森可成逸話集
可成父上の粋な人生! + ビヨビヨ家臣                               09/07/19更新

 

新しい記事が上にくるようにすると、時系列的には順番ぐちゃぐちゃですね・・・ちょっと落ち着いたら時系列にします。


■穀潰し(ごくつぶし)!!

 森可成卿は若い時分は「与三」と言って長井隼人の元にいたが、隼人の家来が与三卿のことを蔭で何かと悪口
しており、そのことを与三卿は兼ねて耳にしていた。
 そうしたところ、尾張古野(古渡のこと?)城主の織田信秀との合戦があった。夜に入って軍議ということで家老衆が
集まっていたところに与三卿がおいでになれば、隼人が「明朝は織田との合戦となるが、森もひとかど精を出しなさ
い。」と仰せになる。その時、与三卿は「私のことを何の役にも立たない穀潰しと皆さんでおっしゃっていたのだと承り
ました。皆々、穀潰しに劣らぬようになさってください。」と言い捨てて座布を立ったので、一座の面々は興ざめして
しまった。
隼人佐は「与三は、同様にひとかど心に考えていることがあるのだろうな。」と言い置いた。
(『武家聞傅記』)

コメント:『森家先代実録』では森与三(若き日の可成)は斎藤道三の家老に嫌われていましたが(逸話:「また明日ね」)、『武家聞傅記』では、同じような流れで与三(可成)が直接仕えていたとされる長井隼人佐の家老に嫌われているバージョンが掲載されています。織田信秀との合戦とは、天文16(1547)年の加納口の戦いの事と推測します。だとすればこの時、可成は25歳。
まぁ、彼の自称かどうか「(斎藤家の)穀潰し」は、将来的には織田信長の勢力として斎藤家を襲ってくるわけです。
 長井隼人のセリフは原文「明朝、織田と実否の合戦可仕候間…」となっているのですが「実否の合戦」という意味が判るようで判らず、うまく訳せませんでした。



 ■
利家と一緒に戦う

◆『前田創業記』:  永禄7(1564)年8月5日。織田信長は稲葉山城(後の岐阜城)を囲んだ。この時、前田利家公と森三左衛門(可成)が信長の命を受けて先陣に至り、
一緒に戦って敵の首を獲った。


コメント:
加賀前田家の資料を当たれば、森可成の話が結構載っていました。他家の資料で森家の名を見ると嬉しくなってしまいます。
短いので原文を載せておきます。
『前田創業記』原文:「永禄七年八月五日、信長圍稲葉山城
後號岐阜、此時公及森三左衛門、受信長之命、至先陣而倶合鑓、取首」

◆『村井重頼覚書』: 前田利家が22歳(22じゃないヨ)の時に森三左衛門(可成)殿と同じ場所で御高名をあげられた話を承ったが、場所を覚えていない。

コメント:こちらも加賀前田家関連の資料。村井さんには場所を覚えていて欲しかったです…。後世の森家ストーカーにとっては、森可成がどこで戦ったかというのは、すごく大事なことなのに…。
村井重頼覚書』原文:廿二の御年、森三左衛門殿と一所に御高名被成候由御意承候へ共、所を覚不申。


利家の応援

  永禄元(1558)年7月12日。初めて織田信長公は尾張岩倉城へ押し寄せられ近辺の在所を放火なさっていたところ、岩倉城から兵を出してきたので小競り合いとなった。森三左衛門(可成)は大将であったが、岩倉の若武者達は可成の軍功の次第も知らずに押しかかり、突きかかりしてゆけば、可成はやがて敗北してしまった。
 可成はよい時分を見計らい、「討死はここなり。」と名乗りかけ、取って返そうとするところに、当時まだ若年だった前田利家が可成とともに取って返し、はや鑓先でさきがけの敵を討ち取って、信長公の実検に備えた。
信長公は若者の比類無き働きとして、ご感悦のほどが浅くなかった。
(『考據摘録』)

コメント:加賀前田家の資料に載っていたお話です。森可成がどんなにすぐれた武人かも知らずに襲ってゆく岩倉城の若武者ども…って、そのまま可成を打ち負かしたんかい!知らないって怖いな!
森可成と前田利家の逸話はいくつか残っていますが、本当に仲が良いですね。


クチは災いの元(家臣逸話)

  森可成が坂本比叡の辻で討死した時、家臣も多く討たれたが、各務清右衛門(のちの各務兵庫)、武藤五郎右衛門、林新右衛門、肥田右馬助の四人は味方の備えを乱すことなく宇佐山城へ戻って城を丈夫に守り抜いた。(中略)信長公が宇佐山城に入ってこの四人を御前に召し出し、彼らが可成の志を感じて堅固に城を守り抜いたことを褒めた。
 宇佐山城の城代留守居役・宇佐美左衛門は、人のいない時に信長公に申し上げた。
「この城を堅固に固めたのは私一人の覚悟にございます。今、褒美に預かった四人の奴らは、譜代の旦那(可成)を眼前で見殺しにして命からがらこの城へ逃げこみ、私のお蔭で命が助かったのです。そんな奴らに何のご褒美なのでしょうか。」
その言葉に信長は大きな目に角を立てて怒り、宇佐美は追放になった。
(『武家聞傳記』)

コメント:真面目に頑張ってる武藤は貴重!…じゃなくって、森家家臣・宇佐美左衛門のお話ですが、やらかしちゃいましたね。もう、この話を読んでいる途中で、信長がカチンとくるのが判ってしまうのですが。
そして、宇佐美追放には信長のある深い思いがあった。「信長が宇佐美を追放した理由」に、つづく。


信長が宇佐美を追放した理由(家臣逸話)

 追放された宇佐美は本国の越前国木芽村に引きこもっていた。そして柴田勝家が信長の命で越前に出軍した時には、一族の長として数百人でこれに対峙した。攻めあぐんだ勝家は信長に「宇佐美をお許しくだされば、それがしが召し抱えます。宇佐美を先手にして越州へ差し向かえば、すぐに北国は手に入ります。」と言上したところ、信長はすぐに「知行二万石で召抱えよ。」との返事。
 信長公「先年、宇佐美を追放したのは、森勝蔵(長可)が幼少で他の家臣に頭もあがらないため、宇佐美は時節を狙って勝蔵の寝首を掻いて金山を横領してしまう奴だと思ったからだ。その方は宇佐美などに不義をされる男ではない。召抱えよ。」との事。早速、勝家は信長の返事一緒にそして書状を宇佐美に遣わした。宇佐美はその気がないので書状を一族の者達に披露して家に帰ったところ、一族はその場で評定し、「もしこの地をよく知る左衛門が勝家に仕えて攻めてきたら、当方の滅亡は疑いない。今宵、夜討にかけよう。」と宇佐美を殺してしまった。
(『武家聞傳記』)

コメント:スキがあるのか無いのか、不思議な男・宇佐美左衛門。とにかく信長の長可への思いやりに感謝。


リクエスト武藤(家臣逸話)

 越前の朝倉勢が青山城にいた。信長公の元に武藤五郎右衛問がさしかかり、「旦那(可成)にあの城への攻撃を仰せつけて下されば、乗っ取ってみせます。」と信長に直々に申し上げたところ、信長は機嫌よく笑っていた。しかし、誰にも攻撃を仰せつけにはならなかった。
(『武家聞傳記』)

コメント:武藤の逸話の置き場がなくって、とりあえず可成ページに収録いたしました。森可成の古くからの家臣・武藤五郎右衛門兼友。いつでもキャラの強すぎる彼の紹介ページ(いつか作成)は、きっとものすごいものになりましょうぞ。


ギャンブラー武藤(家臣逸話)

 ある時、柴田勝家、佐久間信盛、森可成とその他お歴々が打ち寄って博打(ばくち)を打っていれば、武藤も次の間より出て来て自分も打つと言う。
  皆は「好きに打てばよい。」と答えていたが、柴田が言うには「五郎右衛問、我々が打つ博打は、小博打ではないのだぞ。銭を持っているのか?」との事。武藤は「三百貫までは勝ってどうぞ。払いましょうぞ。」と答えれば、その時、座中の皆が「武藤は、旦那(可成)にもない過分の銭を持っているよ。」とドッと笑った。
 武藤が一筆書き始めるには、”(自分を負かした相手に)呼ばれれば、可成に断りを入れて、一年間そちらに出向いて三百貫分まで無給で奉公つかまつる。”との事だった。
(『武家聞傳記』)

コメント:武藤の逸話の置き場がなくって、とりあえず可成ページに収録いたしました(その2)。何と楽しげな、織田家家臣団バクチ大会。控え室にいた武藤も賭け事と聴いて悪い虫がムズムズしたのでしょうね。しかし、後で散々可成に叱られてそう…。


■筋道は立てる

  徳川家康が年始に上洛したところ、信長公に同心して越後へ兵を出すことを内談した。しかし森可成と坂井政尚が「お定めの事、ごもっともとは存じますが、このことは浅井にお知らせなさり、その上でご出軍なさって然るべきです。」と申し上げた。
 信長はこれを聞き、「浅井には知らせないほうがよい。浅井は越前を攻めるとは申さないであろう。その上、朝倉のぬく若は、こちらに使者をもよこさないのでもはや信長に属すとは言うまい。浅井方には案内なしに越前を攻めるほうが勝手が良い。」とおっしゃった。森と柴田が重ねて申すには、「浅井は恨みはしませんか。」
信長、「自分とは親子の間なので、どうして心を変えようか。」

(『浅井三代記』浅井備前守心替わりの事)

コメント:『普請奉行を務める』の逸話に続くお話の一節です。浅井への恨みタラタラなお話の後で、次の章に入るなりいきなり不意打ちで浅井への気遣いを見せる父上が好きです。
 通説では、信長は浅井には知らせずに朝倉を攻めたということになっていますが、この逸話のように、最終的には自分と生きる道を選んでくれるさ、と信長は信じていたのでしょうね。
 「ぬる若(普請奉行逸話)」とか、「ぬく若」とかいう言葉…相手を小馬鹿にしてるのだろう事は判るのですが…意味が辞書に載っていませんでしたし、響きが面白いのでそのまま出しています。  


■普請奉行を務める。(ダイジェスト)

 京都本国寺にいた足利義昭が三好軍に襲われ、織田信長と浅井長政が京へ駆けつける事件があった。
長政は清水寺成就院に宿坊し、信長は一条妙覚寺を宿坊にしていた。京の名士達は、我も我もと信長の
元を訪れ対面したが、信長が「清水寺にいる浅井備前守長政は私が大切に思っているムコであるので、そ
ちらへも見舞ってくれ。」と言うので浅井も威勢が増すこととなった。
 また義昭襲撃事件について信長は「この度のような事態になったのも、御座所が悪いからだ。」と義昭へ
申し上げて二条の御所を拡張工事することに決めた。普請については織田信長と浅井長政の両将で引き
うけ、信長方は佐久間信盛、柴田勝家、森可成を普請奉行とし、弓鉄砲隊を添えた。浅井方は三田村左衛
門大夫、大野木土佐守、野村肥後守の3人に奉行を申しつけた。
 しかし去年の箕作城の攻めの時に浅井軍の働きがにぶかった事があり、織田方の弓鉄砲の者達は浅井
の足軽たちを内輪で悪口した。奉行らもこれを聞いて内心は同様に腹立たしく感じていた。
佐久間の侍達が受け持ちの丁場(工事現場)より三田村左衛門大夫の丁場へ水替えに行った。三田村の侍
がなぜ自分たちの丁場へ水を持ってくるのか尋ねたところ、
「そのほう受け取りの丁場で捨てずに、どこへ水を持っていくべきなのだ。何さ、浅井のぬる若者ども。」
と、いよいよ水替えしようとしてきた。それで浅井の足軽は300人ばかりが一度にもっこ(土を運ぶ竹かご)の棒
を外して佐久間の手の者と叩き合ったが、浅井のほうが強くて佐久間側が追い立てられてしまった。
 森、佐久間、柴田は見かねて「打物(刀)の鞘をはずしてかかれ、かかれぃ!」と下知した。
浅井方の奉行も頭に来ていたので3人一度に切りかかってきて、素肌で戦っていたところ、浅井家の侍達がか
けつけてきて森と柴田を立売堀川まで追い立てた。織田家の物頭達も聞きつけて出合い、浅井勢を二条まで
追い下した。更に浅井の荒手の者が200人ばかり馳せ参じ、織田方を立売まで追い返して双方互いに退いた。
討たれた双方の数は150名という。
「野戦でもこれほど多くは討たれることがないであろうに、こんな大きな喧嘩はないだろう。」
と、京中にての評判になった。
森、柴田は信長に事の次第を説明して、浅井に何とか言ってくれと訴え出た。
 信長は喧嘩の次第をいちいち吟味して「去年、箕作を攻める時の浅井が鈍かったので、汝らの手の者が悪
口したな。そういう浅井の家は弓矢取りの誉れあるのだぞ、重ねても、構えて構えて、がさつな事を申しかけて
不覚を取るな。」と、取合ってくれなかったので森、柴田、勢いづいていた者達もどうしようもなくなった。
浅井はこの喧嘩のことを聞き、当然、信長方より兵を寄せてくるだろうと、清水寺に人数を揃えていた。
翌日、義昭のとりなしで双方は和睦した。かくて普請が成就して、義昭がご転居になった。

(『浅井三代記』長政上洛
二條喧嘩の事)

コメント:怖い!!みんな怖いよ!!!
     小競り合いを止めるのも奉行の仕事じゃないのだろうか…率先して煽って事態は雪だるま式大惨事に!!!
     『信長公記』はどうなっているかと言えば、二條城工事中にこんな騒動があったという話はまったく描かれておりません。
     妹聟の浅井長政が大好きでしょうがない信長に目がいってしまうのですが、『浅井三代記』はこの後「浅井備前守心替りの事」に続きま
     す。長文なので、はしょってダイジェストにしてしまいました。「水替え」としていますが、原文は「水をかへこめ」(what??)となっています。


■また明日ね。

 可成がまだ与三と言って、斎藤道三の弟の長井隼人に仕えていた若き頃頃の話。
斎藤道三は与三を尊敬していたために、家老達は与三を嫉んでおり、その事を与三も聞き知っていた。
 天文7年9月3日に織田信秀(信長父)が1万の兵で斎藤家居城の稲葉山の城下へ押寄せたことがあっ
たが、話はその前夜のこと。
斎藤道三は家老たちを呼び集めて軍議を相談していた。
そこへ与三がやって来たので道三は
「よいところへ。与三参られよ。明日、織田軍が攻めて来るというので相談していたところだ。ここに居てくれ。」
と言ったところ、
与三は「明日はご奉公いたします。」とだけ言い放って席を立ってしまったので、家老たちは、興ざめした。
その時、道三は「与三は何か考えていることがあるのだろう。」と言ったという。
(『森家先代実録』)

コメント:可成は可成の意志でしか動きません。たとえ道三がそうしろと言ったところで、大嫌いな家老がいてはどうせいいことないんだ
     バイバイキン!!
     道三:「与三は何か考えていることがあるのだろう。」→プレゼント首へつづく。
     (補足:「長井隼人方に与三君、御若手の時、浪人分にて…」とあるから、森可成は斎藤家の正社員にはなっていなかったようです。)


■プレゼント首

 森可成がまだ与三と言って、美濃の斎藤道三の弟の長井隼人に仕えていた若き日のこと。
尾張の織田信秀が攻め込んで来る時、与三は鑓持ち一人だけを連れて、萩原口という処へ行き、自らは”わらぐろ”の中へ隠れ、
鑓持ちは草の中に伏せさせた。
 夜明けになると、織田軍の物見の武者が二騎やってきた。
与三は一人を馬より突き落とした。残る一騎に対しては、後からやって来た家臣の武藤五郎右衛門兼友が突こうとしたが、馬が
驚いて逃げ出してしまい仕留めることができなかった。
そこで武藤は与三が鑓をつけた敵の首を取ろうとしたが、「そのまま置いておけ!」と与三が怒った。
なぜ首をとらないで置いておくのかと武藤が言い返しても与三は聞き入れない。
 やがて長井隼人の16歳になる甥っ子が華やかないでたちでやってきた。与三は、仲良しだったその子に「あの首を取り給え。」と
首を譲った。これはニ人で宵から約束していたことだったのだ。
しかし、斎藤道三と長井隼人の前にその首を持って行った少年は「与三が鑓をつけたのを、自分が首を取りに行きました。」
と説明した。
(『森家先代実録』)

コメント:どこへ行っても、可成は楽しいエピソードをふりまいてくれます。そして、武藤がいい味をかもし出しています。
     余計なことをしようとして、可成にガーッと怒られる武藤の姿が目に浮かぶよう。
     武藤が訳を聞いても説明しないで、ただ仲良しを待っているのが可成流。
     『森家先代実録』の原文には、”長井隼人甥(名不祥歳十六)”とあり、また『御家聞伝書』にも同じ話がありますが、長井隼人の甥
     とは書かずに”入魂(じっこん)の少年”とだけあります。
     嫌いな人にはとことん冷たいけど、好きな人にはとことん尽くす、それが可成流。


■可成VS.信長

 可成がまだ与三と言って、斎藤道三の弟の長井隼人に仕えていた若き頃の話。
織田信長が斎藤家の稲葉山の城へ攻めこんできて、近辺を少々放火して、戸田口へ引き上げて行った事があった。
戸田口は殊の他の難所なので、道三は後を追って食い止めようとしていた。
隼人も引き続いて進軍しようとしたところ、与三がこれを留めた。
「信長の兵の引き取りかたは、合戦を考えての備えと見えます。道三殿と一手に攻めかけては
信長軍の兵に返され味方が負けてしまいますので、信長の左備の横を突き切るように味方の備
えを必ず替えてください。」
と、言った舌をまだ引かない内に、信長の兵が戸田坂より塊となって返してきた。隼人の兵は手早く横から討って入ったので、
味方は敗軍せずにすんだ。これは皆、与三が敵の備えをよく見物していたおかげと、上も下も囃したてた。
信長はその委細を聞いて、ひとしお与三を所望し、斎藤家に手を入れ、織田家に招いた。
 
 天文年間の末、ついに信長は森可成、稲葉伊予守義通、坂井右近政尚、牧村平之助俊宗、青木加賀右衛門の
5人を織田家に招き入れた。これを”岐阜の5人衆”という。

(『森家先代実録』)

コメント:また、『森家伝記』や『御家聞伝書』では、左備えの横を突け、というのとは別の事を言っています。
      「信長は兵をとって返して(大返しに返し)くる。ですから、追っかけないでよいので、守りを堅固に。」
     信長が兵を取って返しても、道三が堅固な守りで余裕だったので、信長は兵を引き、その時、「森与三が下知にてあるべし。」と
     発言したとあります。


■前田利家の命を救う

 前田利家は19歳の時に、笄(こうがい)を盗んだ信長の家臣・拾阿弥を、信長のいるところで斬ってしまった。信長が「犬(利家)を成敗しろ!」と申されたのを、柴田勝家と森可成が押し留めて信長に詫びをいれた。信長は、”では、追放しろ”ということに留まった。(『利家夜話』)

コメント:とっしー(当時:犬千代)が浪人になるきっかけとなったらしい有名な事件ですけど、彼を助けた一人は可成だったとは。この時、可成がいなければ、利家は”犬死に”して、のちの加賀百万石はなかったわけです。


■変わらぬ友情を君に

 前田利家が信長の家臣・拾阿弥を斬って追放されて以来、それまで兄弟のように親しかった知人は誰も利家の元へ寄らなくなった。拾阿弥に目をかけていた佐々成政とはそれ以来、ずっと仲が悪くなってしまった。そういう人々が多かった中で、柴田勝家と森可成、その他小姓ら数人のみが、変わらずに利家のもとに訪れていた。(『利家夜話』)

コメント:泣ける話じゃないですか。逆境の友が真の友、森可成がそれを実行する人物だったというのが嬉しいですね。利家は、変わらぬ友情を示してくれる可成や勝家の心意気に胸を打たれたことでしょう。勝家と可成と利家、三人で仲良しだったのですね。逸話を見るといつもトリオでいる気がする。


■ かがめよ、柴田。

 前田利家と、柴田勝家、森可成、坂井政尚らの間で、”矢玉飛びくる戦場で、どうして柴田は立ったままで指揮をとるのか”、という話になった。柴田勝家は「矢玉なんて、当たらないものだぞ。」と言った。
可成や政尚らは「柴田じゃと言うても、矢玉が当たらないことがあるか。かがむ時はかがみ、鉄砲や矢にあたらぬようにし、ここぞと言う時にかまわずかかるべきだろう。」といった。利家は、可成殿や政尚殿のことを、功の者だと度々語った。(『利家夜話』)

コメント:北国に勝家と同じようなことを言っていた武将がいましたねー。自称毘沙門天。可成のおっしゃることがもっともと思います。


みんなの手前ね。

 前田利家の兄・利久の知行を、信長の上意で利家が継ぐことになった。そのことで兄弟は不和になってしまった。柴田勝家と佐久間盛信、森可成、佐々成政と前田利家がみんなで話をしていた時、「利家殿は手柄を度々たてているので、前田家を継ぐのは当然だ。」という話になり、その次に話題は利久の悪口になって「お兄さんは武功も少ないし、ぬるいよね。」などと言っていたところ、利家は押しひざまずいて、「兄は分別が悪いので跡目はそれがしに譲られた。しかし、兄の武功をどうのこうのと私の前であげつらうのはやめてくれ!」ときっぱり言った。みな、もっとも、と押し黙った。その場にいたのが森可成と柴田勝家だけなら親友どうしなので問題無かったが、その他の人達もいたので、利家はそう言ったのだった(本人談)。皆、利家のことを、本当にただものではないと語った。信長の耳にも留まって感心したようである。その後、森可成も、柴田勝家も利家に謝り、利家も二人へ謝った。(『利家夜話』)

コメント: さすがに兄弟で不仲になっても、兄の悪口を他人に言われるのは腹が立つのね、利家どの!と思ったのに、読み続けると、なんか、ちょっと本音は違うらしい・・・・・。あーあ、信長まで感心してくれたのに。


わたしは商人

 今川義元のブレーンに戸部新左衛門尉というものがいた。織田家の事にも熟知して、いるので、織田信長は危険人物と見なしていた。そこで一計を案じ、彼の書跡を集めて右筆に字体を練習させ、戸部が信長に謀お手紙を書いたようにした偽手紙を作成し、これを間違ったふりして義元に届けることにした。この役を買ってでたのは可成だった。商人のふりをしてこの手紙を駿付へ持参して、逃げ帰ってきた。この策略にまんまとはまった義元はこの戸部を成敗してしまった。(『森家先代実録』)

コメント:大成功!


家臣の間でつけられしあだ名

 可成は或る時手傷を追って手(足とするものもある)の指が1本落ちてしまった。手足の指そろえて19本なので家臣は何かあると蔭で可成をいうときは”十九”と呼んでいた。(『森家先代実録』)

コメント:やっぱ、いづれの世も変わらず部下も色々陰口叩きたくもなるものなので。上司の悪口いうときはあだ名を使うんですね。


■秀吉とけんか

 可成は若いときに信長の直参の谷大膳と相撲をして負けたので、彼と仲が悪くなったけど、この谷が浪人したときには金山にご挨拶にやってきて可成がご馳走してやっている。その当時、羽柴秀吉は長浜城主であったが、谷大膳は秀吉のもとへ身を寄せた。
それで可成、秀吉に使者を送って、森家を立ち退いた谷大膳を返せと言った。秀吉は、じゃあ、当方を立ち退いて森家に行った尾藤源内を返せや。そうしたら谷大膳を返す。と返事した。可成は怒って「体はひとつしかないのにおとなげなく山猿の理論をだしてくるな!」と秀吉の使者に言った。
ちなみに、この尾藤源内は近江坂本で可成と一緒に討ち死にした。

コメント:可成殿の気の強さには恐れ入ります。秀吉は好きじゃないけど、今回はパパのほうがおとなげない気がする。「山猿」なんて言って、後々まで尾をひくぞ、、。このパパの血が、長可や蘭丸に脈々と受け継がれているのですね。


■ 前田利家・浪人ストーリー

 前田利家が21歳のときの話。彼は当時信長に追放されていた。信長公の家臣のなかで数年手柄を上げている人は、森可成という。美濃の取り合いで織田軍が砦を攻めたとき、利家は、可成殿と一緒に行って見てみよう、と馬に乗ってついていった。山城なので味方の手勢も馬から下りて戦っている時、可成は兵を引いていた。「今はみなあせっている。みんなが引いてからかかっていくものだ。と利家に言って、終盤、「又左(=利家)、今がかかるときだ!」と可成は気楽に利家に言葉をかけ、利家は一番に駆け込み、可成も駆け込み、両人ともに武勇をあげた。可成は、信長公の前でも、ほかの場所でも、「又左どのに先を越されてしまった。」と言ってまわった。(『森家先代実録』『陳善録』)

コメント:どうさ、この可成の秀吉に対するときと、利家に対するときのこの接し方の違い。利家が織田家家臣に戻れるように、可成が心を砕いてあげているのが伺えます。いろいろな逸話を見ていると、どうやら、可成と柴田勝家、前田利家、この3人が仲がよかったようです。


■ 森家しるこ事件(汗)

 可成が浅井・朝倉戦に備えて出発するときに、老父の越後守可行が門出の朝ご飯をご馳走しようとお知らせの使者を遣わしてきた。可成は「親父は自分の好物だからっておしるこ餅をだして、後からご飯をだすので食べられないんだよね。先にご飯をだしてから、おしるこ餅にしてくんない?料理も夕食にしてほしい。」との使者を遣わした。使者はお礼かたがたその事を可行に申しつたえた。可行は「具足の威し初めの母衣幕の仕立初めには先ず鏡餅をそなえて、小豆雑煮にて祝うのだ!武士は”血をつけたい”ということで小豆の赤にあやかるのだ!諺にも”吉日の夕祝いより悪日の朝祝い”というので朝食なのだ。餅が食いたくなければ食べなくていい。」と言う事だった。可成は翌月20日に討ち死にしたので、これが祝宴納めになった。

コメント: うわー、この時は、可行じいちゃんと可成パパと長可、蘭ちゃん家族でうちそろって、最初におしるこ食べてから朝ご飯を食べたんだろうなあ。古今東西、デザートが先にでる家庭はここくらいなものだろう。しかも朝ご飯である。森家は団子の馬印とか、瓜の馬印とか使って、戦場でもグルメな様を披露しているが、実際の食事でも戦争ですね。餅が食いたくなければ”食べなくていい”。というところ、ちょっと古文書の字が飛んで読めなくて、でも文脈的にこうだろう、と思って私が書きました。


つづく・・・。

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