豊臣秀吉の小田原北条攻め、その時、北条氏の支城である韮山城には森忠政も兵を率いて攻撃をしかけた。
徳川家康の隠居城ともなった駿府城には、森家の手も加わっている。
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■ 駿府城跡(静岡県静岡市葵区駿府公園)
森長可の妻であった池田恒興の娘は、森長可戦死の後は駿府城主・中村一氏のもとに 再嫁し、慶長4(1599)年に逝去した。 中村家が伯耆国に移った後の駿府城は(内藤氏を経て)徳川家康の隠居場となった。 慶長12(1606)年春には家康隠居に伴う天下普請が行われ、森忠政も駿河城の普請手 伝いにあたり、石壁を修造している。 その後も森忠政は度々、この駿府城の徳川家康の元に参謁している。 《 みどころ 》 2007年現在、「大御所四百年祭」で駿府城の発掘調査が行われている。 《 交通 》JR東海道本線静岡駅下車 |
■ 中張窪石丁場跡(ちゅうばりくぼ)(熱海市下多賀)
熱海の大久保山・中張窪山の南東斜面には、石丁場遺跡が広がっている。 ここは、慶長16年、慶長19年にかけて江戸城の天下普請に伴なう石垣の石を切り出すた めに選定された大名家の石丁場だった。 森家の領域の境界を示すために置かれていたであろう「羽柴右近」の刻印入りの巨石が 現在、二つ確認されている。 その石の一つは、山の中にある(※もう一つは次項「羽柴右近」刻印石を参照ください)。 なお、森家の石丁場と隣接している有馬豊氏の石丁場には「是よりにし 有馬玄蕃石場 慶 長一六年 七月廿一日」という刻印石があり、森家と有馬家の領域を区分している。 《 みどころ 》 池田満寿夫記念館付近、板金塗装の工場の横にある登り口から山の中 森家の石丁場の事は山内家の石奉行の覚書に記述があり、慶長18(1613)年6月時点で
《 交通 》車で連れて行ってもらいました |
■ 「羽柴右近」刻印石(熱海市下多賀)
「羽柴右近(森忠政)」と刻まれたこの刻印石は、もともと江戸城石垣普請のための瘤木石丁場 (現・池田満寿夫記念館そば)にあったもので、丁場内における森家のゾーンを示す標識石であった。 現在この刻印石は、道路の拡張工事で移動させられ、今は国道135号線のコンビニ付近に置かれ ている。 《 みどころ 》 大石には「羽柴右近」と刻印されているのがはっきりと確認できる。 《 交通 》 車で連れて行ってもらいました…。 |
■ 韮山城跡(伊豆の国市韮山韮山)
天正18(1590)年、豊臣秀吉による北条氏小田原征伐の時に、北条家の支城である 山中城やこの韮山城も豊臣方の軍勢に包囲され、攻め込まれた。 森忠政は豊臣方の大名達とともにこの韮山城攻めに及び、韮山城主・北条氏規を 睨んだ。 ただし、韮山城は豊臣方の攻撃にも落ちず、最終的には不利を悟った北条氏規が、徳 川家康を仲介した和睦に従い開城した。 《 みどころ 》 本丸から土塁や空堀、内堀などがよく残っている。 《 交通 》車で連れて行ってもらいました… |
■ 木戸稲荷陣城跡(伊豆の国市四日町)
韮山城攻めの時に森忠政が陣を張ったとされる場所、 画像の手前に見える山の低いところが韮山城本丸のあった場所(見づらくてすみません)。 《 みどころ 》 韮山駅前・韮山図書館前に広がる田園風景の中に、森忠政が陣を張った 《 交通 》 車で連れて行ってもらいました…でも、ここは韮山駅(伊豆箱根鉄道駿豆線) |
■ 和田島口(伊豆の国市韮山土手和田)
天正18(1590)年3月29日の韮山城攻撃開始の時に、左陣に配された森忠政が進撃した のが、韮山城の五つの門のうちの一つ、南の和田島口ということらしい。 画像は、和田島の地名を頼りに現地撮影したもの。 《 みどころ 》 実は私はこの「和田嶋口」情報のもともとの典拠を見いだせていません(情報求ム!)。 |
臨済寺(安養院を弔う)もお参りしたいので、つづく・・・。