の暗殺の用意も整っていない義昌は大焦り。とにかく、子の岩松丸に茶を運ばせた。長可は毒

と疑い「茶は無用。その子に飲ませるがよい。」といいつつも岩松丸を人質にさらって城を出てしまった

ので暗殺計画は失敗した。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■東美濃を獲る■■■■■■■■■■■■■■■■■■

金山城に帰り着いていたときには、すでに光秀の首はエテ公に獲られてしまっていた。もう京にのぼる理

由もない。金山でご近所の領土を脅して盗りまくって、東美濃を平定した。たぶん、ひまだったのだろう。

長可は岐阜城主神戸信孝(信長3男)に仙千代(後の忠政)を人質に差し出していたが、義父の池田恒興

に従い秀吉の傘下に入ることに決めた。仙千代殿は見捨てるしかない、という話になったが、「私の肉親

はもう”せん”しかいない。出世したって、たったひとりの弟を亡くしてはもう何の生きがいもない!」と長可

が暴れたため、仙千代救出大作戦が始まる。岐阜城から仙千代を30m下方の布団の中に突き落としてテ

イクアウト!見事に救出成功!よかったね、仙千代君♪どういう防備をしとんじゃ、岐阜城。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■初めての敗北■■■■■■■■■■■■■■■■■■

天正12年(1584年)豊臣秀吉と徳川家康の決戦の時がきた。秀吉が来る前にやっぱり長可は飛び出して

しまった。岳父の池田恒興が犬山をとったから、戦国一の負けず嫌いは自分もやっちゃえ!やっちゃえ!

と思ったのだろう。

尾張の羽黒をのっとろうと3千の兵を引き連れくりだした。これを事前に察知した家康は、酒井忠次の進言

を入れて、長可が羽黒にたどり着いて陣形を整えないうちに数倍の兵を差し向けてきた。悲しいかな、長可

は勇気あふれる若者だけれど、知謀に長けた老獪な酒井忠次の前では赤子の手をひねるようなものであ

った。うう、、しくしく。長可に騙されるのは木曽義昌レベルだったのか。長可は思いもよらぬ奇襲に怪我を

負い、孤立したまま無残な敗北を喫してしまった。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■怒れる鬼■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

長可は羽黒の合戦での屈辱を怒りにかえ、決死の覚悟で次の合戦に挑んだ。死装束を鎧の下に着込んで

の出陣。失態を回復するために、三河の岡崎を攻撃し、家康を小牧の陣地に孤立させようという作戦を決行

した。こんどは、ちゃんとお義父さんと一緒に大将の秀吉に許可をもらって。ただ、これも家康に筒抜けだった。

両者は長久手で激突する。長可は鬼武蔵の名に恥じぬ勢いで家康めざして敵陣に切り込んでいった。一時

は徳川の第一線を崩した。その長可に向かって、徳川隊は一斉に銃口を向けた。長可の身につけた白い死

装束が格好の的となったという。井伊の兵の鉄砲に射抜かれたともいい、奥平の兵の鉄砲に射抜かれたと

もいい、眉間を打ち抜かれて落馬した長可の首は、家臣が死守して持ち帰ったといい、また
本多八蔵があげ

たともいう。

鬼武蔵らしい、壮絶な最期であった。

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