東濃エリア


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 森一族の活躍の中心の1つ。
森蘭丸が織田信長から拝領したとされる岩村城は、かつては武田領へ続く恵那口を押さえるのに最も重要な場所のひとつであった。
今も残る石垣にその壮大さと堅固さが忍ばれ、あまりのすごさに見る物を圧倒させる。

恵那市 土岐市 瑞浪市 中津川市




恵那市


■ 岩村城跡(恵那市岩村町)

 日本一高所にある城で、海抜721m。日本三大山城の1つで鎌倉時代に築城された。
天正元年(1573年)に武田の重臣秋山信友が岩村城を奪取するも、天正3年(1575年)、
これを織田軍が攻略する。信長の叔母が城主となっていたため、女城主の城として有名。
天正10年(1582年)に森蘭丸が城主になったとされる(諸説あり)。
本能寺の変の後は、森長可、忠政が引き継ぐ。森家城代は家臣の各務兵庫が勤め、城
を近代的城郭に改築した。関ヶ原以降は松平氏が城主となる。総延長1.7Kmにおよぶ巨
大な石垣は圧巻。

《 みどころ 》 山頂の売店『蘭丸』には、蘭丸グッズ(キーホルダー)あり。←現在閉店している?
          麓の歴史資料館には、森蘭丸関係の書籍や岩村の歴史資料も多数ある。
         “大将陣公園”は、岩村攻めの総大将の織田信忠が本陣を置いたところであり、
         ここで秋山信友やその妻となっていた女城主が逆さ磔になった。    

《 交通 》  明智鉄道岩村駅下車


■ 武並神社(恵那市大井町)

 承久2年(1220年)よりの由緒を持つこの神社は、鎌倉から持ちかえられた3本の杉苗とともにその
歴史が始まる。
『森家先代実録』によれば岩村城主・森蘭丸の氏神ともなっていたという。
この神社の宝物殿にあった鷹(あるいは鵜)の彫り物をした刀は、森蘭丸が信長に献上したともある。
(ただ、この刀の話については、上記記事中には”不審な話”として締めくくられている。)
 
1592年には、秀吉の命で朝鮮出兵の修羅船作りに材木が必要とのことで、森忠政が家老の
各務兵庫元正にこの神社のご神木の伐採を命じている。
ご神木は、中世に鎌倉三将軍の廟堂近くの木が植えられたものだが、このご神木を切ろうとする
と、この大木からおびただしい出血があり、木こりも怖がって結局作業は中止になったという。
現在、その逸話にあるご神木は残っていない。

《 みどころ 》 3本あったご神木の跡の1つには、祠が建っている。更に境内の赤い鳥居付近に大き
          な朽ちた切り株があり、これがご神木の鎌倉杉の跡ではないかとも言われるが、確証
          がない為に神社では公言なさっていらっしゃらないとのこと。 
       

《 交通 》 岐阜県恵那市大井町


■ 坂折峠・待ち伏せ(恵那市中野方面・坂折)

 八百津と坂折を結ぶ古道・黒瀬街道には坂折峠(さかおりとおげ)という峠があり、この付近、坂折川上
流には「待ち伏せ」という場所が残る。
森長可が苗木城の遠山氏を攻めるために進軍して坂折峠に差しかかった時、坂折峠付近で待ち伏せし
ていた苗木方の小池兄弟(忠兵衛、喜三郎)に狙撃されてしまったためにこの名がある。
この時、長可は落馬してしまうが、幸い、かすり傷ひとつなかった。一方、小池兄弟は、長可を仕留めたと
勘違いしてそのまま帰ってしまい、後日、苗木城を攻め落とした後、長可に探し出されて処刑された。

《 みどころ 》 長可が「待ち伏せ」で狙撃された時に落馬、ないし別の本では「下馬した」とある。
         人足も途絶えたか、坂折峠はかなり暗い木々の中(画像の山林奥にある)で怖かった。
         また坂折の地には
『日本の棚田百選』にも選ばれた棚田の美しい田園風景が広がり(男たちの
         大和のロケ地にもなった)、開けた場所は観光名所となっていた。

 《 交通 》 車と足で行きました。


■ 明知城(恵那市明智町)

 

《 みどころ 》 

 《 交通 》 明智鉄道・明智駅から徒歩



■ 中山道大井(恵那市大井町)


写真捜査中
 長可が本能寺の報を川中島で聞き、急ぎ金山城へ帰途する途中、木曽福島城主の木曽義昌らの
陰謀によって暗殺されそうになったが、それを上回る策略でピンチを脱出、そして長可が体を休め
たのが「大井駅」だった。(列車の”駅”じゃないよ。)
『森家先代実録』によれば、蒲生氏郷が戦帰りにここに立寄った折、金山城主・森忠政が各務兵庫
元正に命じて氏郷の接待をさせている。その時、氏郷は元正にねだって、昔語りをしてもらっている。

《 みどころ 》 今は江戸時代の宿場町跡としての名所となっている。森家に直接関係するものは残
          っていないが昔の中山道を忍ぶことができる。

 《 交通 》 JR恵那駅下車


土岐市


■ 妻木城跡(土岐市妻木町

 戦国時代、土岐源氏の一族である妻木氏の居城として栄えた。
この妻木氏は明智光秀の妻の出身といわれるところ。
戦国期の城主・妻木雅楽助頼忠は本能寺の変後、長可に反旗を翻したが、力及ばぬと悟り降伏。
降伏後は、兼山城下に移り住んだ。城下には妻木氏の菩提寺と居館跡がある。

《 みどころ 》 私は入り口がわからずに、道に迷い、城跡へ行くことが叶わず!!(涙)
          しかし、城下には妻木氏の菩提寺崇禅寺を初め、
御殿跡および妻木城武士屋敷跡
          (画像)など立派な史跡や遺構が沢山あり、見ごたえあり。
          (登城再チャレンジ達成後、この内容を更新します!)

 《 交通 》 多治見駅下車 妻木行きバス


■ 高山城跡(土岐市土岐津町

『高山城は森蘭丸の旧領・岩村城の属城なので、すなわち森家の領内』
という理由を以って森長可は高山城主・平井頼母に高山城を譲渡するように要求。
平井頼母がこれを拒否したため、長可は頼母の我儘を怒り、家臣・森主水の計略
に任せて平井頼母を久々利の地で謀殺した。(『妻木戦記』)
その後、高山城は森家家老(叔父)の林長兵衛為忠が城代として任され、潜伏して
いた頼母の嫡子・平井巳之助も林為忠の軍勢に討ち果たされた。

《 みどころ 》 山頂にある城跡は綺麗に整備されている。

 《 交通 》 車で行きました。駐車場あり。




■ 常照寺跡(土岐市)

 森長可に高山城を拝領した林長兵衛為忠が城下に開創した林家の菩提寺「常照寺」の跡地。
江戸初期に常照寺は金山(妙願寺跡)に移転した。
(※常照寺は森忠政に従って川中島について行くことはなく、金山に残った)。
この跡地にはその後、極善寺が開創されるも土岐川の氾濫により焼失。
(極善寺は可合に移転。)

《 みどころ 》 「常照寺・慈光山極善寺」跡を示す石碑には「三界萬霊 慈光院 跡」と刻まれている。


 
《 交通 》 車で行きました。土岐川ぞいにあります。



■ 茂塚六兵衛の祠(土岐市土岐津町追沢)

 無念の死を遂げた妻木家の家臣、茂塚六兵衛を供養する祠。
 天正11年正月、森長可が豊前市之亟に妻木城を襲わせた。茂塚六兵衛は城を落ち延びて
この地の農家の老婆に金を渡して二階の物置にかくまってもらっていた。
ところが、豊前市之亟が更なる金を老婆に積んで六兵衛の隠れ場所を暴き、あえなく彼は刺殺された。
 それ以来、この場所は不吉な場所として言い伝えられるようになり、誰も住まなくなったという。
また、この屋敷には、六兵衛の恨みのこもった二股の竹が生えていた。

《 みどころ 》 今なお人住まず?
          残念ながら(?)現在は、竹はなくなってしまっているとのこと。
          祠も探しましたが見つかりませんでした(
情報求む!!!)。
          場所は土岐コミュニケーションセンターの方に教えていただきました。

 
《 交通 》 車で行きました。



■ コクリュウ様(土岐市土岐津町栄楽)

 出世龍神社。
森長可との対立に及び、高山城主・平井頼母は家臣の小池幸重に妻子を託して妻木城の妻木氏の
元へ落ち延びさせようとした。
ほどなく高山城も落城し、小池幸重ら一行は栄楽の地で森家の追っ手に追いつかれてしまった。
幸重は一人で森軍と対峙して壮絶な討死を遂げ、その間に平井頼母の妻子は追っ手から逃れることが
できた。
合戦の後、地元の人々は幸重のことを手厚く葬ってコクリュウ様として祀った。
この言い伝えに関わる文献などがあれば知りたいです。)

《 みどころ 》 場所は土岐コミュニケーションセンターの方に教えていただきました。
          現地には説明看板などはありませんでした。この「出世龍神」様がコクリュウ様というこ
          とで正解なのかちょっと確証ありません。…
情報求む!!!

 
《 交通 》 車で行きましたが、周辺の道はかなり細いです。



■ 稚児岩(土岐市駄知町滝ケ洞)

 森長可が家臣の加藤彦右衛門に与えた観音様が奇縁の稚児岩。

 (あらすじ)
 森長可の家臣の加藤彦右衛門が駄知に移って百姓暮らしをしていた。
この夫婦には子供がなかったのでいつも長可にもらった観音様にお祈りしていたところ、霊験があり
観音様より「自分を西南数丁の山頂に安置すれば、子供を授けよう」とのこと。
観音様を滝ケ洞という場所に安置して祈っていると、谷底から赤ん坊の声。しかし、夫婦が行ってみ
てもそこには大きな岩があるだけ。
 ところがしばらくしてこの夫婦に玉のような子供が生まれ、その岩が稚児ケ岩と名づけられたという。

《 みどころ 》  肥田川にどんと構えるこの岩は長さ18m、重さ13.125トンと推定される巨石。
         巨石の割れ目には樹齢100年とも言われる「稚児岩の松」も生えている(成長できない
         まま)。
          また、別の話に、彦右衛門を兄の仇と知った妻が彼を殺してしまうというものもある。
         その後、産まれた子がこの岩で遊んでいて転落死したので「稚児岩」と言ったともいう。
         更には、この岩は武蔵坊弁慶が担いでいたのを落としてしまったという伝説もある。         

 《 交通 》 (車で行ったので詳しくわからないけど、JR土岐市駅より駄町行きバスがあるもよう。) 


■ 瀧洞山観音堂(土岐市駄知町滝ケ洞)

たどり着けたら画像撮影して
貼ります。
 加藤彦右衛門(上、「稚児岩」欄参照)が、主君の森長可に頂戴した丈7寸の子安観音像を、夢のお
告げによりこの場所にお祀りしたという。
(場所は管理人未確認。土岐市教育委員会の回答情報。)

《 みどころ 》 写真で見る限り、この観音様は現在、首がないように見うけられます・・・。
          大丈夫かな???川沿いではあるが、稚児岩とは少し離れている模様。

 
《 交通 》 管理人まだたどり着かず未確認。稚児岩からの詳しい行き方情報求む!!


瑞浪市


■ 釜戸陣屋跡(岐阜県瑞浪市釜戸町)

馬場氏陣屋跡。
本能寺の変後、森長可は急いで東濃の有力者を攻めて自分の支配下に収めて陣屋を置いた。
(江戸期には旗本馬場氏がここに陣屋をおいたので案内板には「馬場氏陣屋」と書いてある。)

《 みどころ 》 わかりやすくこんもりとした竹藪になっていました。

 
《 交通 》 車で行きました。


■ 桜堂薬師 法妙寺(岐阜県瑞浪市土岐町5728)

看板にある寺伝によれば、この寺は弘仁3(812)年の開山の名刹。
天台宗系の寺院のため、織田信長の比叡山焼き討ちに続いて、森長可によって焼かれてしまったとのこと。
寛文3(1667)年に再建されているらしい。
また、本堂に掲載してあった古い寺伝によれば、元亀2年10月18日に織田信長の臣・森武牧(長可のこと?)、
と土岐友信の逆臣・石原善四郎に攻められて兵火にかかったとのこと。
後に森武牧(長可のこと?)が仏間を焼いたことの非を悟って堂宇を再建したそうだ。 

《 みどころ 》 森武牧って誰?

 
《 交通 》 車で行きました。


■田中泥薬師(岐阜県瑞浪市薬師町

  現地看板を要約
『武田信玄の勢力を駆逐するため織田信長の命を受けた美濃金山城主・森長可が東濃各地に兵を進め神社、
仏閣の焼き払いを命じた(※誰に?)。村人たちは、お薬師様を難から守ろうと土中に穴を掘り隠して置き、世の
平和を見定め田中の里にお祭りすると、お薬師様の安泰を喜び、それ以来村人たちは香華を供え、病のあるとこ
ろに泥をつけてお祈りするようになった。』

《 みどころ 》 森長可の魔手から逃れたという薬師さまは泥にまみれてお姿がよくわかりませんでした。
          ■泥薬師画像

 
《 交通 》 車で行きました。



中津川市


■ 苗木城跡(中津川市苗木)

 本能寺の変後、森長可が川中島から金山へ引き上げてくる時に苗木城の城主・遠山友政は諸将と通じて
彼を暗殺しようと企んだ。襲撃は失敗に終わるが長可はこれを怒り、謝罪しない友政を攻め滅ぼさんと、
天正10年(1582)・11年の二度にわたり苗木城に軍を向けた。
 天正10年8月の初戦では法泉坂での戦いとなり、森家に分が悪くなって長可は金山に兵を退いた。翌年5月
8日に長可は再び兵を向けて苗木城を攻撃する。この時、遠山方の旗色が悪くなると、遠山氏家臣らは友忠・
友政父子を落ちのびさせて、自分たちは城に残って討ち死にした。

《 みどころ 》 険阻な岩肌の上に本当に城が建てられていたものかと、現地を見てその奇抜さに驚かされる。
         なお、遠山氏は苗木城を脱出して徳川の保護下に入り、後に苗木藩主に返り咲く。 

 
《 交通 》 車で行きました。


■苗木遠山資料館(中津川市苗木2897番地の2

   苗木城や遠山氏に関係する資料を展示している。

《 みどころ 》 苗木城ジオラマをみると、いかに苗木城が岩肌の傾斜に無理矢理(?)城を築いていたか、その技術
          のすごさが判る。森長可との戦いに関する資料も色々と展示してある。図録『戦国武将と中津川』には
          森長可も登場。


 
《 交通 》 JR中央本線 中津川駅から北恵那交通バス「苗木」下車 徒歩20分



■ 鉄砲池古戦場(中津川市福岡高山)

 天正11年(1583)年に森長可は苗木城の遠山氏を討たんと二度の進軍を試みて、激戦が繰り広げられた。
この二度の合戦で敵味方多くの兵が戦死し、その屍や武器はこの池に沈め葬られたという。
 戦乱がおさまって後、この池から多数の鉄砲が出できたため「鉄砲池」と呼ばれるようになった。
その後、この池には赤と黒との奇妙な形をした魚が棲むようになり、この魚を見た人は目が悪く なると言い
伝えられて、ここを通る時、村人達は目をそらせて通ったという。

《 みどころ 》 残念ながら現在の鉄砲池はかなり狭くなり、ドロドロしているので、いくら森家好きでもこの水の
         中に飛びこむ気持ちを減ぜられる。
本当に水たまり風と化しているので鉄砲池古戦場の説明看
         板に気をつけないと見過ごしてしまいそう。


 
《 交通 》 車で行きました。「麻の葉学園」という福祉施設の近くです。


■ 蘭丸山(中津川市手賀野)

地元の人々に「蘭丸山」と言い習わされている山。岩村城主だった森蘭丸に由来すると伝承される。
山頂には斧戸城(阿寺城)があり、『美濃明細記』には「森某居之」とも記されている。


《 みどころ 》 近年、人が踏み込むことがないらしく、登山口より道を見出せずに登頂を断念。

なお、蘭丸山について調べたことを記述しておきます。
@『中津川市史 第四編 中世』より
「…また中津川市内については斧戸城(阿寺城)森某之におると諸旧記に見えること、またこの山を地元の人々は
蘭丸山と呼んでいることなどから、森氏に支配下(岩村)に入っていたと考えられる。阿木あたりは岩村との地縁関
係が深いところであるから、岩村領であったことはもちろんである。」

A中津川市役所ご回答:
「蘭丸山」は市内手賀野の尾根の一角で、中世城館である「阿寺(照)城」があったところです。
地名は森蘭丸からきたものといわれていますが、江戸時代の文献には「蘭丸山」は登場しません。
恐らく明治以降つけられた地名か。


 
《 交通 》 車で行きました。

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