長可逸話
鬼と呼ばれた男の生きざま 2  07/05/21更新   1へ  ほーむ

 

信長:「若き武蔵守に一命を捨てさせ候ようにしかけんこと、不届千万なり。」

 


■ カラスヘビ事件

 天正12年3月17日。森長可は油断して犬山を池田恒興(←味方!岳父!!)に乗っ取られたのを無念に思い、恒興にも知らせずに犬山より先へ越し、羽黒の八幡林を背にして小川を隔てたところに陣取って、ひと働きしようとしていた。
 そうしたところに林の内拝殿の脇より大きな烏蛇(カラスヘビ)が出てきたので、神主はこれを見て
「これは八幡宮の神霊なるべし。ご勝利疑いなし。」
と、長可に祝い事を述べた。長可は血気さかんな勇将なので、この蛇に飛びかかり
「何が八幡の神体だというのだ。我は八幡に勝利を頼らぬわ!」
と蛇を捕えて口から尾まで2つに引き裂いて、神主の顔に投げつけて「今日の門出よし。」と祝った。
 以前、これと似た状況があったので長可はなおさら腹を立てたようだ。(『長久手合戦記』)

コメント:『長久手合戦記』より。これを書いたとされる丹羽氏次は、いいネタを沢山持っているので嬉しいです。
この逸話、何より最後の1行にものすごく笑ってしまいました。
( ※1へ■『ごっくん』参照)
カラスヘビは毒は無いけど獰猛なので、長可に憧れるあまりにヘビを見つけて反射的に飛びかかったり、引き裂いたりしないでくださいね。


■ 長可の名裁き

  (武田攻めで)森長可は、同じ先手の河尻と毛利を出し抜いて、夜明け方に武田方の敵将・仁科盛信の籠もる高遠城を攻めた。
 おおかた攻め終えた時に、長可は自ら筆を取りこの旨を大将の織田信忠に報告。追って信忠より黄母衣の桑原吉蔵という検分役が遣わされた。

 桑原が裸馬でかけつけた時、(長可の家臣)林長兵衛為忠は踏み石に腰をかけ各務兵庫元政は縁(えん)に腰をかけて休憩していた。兵庫が長兵衛に「桑原が来たので攻め入りもうそうか。」と声をかけると、長兵衛、「私の鑓(やり)は柄が長くて、座敷の攻め合いにはどうだろう。」と答えるので兵庫は縁から飛び下り、石に押し当てて長兵衛の鑓の柄を踏み折った。
長兵衛はその鑓を捧げて一番に座敷へ入って一番首を取り、織田信忠に持参した。それを見た兵庫、長兵衛にだし抜かれたと自分も座敷へかけこんで首を取った。

「私が長兵衛に先に言葉をかけたから、長兵衛は座敷へ入って功名をあげたのだ!
言葉をかけた者が一番の功名だ!」と兵庫が長兵衛に言う。

長兵衛も「何であろうが一番に座敷に攻め入って一番首をあげた者が功名だ!」
と厳しく主張。

それをお聴きになった長可(武蔵守)殿、
「兵庫の鑓の柄は長く、長兵衛の鑓の柄は短い。鑓と長刀という訳で、
短くて早かったのだから、この度の一番鑓は長兵衛だ。」と裁判なさった。(『林家覚書』)

コメント:この場面は当時の合戦中の些細な一場面まで生き生きとよみがえらせてくれます。
長可は字が巧かった(能筆)そうで、腰より矢立を取り出して自ら筆をとり信忠に報告しています。
兵庫の縁からジャンプには思わず笑ってしまいましたが、ところで鑓の柄って、折ろうと思えばそんなに簡単に折れてしまうものなのですね。
そして功名に対する口論勃発。(兵庫の主張もどうなんだ…。)
自分の家臣のこういう事まで長可はおさめなくてはいけないのか、大変だなぁ、と思いつつも、違う角度からスルリとツッコみを入れ、誰もが納得できる名裁き。さすがは長可です。   


■ 長可の胸のうち

駿河と遠江の2国を条件に豊臣秀吉へ味方するよう、秀吉の使者の尾藤甚右衛門と細野主計が森長可の元へやってきた。
長可が「駿河と遠江の両国に、甲州を添えてくだされ。」と願ったところ、使者の細野が言う。
「かねてより秀吉様が仰せには、”武蔵守(長可)は度量の大きい人物であるから、甲斐も一緒にと望んでくるであろう。しかし、
その事は武蔵守に言わせないようにしろ。言わせておいて わしが甲斐を遣わさねば、わしもその事が気がかりになってしま
うし、武蔵守もその事が気がかりになってしまうだろう。その上、甲斐は他の人物に約束する心づもりがあるので、そう伝えよ”
との事でした。」
その話が出終わるや、長可は、はらはらと涙を流し、しばらく物を言わずにいたが「ならば、本領の金山と遠州・駿河をくださる
ように。」と言った。しかし、尾藤と細野は「その訴えは先に延ばしてください。是非とも駿河・遠江の2国ということでお受けくだ
さい。」とつっぱねた。
2人の使者が帰った後に、長可はそばの小姓にこう語った。「あの2国でも生業に不自由はないけれど、駿河・遠河・甲府の3
カ国を取ることができれたならば、そのほう達にも小城を1つずつ持たせることができたのに、そなたらは運が悪い。」と眼色を
変えた。実は長可には大いなる志をあったのだろうと察することができた。(『森家先代実録』ほか)

コメント:森武蔵守長可を、あの鬼武蔵を泣かすとは・・・・。戦場ではあれほど強気でむこうみずな長可に、こういう駆け引き場面で素直に泣き出されてしまうと、読んでいるこっちがオロオロしてしまいます。
家臣に、家臣みんなに良くしてあげたいのに、それができない-----頬に伝わる長可の愛のしずく。
『森家伝記』にある話では、甲斐を断られた後に「金山と近江をください。」と近江も入って欲張りセット(長可的にはまだ謙虚?)になっています。でも、森長可には、これくらいのボリュームある国主になっていただきたかった。


■ 鬼武蔵の首争い

  (長久手の合戦において長可が鉄砲に当たって絶命、落馬したところ、その家来が長可の遺骸を肩にかついで逃げた。それを本多八蔵が追いかけていくと、家来は長可を捨てて逃げてしまった。しかし八蔵も「長可の首を首実検に持参しても、拾ってきたと言われてしまう。」と懸念。幸い、この戦では”首を取るに及ばず”との命だったので、長可の鼻を削ぎ、腰刀を抜いて持っていった。)
 その後にこの場所へやって来た武者が1人。
長可の遺体を見て走り寄り、自分の旗指物を捨て、長可の白い陣羽織を引っ張って長可の首を包み、自分の鑓にそれを括りつけて、長可が乗り捨てた馬に飛び乗って井伊軍の前へ駆けて行った。
武者は「鬼武蔵といえる大将を我ひとりして討ち取ったり!!!」
と大音声をあげて「これを見よや、これを見よや。」と言いながら通っていく。
 皆は、彼が当然、首実検の場に長可の首を持っていくかと思い「実検の場所はそっちの方じゃないぞ。」と呼びかけるのだけれども、武者はそれを聞き入れずに通りすぎて行った。

 その武者は森長可の小姓の田中某と言う者で、長可の首を金山に持ち帰ったのだった。
後にそれを聞いた徳川家康も「敵の首を取るよりも、敵に奪われた首を取り返せる事のほうが莫大な高名だ。」と褒め称えた。
『長久手合戦記』

コメント:森家好きにとってはとても胸のすくお話ですね。素晴らしいです田中某(それがし)。やっぱり小姓は機転がきく。そして、きっと長可のことを慕っていたのでしょうね、田中某(それがし)。
小牧長久手の戦いで徳川軍の道案内を務めた岩崎城主の丹羽氏次が合戦の翌年に書いたとされる『長久手合戦記』からのお話です。


■ 武蔵塚のヒミツ

 私(丹羽氏次)が安昌寺の帰りに池田恒興の戦死場所に立ち寄ったところ、違うところに塚が建っているので、農民に尋ねると
「勝入の討死場所はご存知のように向いの欸冬畑であるけれど、そこへ建てても今は無益(今日の費)だから、五反ばかり上に寄せました。末の世になれば、このような場所にあることに昔は疑念を持たれたのかと、人々は不審に思うでしょう。」と笑った。
 森武蔵塚も討死の場より五、六反下の場所にある。これも近所に尋ねたら
「骸(むくろ)のあった場所だったので、ここに建てました。」とのことだった。
私(氏次)は笑って話した。
「武蔵(長可)が鉄砲に当たって落馬したところ、家来が(長可を)肩にかついで五、六反も下に逃げ、それを本多が追いかけて首を取っていたんだから、討死場所は五、六反も上のほうだ。私はその時に実際に見たんだから。」と語ると、みんな笑った。
 之助塚は、討死の場所に相違ないけど、自分は見たわけじゃないから確かかどうかわからない。『長久手合戦記』

コメント:岩崎城主・丹羽氏次が合戦の翌年に書いたとされる『長久手合戦記』からのお話です。欸冬(カントウ)とは、フキのこと。
丹羽氏次にとっては、塚の場所が違う事は重大なミスであっても、人々にとってはどうでもよいことなのかも知れません…。
 この氏次の弟・丹羽氏重(16)は、岩崎城で兄の留守を守っていましたが、徳川家康の本拠地三河を衝こうとする池田・森らの2万の軍勢を城下で食い止めようとして戦をしかけ、岩崎城にまで攻め込まれてついには全員(160名だったとも、300名ほどだったとも)が討死しています。
氏次にとっては、森長可に対しても、格別な思いがあるのでしょう。

 


■ 長可の名

長可は永禄元年戊午年のご誕生で、16歳より信長公へ仕え、その時信長公より諱の一字を賜り「長可」と名乗られた。
また、従五位下、武蔵守に叙任された。(『森家伝記』)

コメント:「長可」というその名は、父・森可成と主君・織田信長の双方の名を受け継いだ誇り高き名前。自分の名を汚すことは、2人の名を汚すこと。森長可の生きざまを見るにつけ、そのような気負いとプライドが彼の五体と流れる血の隅々にまでいき渡っていたように感じます。
「武蔵守」という名乗りについては、長可が武蔵坊弁慶のように強かったので信長が「武蔵守」を名乗らせたという逸話もあり、諸本色々と違った由来が書かれています。本来は、官位は朝廷より叙任を受けるのが正式なので、官位名を持つ人も数に限りのあるハズが、この時代は武将のみなさま勝手に「〜守」を名乗ることが多かったようです。
ちなみに、武家にとっての憧れブランドは「秋田城介(本来は秋田城守兵長官)」や「上総介(本来は親王の任国なので守ではなく、介を置いた)」などでした。ご存知のように、織田信長の名乗りは「上総介」、織田信忠が叙せられたのは「秋田城介」です。


■ 長可を追い詰めたあの男を

 豊臣秀吉が小田原に北条氏政を攻め亡ぼして帰陣の節、尾藤甚右衛門知宣(もと讃岐国領主)が僧形にて下野まで出てきて直談してきた。黒田勘解由が執り成して「尾藤が出ました。」と秀吉に申し上げれば「東国にも尾藤という者がいるのか。」とおっしゃった。
 「甚右衛門でございます。」と説明すれば、秀吉は中間(ちゅうげん)に尾藤甚右衛門の両手を引っ張らせて、牧野兵三郎にこれを斬らせた。
 さて、秀吉は長谷川甚兵衛を召し出して馬の片口を取らせ
「その方でなくては知る者はなし、ただいま尾藤を成敗したのだが、あの尾藤めは凡卑なる者を過分に取り立てて讃岐の半分を遣した。ある年には、尾張の羽黒において、血気燃え立つような若武者の森長可にすべきでない軍分けを勧めて勝利を失わせたのに、長可が気欝になると考えた尾藤は老功ゆえに早々に軍を引きあげて過ち無くして済んだ。その時私は”これはひとえに軍法に照らして正しい事である”と尾藤に七千石の加増を遣した。しかし長可は羽黒で後れを取ったことを気にかけて何の恩賞も求めず小牧で討死してしまった。またある年、大隅の高城に豊臣秀長が陣取り、そこへ島津軍が夜襲をかけてきた時には、先方一番に取り合って働くところを尾藤めは出て行かずに手筈を狂わせた。その他、筑紫城攻めで高名もあげずにいたので追放を申し付けたのだ。この度も私が出陣する駿河まで来て戦の先手にもと望んでくれれば宥免もしたであろうに、関東も静謐になってから出てきたのはいよいよの腰ぬけなのでこのように申し付けた。諸軍勢へこの旨を申し聞かせよ。」と上意があったとのことだ。(『森家先代実録』)

コメント:尾藤甚右衛門知宣は、豊臣秀吉が小身の時から仕えていた家臣で一度は讃岐国まで与えられましたが、上のような理由で所領没収されたにもかかわらず、秀吉の元へ許しを乞いに現れたので切られてしまいました。
しかし、森長可自身は尾藤甚右衛門のことを信頼していたようで、あの哀しい遺言状を彼に宛て、後事を託しています。
この逸話の解釈では、秀吉は尾藤の羽黒における”正しくはあっても卑しい戦い方”に内心は怒りを感じていて、長可の事を不憫に感じていたということでしょう。
”尾藤めは出て行かずに手筈を狂わせた。”と訳した部分、原文は「尾藤めハ大伏りヲして手筈ニ不合」なのですが、”大伏り”がよく判らず、このようにしました。正しい訳をご存知でしたら教えてください。
あと、原文「血気もへ立(燃え立つ)様なる若武者の武蔵守」の表現が何とも素敵です。燃えてますもんね、鬼武蔵。


つづく、、とうとう2頁目ですね。

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