名 | 古屋山三郎 |
森忠政の寵愛厚き出雲阿国の彼氏。
●人名
/ 名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)・九右衛門
●出身 / 尾張国
●生没年
/ ? −慶長八年(1603年)
●法名
/
●墓所
/ 美作国・院の庄の殺害現場に葬られた。(対面に井戸宇右衛門の眠る松があり、”にらみ合いの松”として今も残る。)
細川幽斎の菩提寺・大徳寺高桐院には、出雲阿国と名古屋山三郎の墓もある。
父の名古屋因幡守は織田信長の従兄弟だったという。信長の弟・信包が伊勢に蟄居したときにくっついていき、信包の死後も 伊勢で暮らして亡くなった。其の後、秀吉の配慮で母・養雲院とともに京都で暮らしている。名古屋山三郎の妹は森忠政に嫁いだ。 初め、山三郎は蒲生氏郷に仕え高名もあげていたが、氏郷の死後、蒲生家を去ったらしい。この山三郎、そうとうの美男子だった らしく、美しさが身の上の妨げになるので剃髪して宗円と名乗り大徳寺に入る。京都でケンカをして其の末の剃髪とも言う。何が あったのだっ! かしこくな身をかへにけるうす衣 錦にまさるすみそめのそて とは、懇意にしていた細川幽斎の賛辞の歌である。。ともかくも、相当の美男子だったのだろう。京都にいた折に、出雲阿国とのロ マンスも生まれた。 後に彼は妹の縁故を頼って、森忠政の元へ行き、名古屋九右衛門と名乗った。忠政の信頼を得たが、後に重大な事件を引き 起こす。それは長可の代からの森家の旧臣・井戸宇右衛門との不仲からはじまった。その、仲の悪さの一部始終はこうである。 @上田城・真田攻めの時、井戸宇右衛門の弟が敵を討ち取り手柄を立てた。それを宇右衛門が名古屋九右衛門に話したら、九右 衛門は「弟さんが討ち取ったのって、一揆軍の輩で本当の武士ではないと承っている。」と答えたらしい。宇右衛門は立腹した。 A月がよく冴えた夜のこと、九右衛門が「さても今宵の月はよく照るかな。」と感嘆したところ、宇右衛門「日が”照る”とは言うけど、 月が”照る”なんて言い方するだろうか。」と口を挟んだ。その言葉を無視して九右衛門、 ”水の面に照る月浪をかぞふれば 今宵ぞ秋の最中なりける”という古歌を詠じた。宇右衛門は返す言葉がなかった。 B九右衛門は華麗なのが大好きで、刀・脇差も華麗に拵えて腰にさしていたが、ある参会の節、宇右衛門はそれを取り上げ 「この菖蒲刀は云々・・。」と悪口を述べて投げ捨ててしまった。 C雨天で道が悪いとき、九右衛門は「名古屋馬にて御免!」と馬の足で宇右衛門に泥をぶっかけた。宇右衛門もいきり立って九右 衛門に馬の足で泥を飛ばす。 ・・・・もう、どんどんエスカレートしていっているようですね。しかも、はっきりいって小学生の喧嘩だ・・・・・。 だが、ついには事態は主君・忠政をもってしても、もう取り返しのつかぬ深刻なものとなっていたらしい。 しかも宇右衛門は森家家老という大身の身の上でこのような華麗の王子さまとトラブルを起こしている。そして、仮にも九右衛門は 忠政の義理の兄弟。森忠政は宇右衛門の成敗を決めた。 森家が川中島領から美作国に移封になるとき、忠政のお側仕えの妻木長門守が井戸宇右衛門に 「もう、あなたは美作国へはこないほうがいい。成敗されるだろうから・・・。」と教えてあげたと言う。 それでも、井戸は「行かねば後悔する。たとえ成敗されても行く。」と随行した。これで、井戸の運命は決まった。 忠政は、九右衛門に井戸宇右衛門成敗の命を密かにくだした。 事件は忠政が美作国に移封になって早々に起こった。院の庄(地名)で九右衛門は君命を武器に井戸に切りかった。 しかし井戸は名の聞こえた剛の者。逆に名古屋を一刀両断してしまう。 何をしてんだか。しかし、現場の者達に、井戸も殺害されるに至った。 名古屋九右衛門の遺体は事件現場の北側、井戸兄弟の遺体は南側に埋められ、そこへ双方の墓標に松が植えられた。にらみ合い の松として今でも名所として残る。 |
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■ 出雲阿国と一緒に歌舞伎踊りを作ったそうだ。 ■ 九右衛門の兄弟:一番上が金森出雲守可重妻、2番目が”千丸”と言う者で、19歳で病死。三番目が九右衛門本人で 妹は”岩”森忠政の室、五番目は小沢彦八の妻、六番目は各務藤兵衛妻。 ■ 九右衛門の子に隼人なる者がいて千石を相続したが寛永の初めに森家を立ち退き、加賀の前田利常に3千石へ仕えた。 |