長可逸話鬼と呼ばれた男の生きざま 1  09/06/21更新   へ  ほーむ
今の浮世は結構ずくし 森の武蔵に池田がなくば 諸国諸大名は長袴♪





■ 長可のてがかりは・・・・・

 長久手の合戦で長可が討死した時のこと。
長可の遺体は戦場に打ち捨てられており、合戦の後にこれを探したけれども死骸が多すぎて判明しなかった。
 しかし、厩別当の野呂又助は長可が馬に乗っていた時に常々お側にいたので、日ごろ長可が大鼓(おおつづみ)をたしなまれて手の指が破れているのを知っており、それを手がかりに長可の遺体を探し出し、4月13日に金山に連れかえった。

コメント:長可・・・首がない遺体を探した時の話です。
大鼓(おつづみ)とは、とても堅い馬の皮を使用しているので、素手で打つとかなりの衝撃があり、通常は手にプロテクターをはめて演奏するそうですが、指の皮が破れていたというのは、長可は素手で大鼓(おおつづみ)を鳴らしていたのでしょうか。鬼と呼ばれた長可も、このように優雅な趣味もあったのですね。ちなみに、厩別当とは厩馬をつかさどった役職のことです。


■ 長可は何でも知っている〜♪

 度会永弘という神主が淀船に乗ろうとすると、先に乗船していた武家の郎等らしき人々が「急ぐ船だから乗せない。(`´)」などと言った。けれど永弘はどうにかこうにか乗船。そうしたところ永弘の召使と先ほどの郎等が喧嘩を始めてしまった。郎等の威張りっぷりに永弘も頭に来て神木で殴ろうとしたところ、船中の人達が立ち騒いで止めに入った。
 そこから船が1、2里進んだところで、堤の上に100余りの軍勢がいて、みな黒羽織を着ていた。彼らに武具を持せたその人は床机に腰をかけていたが、使いをやって「その舟を止めよ。」と言う。永弘は何事だろうかと思うと、その使いが言うには「堤におりますのは森勝蔵(長可)にございます。先ほど太神宮の御師のあなた様に無礼をしたのは我が家の家臣、腹立ちのおさまるようにお好きにしてください。」との事だった。
 永弘は船から降りて堤に行き、長可に畏まって申し上げるには「そのお気持ちをありがたく思いますが、私が太神宮の御師ということと、先ほどの事とは関係のない事です、しかし詫びるのが作法でしょう、まして、自分のせいで起こったことなので、ご免くだされ。」と申せば、長可殿は「長年太神宮を信仰し奉るところに、私の手下の者どもが無礼をするのは恐れ多きことゆえ、殺すべきと思ったが、そのほうが詫びを申すのを、あれこれ言うのも無礼なことだ。許そう。」とおっしゃる。永弘はお礼を述べて急ぎ舟に帰った。
「どうやってこの事が解ったんだ?堤よりご覧になっていたのか?不審だ・・・。」と永弘は物語った。

コメント:長文だったので、主旨だけ拾って書きました。長可に対するツッコミは、最後にこの神主さまが入れてくださっているのでもう何も言いますまい。不審だ・・・・。「度会(わたらい)」という名字は、伊勢神宮の関係者のようですが、原文にはどの神社のことかは書かれていませんでした。いいなぁ、森家の郎等とデンジャラスクルージング♪


■ 渡ろう。

 元亀四年、足利義昭が裏切って宇治の槙島に立て篭もった。それを信長が諸将を伴い包囲し、長可は宇治の五ヶ庄尾崎というところで陣を張った。翌朝の卯の刻に川を渡るという事であったが、梶川弥三郎は宵より味方の備えを忍び出て宇治川の傍で夜を明かして、未明に先陣した。池田秀雄も一、二を争い川を渡った。長可も若手の身で老功のものを欺いて渡河した。でも義昭は夜逃げしてたので誰も高名をあげなかった。

コメント:信長はこの一件で義昭を追放して室町幕府が滅びるのですが、やっぱりいつでも長可はノリノリだい。宇治川の流は、すさまじく、あちこち逆巻いていたので、信長は「モタモタすんなら、ワシが先陣をとる!」と全軍を鼓舞して宇治川を渡らせたくらいだけど、宇治川の怒涛の流れなんて関係ない人には関係なかったもよう。


■ 新井白石先生?ジャロへ電話するぞ。

 少蔵は信州の伊那を領す。信長の変事には領地にいた。上方へのぼり、賊を討ち、太閤秀吉より美濃金山を賜り、武蔵守長一と云う。蘭丸の領土をあわせると十万石であった。弟の千之助を養子とした。これが右近忠政である。長一は長久手で死んだ。

コメント:”しりょう”のページに入れるにはあまりにも忍びなかったため、こっちに掲載しました。新井白石先生は、その著作の所々に森家をだしてくださいますが、出だしから間違ってるジャン!!×少蔵→勝蔵。(勝手に”少”なくしないで。)(TT)「もう、光秀死んだんだ。」と長可兄貴は上方行かなかったし。ご近所いじめに忙しくて、賊も討ってないし。金山はもともと俺様の持ち物だし・・・。突っ込みどころ、満載でした。何より弟の”千之助”が大爆笑です。まぁ、弟さまのお名前は”せん”なので、仙千代でも、千丸でも、千之助でも、どう呼んでもいいのだろうけど、”千之助”だけは、耳慣れないせいか、イメージかわっちゃう気が。しかも、弟を養子ですか?!なにゆえ?!
新井白石、この方のやった正徳の治を授業で覚えたなー。



■ ひざかじり男。

 長可の足にできものができた。これを家来の武藤に見せたところ、塩を口で噛んで足に塗り、「さてさて、細きおスネを、このおみ足を家中の者がかぶりつきましたよ。」と笑ったという。

コメント:ということは武藤どのは、口で直接長可兄貴のおみ足に塩を塗ったんかい!でた、武藤式人間練りだしチューブ!!


■関所破りをする。

 上様が念願の上洛を果たし大名を京へ招集したとき、幕府は関所を設け入京する者を厳しく改めた。長可は先を急ぐと馬上から名乗っただけで、のこのこ通り過ぎようとした。役人達は槍ぶすまで長可の行く手をさえぎると、怒った長可はたちどころに役人の首をはねた。緊急事態に役人らが木戸を閉鎖したので、長可は火を放たせ混乱に乗じて入京し、上様に事の次第を述べ切腹を申し出た。さすがに上様も呆れ果てたがこれを許した。

コメント:兄貴、怖い、、、こんな話聞くとさすがに蘭丸もしびれたでしょう。。忠実に役目を果たして殺された役人がかわいそう、、。


■また乗り打ち。

 信長の命じた近江の瀬田橋が完成したが、(信長の?)”渡り初(ぞ)め”がないうちは、その橋は使用禁止にして、依然として舟で琵琶湖を渡ら
せた。その瀬田へ、長可がやってきた。
「橋が完成していないのなら舟で行くのは当然だが、橋が完成しているのに”渡り初め”がないからといって舟に乗るなんておかしい!」そして、渡り初めがないというなら、自分が渡り初めをする、と言い張り橋の柵をぶち壊した。橋奉行の当番、山岡美作守の家来が狼藉者・長可の馬の
口をとらえて舟で渡るようお願いしたが、長可、この者を切り捨てた。「誰かある。とどめをさせ!」の声に、森家家来が番人のとどめを刺した。
 その後にやってきた長可家臣の大塚丹後は、この有様を知り馬より飛び降り橋の上の番人の死骸を水中に放りこんだ。さらに自分の着ていた羽衣を脱いで橋板の血を掃除して、後から追ってきた山岡家の家来たちに、
「武蔵守(長可)が、うちの中間(ちゅうげん)を始末しました。お騒ぎめさるな。」と大嘘をついて退散した。そのときは、山岡家も「あ、そうなんだ。」と黙っていたが、後から死骸を引き上げて自分たちの仲間が殺された真実を知ると、たちどころに大激怒した。(中略)京都にいたボスの山岡美作守はその事の次第を聞いて長可の狼藉ぶりを信長公へ訴えた。
 信長は、「このごろ方々で武蔵守(長可)は狼藉しているので、みんなあやつを鬼武蔵とよんで道を明けて通すらしい。山岡も堪忍せよ。」と笑った。

コメント:い、いや、信長公、そこ、笑うところじゃないですよ。しかも、他人事のように。もうなんか、兄貴の出現にはジャイアンのテーマをBGMにつかいたくなる。


■またまた乗り打ち。

 熱田の橋が完成して、秀吉は「身分の上下を問わず、下馬させ、歩いて渡るように」と浅野長政に申し付けた。長可は乗馬したまま橋を渡ろうとしたので、長政の家来が押しとどめた。長可は怒ってその者を手打ちにして橋を渡った。長可の家来が慌ててその死体を川に放り投げ、橋の上の血を始末した。そこへ浅野の家来のものたちがやってきたので、これは無礼打ちだと弁解して、長可の後を追い、そのことを告げると、長可は「そういう事だろうと思った。いいから放っておいてくれ。」とくれと言った。

コメント:とにかく、兄貴は馬からおりたくないんです。こういう兄貴の存在を見ると、蘭丸が物腰優雅なのに、気性の激しい上様の扱いは天才的だったのには、兄貴の存在が大きいと思います。こんな兄貴が身近にいたら、何でももう慣れっこになってそんじょそこらのことでは驚かぬ人間になってしまっても無理はないでしょう。


■ 馬丁を切る。

 上様が京都で御馬揃えを行った時、長可(22)はかつて悪事を働いた自分の馬丁が、のうのうと他の侍の馬丁になっているのを見つけたので、その場で刺し殺し、遺体をそのままにして帰宅した。その後で大騒動が起こったが、上様が上手く収めた。

コメント:兄貴に悪事をはたらいたものは、すべて消えゆく定めなのじゃ。上様は長可をかばって馬丁の関係者の仕返しを禁じたそうな。


■ けんかふっかけ。

 馬揃えの時に長可は、毛利河内守と不和になっていた。長可が河内守の馬丁を切り殺したのが事の起こりだったが、信長が長可をかばった形で決着してしまったので、河内守としては遺恨が残りそれをついつい口に漏らしていた。長可は長可で、その事を耳にし腹を立てていた。そしてある時、安土城で長可は河内守と行き合わせたのだった。他に人はいない。チャンス!!!ここで決着をつけてやろうとばかりに長可は自分の刀の鞘をわざと河内守の刀の鞘に当て、ケンカを売ろうと河内守の方を振りかえった。しかし、肝心の河内守は知らぬふりで通りすぎたしまった。(・_・)
河内守は信長公が長可殿を大切に思われているのを知っていたので、敢えてケンカにしなかったのだろう。

コメント:どこまでもどこまでも痛々しい人だ、兄貴。しかも、長可の嫌がらせは続くのであった・・・・。


■ いやがらせをする。

 天正10年2月。武田攻めに際し、長可は織田信忠に従軍したが、その中には長可の大嫌いな河尻肥前守と毛利河内守がいた。武田方の今福筑前守が敗れて深志の城に撤退している事実を、もと武田方の小笠原掃部信嶺が見つけて長可に内通した。長可はむかつく河尻と毛利にはその情報を知らせず、自分たちだけで敵を攻め、信忠に討ち取った敵の首を差し出した。
 しかし、長可は河尻と毛利を出し抜いたかどで信忠に叱られてしまった。

コメント:信忠がきちんとした人格者でホッとしますね。しかし、人の遺恨はつきぬもの。話は続くのだった。


■ いやがらせをうける。

 天正10年の武田攻め。信忠方の河尻肥前守と毛利河内守は、馬揃えの時から、同じ味方ながら森長可を嫌っていた。長可が彼らに内緒で軍を動かし手柄を立てたからもっと恨んでいた。今度は、長可を出し抜いてやれ。河尻と毛利は、長可に内緒で飯田の城を攻めた。夜になってその城が降伏したことを、長可は後で知らされ戦場へ駈けつけるはめになった。そこで敵の首は討ち取って手柄をたてたものの、大嫌いな2人に乗り遅れた長可の怒りはおさまらない。

コメント:河尻肥前守と毛利河内守にひとあわふかせてやる!長可の恐るべき計画が始まった。


■ いやがらせに命燃やして。

 「明日も河尻肥前守と毛利河内守の後手となってはどうしようもない。明日は未明から武田の大嶋城を乗っ取るぞ!いづれも精を出すべし!人の後ろに続こうとする若人は、只今から暇を遣わすので帰れ!」と長可は森軍団を叱咤激励した。
 そして長可は『大嶋城を乗っ取りました』との報告を手紙にしたため、これを大将の織田信忠に送ろうとしていた。
「……まだ出陣もしていないのにそんな手紙を出すのはいかがかと思う。城を落してから信忠公に申し上げなされ。」
と、林新右衛門が孫の長可に注意した。
「いやだ。」
祖父のいうこともきかず長可は、大嶋城に出向く前から信忠に”大嶋城を奪った”報告をしてしまった。

コメント:ここまでの負けず嫌いが、かつてこの世に存在しただろうか・・・・。さて、その結果は?


■ 天正ラッキーボーイ。

 大嶋城を乗っ取る前から”城を奪った”との嘘報告を信忠にした長可であったが、翌未明に大嶋城へ行くと、なんと、城内の兵は昨夜の内に逃げ出してもぬけの空だった!

コメント:嘘から出たまこと?・・・というのか、とにかく敵が逃亡してくれたおかげで、長可は事無きを得ました。上司までだますのはよそうね。


■ 改名。

 長可はもともと長一と名乗っていた。近習が「あなたの名乗りの一の字は滝川一益という勇将と同じ文字ですね。あなたも勇将ですしね。」と褒めたら、長可は「何で俺があんなやつの真似しなきゃいけないんだよ!」と席を立った。翌日、「長可」と改名の披露をした。

コメント:ほんと、兄様にはうかつなこと言えませんで。ひとこと言うたび、とかくプチプチ、シナプスが切れちゃうみたい。でも、たしかに蘭ちゃんとは兄弟。


■ 長可君のお言葉。

 長可がある時言った。「馬商人は馬をよく見、鷹師は鷹をよく見、犬好きは犬をよく知る。人のこともまた、言葉立居振舞いをよく気にかけてみれば判らぬことはない。」

コメント:そうです。その通りです。町で馬に乗ったまま関所を通ろうとするお侍さまを見かけたら、「ああ、注意すれば死ぬわ。」と悟って見ていないふりをしましょう。


■ 人間無骨

 ちなみに、長可が戦で携えていた人間無骨という槍は、今も森家に伝来しているという。玄関にかけてるのがそうだと森右兵衛佐が言うので、注意して見たけど、なるほど、大きな十文字の槍。立ち寄って見たけど、さすがに番の人がいる前だったので森殿に頼んで図を写させてもらった。(中略)鬼武蔵は戦のときに首を取ってこの槍に刺して、槍をたてて突いたら十文字を突き抜けて下までいってしまった。剛の者のなす技といっても、これはやはり槍の刃のすごさだ。森家では旅行では必ずこの槍を身辺に持参する。(中略)しかし、倉が焼けたと聞いて、槍はどうなったのかと森右兵衛佐に尋ねたら、「焼ける前にレプリカを作ってそれを持ってきたから。本物は赤穂城にあるので大丈夫。」ということだった。おもうに、この槍には長可の霊がやどっているのだ。

コメント:私がきいた話では、この十文字の名槍人間無骨の(本物)はある所有者の手に渡って燃やされたとのこと。せめてレプリカはどこに残っているのでしょうか。。?国立博物館など心当たりをあたってみましたが謎のままです。


■ 高遠城落城

 武田方の武将、仁科五郎信盛は前髪の美しい19歳の少年だったが、織田信忠に最後まで抵抗しぬいた。そこで長可軍団は高遠城の屋根に登ると、板をめくって上より敵をことごとく発砲攻めにし、その城内は血にあふれ、悲惨な最期を迎えた。信盛は自害、ついに城は落ちた。これによって長可らを”屋根葺衆”と呼んで笑った、と村人は語った。

コメント:怖い。敵に回すと本当に怖い。蜂の巣にされてしまう。兄貴の3次元的攻略法、上も下も油断なりません。


長可暗殺計画(パターン1)

 本能寺の変の混乱の折、長可は川中島は海津城にあった。長可が本能寺の変を知れば、ただちに美濃金山城に帰るはず。木曽義昌の居城、木曽福島城へ立寄ったところを暗殺しよう、と東美濃諸城主らが立ち上がったが、それを事前に知った長可は、予定よりも1日早く福島城へやってきた。まだ何の暗殺の用意も整っていない義昌は大焦り。とにかく、子の岩松丸に茶を運ばせた。長可は毒と疑い「茶は無用。その子に飲ませるがよい。」といいつつも岩松丸を人質にさらって城を出てしまったので暗殺計画は失敗した。

コメント:みんなわかってない。。。兄貴のほうが上手です。25歳で信長さまに、おとなりは上杉という土地、信濃4郡を任せられるんです。


■ 長可暗殺計画 (パターン2)

 本能寺の変の混乱の折、長可は川中島は海津城にあった。長可が本能寺の変を知れば、ただちに美濃金山城に帰るはず。木曽義昌の居城、木曽福島城へ立寄ったところを暗殺しよう、と東美濃諸城主らが立ち上がったが、それを金山の町人が帰国途中の長可に告げた。長可は、一計を案じ木曾義昌に『疲れたので明晩あなたのお館で一泊させてください』という手紙を出した。木曾義昌は陰謀をめぐらし明日を待った。ところが、その日の真夜中、木戸大門をぶち壊して雷落のごとく長可が福島城へ乗り込んできた。義昌は太刀を手にして向かおうとしたが、長可は礼を正して挨拶した。
「夜陰にまぎれての押しかけてきた無礼はごめんくだされ。それがし金山に早く帰りたいし、この暑さで兵馬もひどくつかれているので、夜の涼しさをこれ幸いと遠慮なく来させてもらいました。」
 木曾義昌は夢うつつ、その家中も驚きあわてふためいた。やがて、長可の家臣は義昌の子供岩松丸をつかまえてきた。長可は、「なんと立派なお子様か、私には子がまだいないので、唐突だけどこの子を私にください。養子にします。」と言いはじめ、無理やり岩松丸を奪い取ると「今からおまえは鬼の若殿だ。」といいながら出ていって、長可を暗殺しようとしていた木曾義昌はまんまと鼻をあかされた。

コメント:木曾の家臣が「まだ幼少ですから」と岩松丸を連れていかせまいとしているのを、森家の家臣たちは「えーい、見苦しい!」と言って怒り出す。こわいよー。無理やり家に不法侵入してきてその上、うちの子供を拉致しないでー(義昌涙)。でも、やさしい長可さんは翌日にはちゃんと返してあげました。


■蘭丸・坊丸・力丸死す_____母の涙。

 (森長可は本能寺の変の報を聴き、信濃国から命がけで金山城へ帰城した。)すぐに長可は母公の前にお出になられたが、ただの一言も、もの言わず、ただ涙にむせぶばかりであった。母公は長可の側に寄り、鎧の袖をつかんで泣いた。
「しばらくぶりですね、武蔵どの。さてもどうしようもない事です。世の中に、武士ほどはかないものはない。元亀の初めに三左衛門(夫・可成)殿に先立たれた時は、その事ばかりを考えていたが、あなた達兄弟5人がいること故、それを慰めにしてしばらく歳月を過ごしてきた。ここまで皆成長し、その立派な武者ぶりを見るにつけ、ああ、なんて器量ある者どもかな。我が子に勝る者はおらぬであろう、と、人の持たざるものを持つように嬉しくて、朝夕姿を眺めて感動する時は、もはや三左衛門殿のことも忘れ、我が子を月よ花よと思い、私はなんという果報者かと、人にも語り、自らもそう思っておりました。蘭丸、坊丸、力丸、3人ともに信長様へ召し出され、中でも蘭丸は器量人に勝る発明ぶりは他の者を抜きん出ていると耳にし、私は武運の久しからんことを、神にも仏にも祈り、子孫の繁栄を目にしたくて、我が身の百年の命をも祈りました。それなのに、3人とも本能寺にて討死したというではないですか。この身のよんどころなく、共に自害をもして果てようと、千度、と百度と思いました。又、ある時は思い直して、主君の共をして華やかに討死するのは武士の面目と考えて忘れようとしました。しかし朝夕、人が語るのを聴くにつけ、忘れるひまもなければ、何の因果でこの身は存命しているのかと考え、あの子達のもとへ参ろうと、我が如来様にお暇(いとま)を申し上げ、どうかお迎えに来てくださいと、日に何度も心乱していたが、武蔵どのも、
仙千代もやがては帰って来てくれると待ちわびました。道中危険があったと聞いておりましたが、よく恙無く帰って来てくださいました。こうして逢うことが叶った事の嬉しさは、夢ではないでしょうか。」
妙向尼のこの言葉に、長可は涙を押さえて語った。(『兼山記』)

コメント:長文です。あんなにできた子がいれば、それは人に自慢したくもなるでしょうね。よくわかります。私の子が蘭丸のようならば、町内にスピーカーで宣伝カーを走らせます。しかし、母、暗殺されかけて疲れて帰ってきた長可どのに語り尽くしますね。長可の言葉は下に続きます。


■蘭丸・坊丸・力丸死す_____兄の涙。

 長可は、母に語る。「お嘆きなさいますな。そのようにおっしゃられても、この世は生者必滅、会者定離の習い、驚きなさることではございません。殊に武士の家に生まれたならば、戦場に出て、生きて帰ろうと思う者は一人もおりません。恩賞をむさぼり、利益を願う事は、家名をけがすのみでなく、子孫を滅ぼす事でございます。武家にお生まれになられた上は、女性であっても、その道理をご存知ないはずがございませんでしょう。
お嘆きを辞め、念仏を怠らずに唱えてください。母上の回向は、今生にては、我ら仙千代の為の祈祷となし、未来にては父・可成様と3人の者どもの為の祈祷となしてください。みな、一連の縁となりますようにとお祈りください。」そうやって長可は様々にお諌め申し上げた。(『兼山記』)

コメント:長可殿も可愛い弟の死が悲しいのですが、ここは心を鬼にして母を諌めます。しかし、投げかけられたその言葉に、母、ちょっとカチンときたもよう。更に母の言葉が続きます。


■蘭丸・坊丸・力丸死す_____母の言葉はまだまだ続きます。

 「昔の聖人である孔子も子に先立たれてお悲しみになられたと聞く。文の道の太祖でもなお、かくの如くですよ。ましてやこの濁乱の末の世においては、子を失う事はどれほど悲しいことか。3人の最期の時に思いました。こうなる事と知っていたならば、もっと懇ろに子供の顔も見、暇乞いもしただろうと。そうは致さず、信長様に召し出された嬉しさに取り紛れて、しみじみと何を為すこともなかった。他事でも悔いが残る。あの子らが討死する10日ほど前に、3人とも文を送ってくれました。いずれも同じ事を書いていたのですよ。”とりわけてこの頃は、母上の事を懐かしく感じます。この夏の間に上様は西へご下向なさいます。ですから3人共、しばらく暇を願い出て、母上の元へ参ります_______。”あの子たちに、お目にかかりましょうね、と申す嬉しさ、その日を今か今かと待つところへ、思いもよらず討死とは。3人の文を袖に入れ、朝夕あの子らが恋しい時には、繰り返し読んでいるのですよ。」と妙向尼は語り、3人の文を袖から取り出した。
 武蔵守(長可どの)はそれを読まれ、母の申す世の中の道理に感じ入り、深く嘆き嗚咽した。
武蔵守、「早く奥に入り、お心を休めてください。」といえば、女房たちが母の手を取り奥に入られた。(『兼山記』)

コメント:そして、母は出家し、妙向禅尼と名乗ったと、文は続きます。Σ(゚□゚; 二度出家?!寺伝では、夫の可成が亡くなった時に出家なされたはずが、『兼山記』では本能寺の変の後に出家なさっておいでです。


■ 弟のお葬式の日に、、、、

 天正10年、馬串山米田城(福島城)主肥田玄蕃のもとへ長可から「馬串山をくれ。」という申し入れがあった。玄蕃はこの理由もなき長可のむちゃくちゃな提案を拒否したために、長可は立腹した。蘭丸らが本能寺で亡くなると、長可は6月22日、弟の葬儀をしながらそのまま鎧に脱ぎ替え出陣、スキをついて米田城を奪った。

コメント:敵の不幸時にスキをつく武将は古今東西沢山ありますが、自分の不幸時に敵のスキをつくのはこの方くらいなものでしょう。
     弟の葬式の時くらいじっとしててください。さらに、出陣のときには、1兵に松明を2対ずつ持たせ、軍の数を倍に見せようという、
     木曽義仲戦術を考えたとか。。ちなみに、『肥田軍記』に兄貴についてのコメントがあります。ついでですのでご紹介しましょう。


井原小市ものがたり

 馬備えの井原小市というものが、帰陣の折りに、こけた。腰に差していた大小の刀が鍔のところで折れて飛び散った。実はあまりに貧乏なのでやむなく武士の魂とも言うべき刀の中身を売って、代りを竹でこしらえてさしていたのだ。皆の前で大恥をかいたので、森の御殿様は怒って手打ちにするだろうな。と家に帰って家族でおいおい泣いていた。かくして長可から呼び出しがかかった。「今日は酒宴だから、私の首を酒の肴になさるのだろう。」と小市は家族に今生の別れを告げ、登城した。
 城でただただ平伏する小市。「どうしたのだ?」という長可。「あれ、刀はどうしたのだ?」と尋ねる長可。泣く泣く訳を話すと、長可は大爆笑した。「面白いやつだ。敵にあったとき、刀が無くてどうするのだ。私は人を斬る気のない者を斬る気はない。」と備前「祐定」の大小を自ら与えた。殺されるとしか思っていなかった小市は夢うつつで刀をちょうだいし、こけた。

コメント:まわりの人々は、長可さまはなんと慈悲深い方なのだ、と感動したそうだ。しかし、「今日は酒宴だから、私の首を酒の肴になさるのだろう。」という小市のセリフはいったいどこからそんな発想がやってきたのだろう。長可さまは普段からこんなに慈悲深い方なのに。


■ 敵だけでなく味方もびっくりぎょうてん

 合戦の途中、長可が「小山観音に参拝するぞ」と少ない共を連れて、岩の陰に馬をとめ、兜を脱いで川でうがいなどをしていると、敵が川の向こうから攻撃をしかけてきて、矢の雨を降らせてきた。それなのに、長可は気にせず、無視してのんびりと登山して小山観音を参拝して帰ってきた。これを見て、敵も味方も、長可とはなんという運の強い武将なのだ、舌を巻いてしまった。

コメント:俺は参拝するといったら、戦が始まろうと、台風16号が到来しようと参拝するのだーっっ!!!『金山軍記』には「石身鉄腸の御運
強き武将」と表現しています。体が石でできていて、腸が鉄でできているのですね。


■ ごっくん。

 家康との戦の折、長可は、小牧山の東南・二ノ宮(大縣)神社に陣を張った。神主がやってきて言う。
「昔よりこの神は穢れを忌み嫌い給うので、精進潔斎なくては参拝することなりません。ましてこのように人馬を沢山押しこんで神域を荒らしては、神のお気持ちを計り難く存じます。早々に陣場を替えてください。」
長可は怒った。「悪き神主めの言うことかな。この戦は私の為の戦ではない。退け!」
神主は神前に向って祈る。「ご神意にそぐわないのでしたら、どうか神力にて追い払いたまえ。武蔵(長可)は私の手に負えず、このように神域が穢れてしまったことを口惜しく存じたてまつります。先ほどの武蔵の申すことは、神を神とも思っていないものです!」そうしたところ、一丈(4m近く)ばかりある蛇がでてきた。長可が「あの大蛇を酒の肴にしよう。」と言うので、家来の小市は大蛇に走り寄って切り刻んで長可に差し出すと、長可はそれをとってそのまま食った。

コメント:4m近い大蛇登場。物語的には、ご要望に対して神様登場、といったところなのに、長可兄貴の前では神様もかたなし。食べようという発想はどこから沸いてくるのか・・・。(−−;)この後は、また神主の怒りの言葉が続きます。この逸話は何種類かあって、「これはご神体だ、森家は勝利するぞ!」といい展開になっていたのに兄貴が食べちゃうパターン、「このような蛇を神社に飼い置くことは、民を迷わす。」と兄貴が蛇を食べちゃうパターン。どちらにしろ、大蛇は食べられてしまうオチらしいです。


■ カラスヘビ事件

 天正12年3月17日。森長可は油断して犬山を池田恒興(←味方!岳父!!)に乗っ取られたのを無念に思い、恒興にも知らせずに犬山より先へ越し、羽黒の八幡林を背にして小川を隔てたところに陣取って、ひと働きしようとしていた。
 そうしたところに林の内拝殿の脇より大きな烏蛇(カラスヘビ)が出てきたので、神主はこれを見て「これは八幡宮の神霊なるべし。ご勝利疑いなし。」と、長可に祝い事を述べた。長可は血気さかんな勇将なので、この蛇に飛びかかり「何が八幡の神体だというのだ。我は八幡に勝利を頼らぬわ!」と蛇を捕えて口から尾まで2つに引き裂いて、神主の顔に投げつけて「今日の門出よし。」と祝った。
 以前、これと似た状況があったので長可はなおさら腹を立てたようだ。(『長久手合戦記』)

コメント:『長久手合戦記』より。これを書いたとされる丹羽氏次は、いいネタを沢山持っているので嬉しいです。
この逸話、何より最後の1行にものすごく笑ってしまいました。
カラスヘビは毒は無いけど獰猛なので、長可に憧れるあまりにヘビを見つけて反射的に飛びかかったり、引き裂いたりしないでくださいね。


■ 『多門院日記』にも登場。

 坂本城にいる杉原家次は羽柴筑前守秀吉の家老で並ぶ者のなき御仁である。近頃、この者は何かに狂ってしまったとのことだ。
また先日、森長可が美濃より瀬田に上ってきたところ、杉原家次の息子弥兵衛の衆と喧嘩し、お互いに散々なもので、色々と仲裁が入った。
「私は仲直りに異議はない。」「そちらは一層の”キ●ガイ”のようだが長可殿は何に狂っておるのか。」等というやりとりがあったそうだ。

コメント:奈良・興福寺多門院筆の一級史料に登場する長可兄上です。キチ●イのなすりあい。(笑)


■細川君もまっさお。

 長可が羽黒の陣で敗戦を喫した後の話。犬山に豊臣秀吉がいたので諸大名が登城した。そこには細川忠興、蒲生(忠三郎)氏郷らが列座していた。そこへ長可がやってきたところ、みんなはそれなりの挨拶をしたのに、蒲生氏郷だけは大身の身なので上座で寄りかかって座って、長可には挨拶をしなかった。さぁ!長可が怒ったぁ!刀を2、3寸抜きかけ蒲生の前に行き、膝を押し立て、
「そこもとは鈍三郎(どんざぶろう)か?!忠三郎か?!」とつっかかった!
 しかし、氏郷は挨拶をしない。長可はまたまた突っかかったが、(−_−)氏郷、何も言わない。長可は「どちらの名でもないようだな!」と言い捨て立ち退いた。
 後で氏郷は、「(長可は)羽黒で負けた腹いせに無理矢理ケンカを売ってきたのだ。」と言ったという。
そのときの出来事を物語した細川忠興は、「今思い出しても脇の下から汗が流れるぅ。」と言っていたという。

コメント:ところかまわず怒ってる、長可殿、怖い。「どんざぶろうかっ!」忠興やまわりの大名が引いていた様が目に浮かぶ。たぶん、誰かが止めに入ったらますます大惨事だったかも。長可の捨てゼリフ、原文は「とちへんつかぬ名なり!」。難しい表現ですね。”どちへん-なし”で、どちらにもつかないの意。ただし、後世、長可の弟・忠政と氏郷は仲良しなのでご安心を。


■ 長可からの手紙

 長久手の戦に出陣にのぞみ、長可は自ら筆をとって「勝たずんばまた帰らず」と書き、箱に入れて紐で結び、僧に預けて「私が死んだと聞いたなら、この箱をひらけ。」と言った。

コメント:長可が死んだと聞いて、僧が箱を開けたら『勝たなかったらもう帰らない』。かっこいいのかどうかよく私には分かりませんが、本当に兄貴らしいですね。


■ 飼い主に似る

 長久手の戦いで長可は比類なき働きで戦ったが、井伊直政軍の鉄砲に打たれて落馬した。この日は、百段という名馬に載っていたが、長可が落馬するや否や、百段はすぐさま怒りをあらわにし、縦横無尽に敵を退けた。その間に長可の家臣が打ち寄って遺体を方に担いで退却した。百段は2個所も槍傷をこうむったが、生き延びた。3年後にも大坂の陣で忠政(弟)を乗せ2度の戦に及んだ。百段の死後は忠政が憐惜のあまりに神に奉って祠を建てた。

コメント:兄貴あるところに百段ありき。お互いウマがあったのでしょう。この祠は作州(津山?)にあるということだったのですが、今は所
       在がつかめないようです。ご存知の方教えてくださいませ。


秀吉の長可評

 秀吉、長久手の戦いで長可討死を知って:「池田・森は我が癪(しゃく)の虫だったけど、今日戦死してくれたのはこの秀吉が天下を取るべき瑞祥。モチ糊にも竿にもひっかからぬ者は忌まわしい。まことに花も実もある大将ではあったが、これで3年の間は長袴(ながばかま)じゃな。」

コメント:敵のみならず、味方までもがアニキの死を喜んでいる。兄貴はあんたに味方して(かなりしぶしぶ)戦って死んだんじゃ!!とは言っても、癪の虫、というのは分かる気がする、、、。大人物だものね、長可様は。


■ 家康の長可評

家康:(長久手の戦で長可を討ち取った事を回顧して)たとえ宇喜田秀家や石田三成が束になってかかってきても負けはしない。」(『関原軍記大成』)

コメント:家康は、池田・森のどちらか一方だけでも討ち取れたらと思っていたけど、二人とも死んだので、大変喜んだそうです。
※原文:「一説に、内府公、岡山にて長久手御陣の御物語ありたるは、天正の中頃、秀吉公と戦はれかれども、勝利を失ひ給はず。剰(あまつさ)ヘ、池田勝入父子・森勝蔵等を忽(たちま)ち打取り給へり。さばかりの秀吉と戦はれたる勝敗、斯くの如し。況や、秀家・三成等、縦ひ多兵なりとも、即時に切り崩し給はんと、思召したる御放言なりといへり。」


■ 世間の長可評

小唄:今の浮世は結構ずくし 森の武蔵に池田がなくば 諸国諸大名は長袴♪
(『森家先代実録』)

コメント:いやー、いかに兄やんが強かったか、偉かったか(?)人々に影響力があったかよくわかりますねー。というか、かなり危険人物
        あつかいされてたのね、、、。


■ 『肥田軍記』に見る長可評


 「・・・長可のことは、『兼山記』に書いてあるが、全部森家の贔屓眼で書かれているから、それほどの実力があるのか疑わしいけど、運の強い人ではあった。この人は天正12年3月長久手で討死、これは大縣神社に陣を張ったせいで神罰が下って目がかすんで沢田へ乗り入れ、そうこうしているうちに前後から鉄砲で撃ち落とされた。彼の謚(おくりな)が”鉄開秀公大禅定門”というのが笑える。」

コメント:、、、(@_@;)相当に言われておいでです。でも、やられたほうとしての気持は分からぬでもないです。


■ 長可武具から知った秘密

 私(『甲子夜話』作者肥前平戸藩主松浦静山)が在勤のときに、赤穂城主森右兵衛佐としばしば会った。その時にでてきた森右兵衛佐の話:「先祖の森長可は、世に鬼武蔵と称され、長久手の戦いにて最期を遂げた。その時着用していた具足が森家に伝来している。黒糸威の鎧だけど、長可は小柄とみえて、胴が小さくって自分には合わない。」森右兵衛佐も、それほどの大柄じゃないので、鬼武蔵は世間の評判とはうって変わって小柄だったようだ。その時着用した兜は森家には伝来せず、井伊家の家にあるという。

コメント:(ーー)だから読むなと、、、。


■ まだ言うか、森右兵衛佐


 先に述べた森氏の先祖武蔵守長可の具足の事だが、今年、その孫森右兵衛佐に会った時の話しの中に、革具足、黒糸威なのだけど、殊に粗末なものでとても大将の物には見えない。それに加えて小さくて、着てみたところが胸のほうはスカスカで、お腹ばかりの体形だった。

コメント:森右兵衛佐どのはいらぬことばかり言って。。。しかも、物書きに。。。でも、必死に深読みすると、彼は、これは長可の鎧じゃない
      っしょ。と言ってくれているのかな?胸がつかえて、、


 

■ 後世名前検証。

 森武蔵守の名は長可。今長一と呼ばれているのは、”長”と書状に書いたのが、下の一画が花押に混じって”一”に見えてしまった。これで、間違えられたと森氏が語った。

コメント今も、本によっては”長可”でなく、”長一”となっているものがあります。「改名」で紹介した逸話(笑)も楽しいのですが、こちらは
        きちんと検証したものなんですね。古文書で”
”という形は”可”のくずし字がこんな字になります。


文献に見るこれらの逸話の他には、兼山に伝わるお話がたくさんあります。兼山町教育委員会発行の
 『兼山の昔話』に詳しいのでご興味のある方はそちらお薦め致します。

ほーむ