●●●森 三左衛門 可成 (1523-1570)●●●
● もり さんざえもん
よししげ(よしなり)・与三 『可成寺記』では”よしなり”ではなく、 ”よししげ”となっている。 ● 幼名/満 ● 金山城主・宇佐山城主 ●合戦 / 尾張統一戦から、桶狭間の戦い、朝倉戦まで主要な合戦に はほとんど参加 ● 命日 / 元亀元年9月 20日 ●法名 / 心月浄翁大禅定門(来迎寺) 可成院殿心月浄翁大禅定門(可成寺) 法号/ 霊昭院殿徳成瑶光日榮大居士(森立寺) ● 墓所/ 近江来迎寺 ・ 美濃可成寺 |
■■■■■■■■■■■■■■■■■信長股肱の臣■■■■■■■■■■■■■■ |
森三左衛門可成。父は森可行。丹波和泉守重俊の娘とも青木秀三女ともいう。 美濃国羽栗郡蓮台寺にて生まれた。最初は美濃国斎藤家に仕えていたとか、 『森家先代実録』やその他の森家の文献によれば、若い頃は美濃国の斎藤道三の弟・ 長井隼人に浪人分で仕え斎藤道三にも信頼を得ていたという。可成の才覚を見込んだ 信長が、斎藤家に手入れをして天文年間の末に可成を織田家に招いたとなっている。 ちなみにこの時、美濃から織田家に招かれた森可成、稲葉伊予守義通、坂井右近政尚、 牧村平之助俊宗、青木加賀右衛門の5人は”岐阜の5人衆”と呼ばれた。 森可成は、肉親とすら骨肉の争いを繰り返す若き織田信長の傍で誠実であり続け、時 には厳しい助言をして、信長の尾張統一、美濃進出の困難を助けた。 また、可成は柴田勝家や前田利家と仲がよかったと、『利家夜話』にもステキなエピソード が残っている(詳しくは逸話)。その話にも、「利家二十一歳にてその頃(永禄元・1558 年)信長公御内にて武辺数手柄人は森三左衛門にて御座候」と描かれている。 永禄8年(1565年)9月、東美濃に進出を果たした信長に金山の支配を任されるに至り、 金山城を築いて一族でここに移った。 美濃源氏・土岐一族の繁茂するこの東美濃の領土に切り込むように置かれた金山。 可成は東美濃の中心地としてこの金山を繁栄させてゆくことになる。 永禄11年(1568年)に信長が上洛した際も可成は随行し、政務を担当して行政的 |
■■■■■■■■■■■■■■家臣に後を託し坂本に散る■■■■■■■■■■■■ |
元亀元年(1565年)3月、可成は近江国宇佐山城主に命じられた。先に金ケ崎で浅井・ 朝倉軍に撤退を強いられた信長。敵の南下を防ぎ、信長が京都に至る今道越を確保する にも、宇佐山は重要な地点であり、信長の生命線であった。 どれほどに可成が信頼されたかが判る。 そしてこの近江の地が、可成の悲劇の舞台となる。 9月16日、浅井・朝倉連合軍が湖北から決起して京をめざした。信長との対立を決意した 石山本願寺が各地に号令して、この日の一斉蜂起を指示し、これに浅井・朝倉も連動して 兵をあげたのだ。浅井・朝倉・本願寺門徒の連合は2万8千という数に膨れ上がった。 その時、宇佐山城にいた可成軍、その数1千とも3千ともいう。 ここで、森可成は、宇佐山城の手勢を従え、無謀とも言える捨て身の坂本への出撃を決意 する。 ここで食いとめることができねば、その道の先の天満森(現・大阪府)に陣を張る織田信長の 背後をこの3万近くの兵が襲うことになるのだ。 森可成の心は遥か____織田信長へ向いていた。 信長の弟・織田信治が森可成の援軍にかけつけた。彼らは少数でよく戦い、18日の緒戦には 足軽勢を相手に勝ちをおさめたものの、翌日には浅井長政と朝倉景鏡との激戦に挟撃され、 森可成はついに力尽きる。比叡辻のあたりが討ち死にの場所といわれ、首は浅井長政の家臣 ・石田十蔵があげたという。 宇佐山城より出る前に、可成は家臣の各務兵庫らを城に残し、私が死んでも決して城門を開 くなと告げていた。 可成を仕留めた浅井・朝倉軍は、引き続き宇佐山城に攻撃をしかけたが、籠城軍はみな、可 成の言葉をよく守って懸命にもちこたえた。敵が宇佐山で足止めされている間に、信長の元へこ の衝撃の事実がもたらされ、信長はすぐさま京へ軍を撤退した。 可成の捨て身の攻撃が、信長の命を救ったのだ。 |
■■■■■■■■■■■■■■三左衛門亡きその後■■■■■■■■■■■■■■■ |
可成の討死に関しては上の話が一般的だが、『林家覚書』には、別の珍しい話もあるので載せ ておくと、森可成は、当時、信長の御供をして福嶋にいたが、浅井朝倉が比叡山と打ち合わせて 坂本へ進軍しているのを知り、宇佐山へ取って返した。その時可成は宇佐山城に戻れば良かっ たのに、直接坂本へかけ付けてしまい大群と遭遇して討死してしまったとのことだ。 可成亡き後の森家は長可が継いだ。可成のご遺体は、近江国・来迎寺に手厚く葬られた。 元亀2年(1571年)、長可は金山城下に長可、可成寺を建立。父可成の御霊を弔った。 |