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信濃四郡の領主になった森長可が、上杉領であった越後へ侵入し、上杉の居城・春日山城を睨む__。
柴田勝家に取り囲まれた魚津城に援軍に向っていた上杉景勝も、この報により春日山へと帰城、魚津城は悲劇の城と化す。
森長可は田切を押し破って二本木・関山・片貝・野尻・藤巻辺までを14ケ村放火して行ったという(『越後治乱記』)が、諸本により諸説さまざまで、正確なところは判っていない。
また、長可が二本木に陣を張っていた時に”本能寺の変”の報に触れたとする。
上杉の守った越後にも、鬼武蔵の爪あとが残る。
■ 田切城跡
白田切川と関川に接する城。現在は工事で面積を削減された上に水田と化してしまい 縄張りも何もよく判らない。発掘調査では長さ90mの堀や土塁跡などが確認されてはいる。 織田信長が武田を滅ぼし「信州に敵満ちければ、景勝信越の境なる田切に芋川越後守 を居置き、やがて森勝蔵乱入しければ安田惣八を遣はされける(『越後治乱記』)」。 上杉景勝が森長可の越後侵入に際して本誓寺の門徒たちに守らせた「大田切の城」は ここだと推定されている。 《 みどころ 》 見事に田んぼになっている上、何の説明もないので、ここに城があったとは 想像もつかない。けれど、白田切川の険しさは天然の要害というにふさわしく、 妙高山の眺めは美しかった。 《 交通 》 JR妙高高原駅より川中島バス乗車「北小学校前下車」 |
■ 本誓寺
かつて上杉謙信が上洛を試みて加賀と越後の道を阻まれた時、本誓寺の住職・超賢が 門徒を率いて道を開いたところから、越後での布教を許されたという由緒を持つ寺院。 『本誓寺記』によれば天正10(1582)年、森長可の侵入により春日山城主・上杉景勝は 大田切まで出陣していたが一方で柴田勝家が越中の魚津城を取り囲んだ事を知り、援軍 に向おうとする。 その時、景勝は本誓寺の超賢に大田切の城に立てこもって森軍を防いで欲しいと頼んだ。 諸寺院の門徒達がこの戦いの為に馳せ集まってきたというが、本能寺の変により森長可は 川中島に引き返した。 《 みどころ 》 現在は、高田市内の寺町内にある。(お寺の外見だけ確認。) 《 交通 》 JR信越本線高田駅から徒歩 |
■ 二本木
北国街道にある二本木、ここにも森長可が侵入し、放火を働いたというが、史跡としては詳 しく残るものがない。 『北越軍記』によれば上杉方からは、上條民部少輔義春(宜順)が七百騎で二本木の押さえに 向かった。 森長可が本能寺の変を知ったのは、この二本木の地とも言う。 《 みどころ 》 ただただ、地名に憧れて下車。北国街道を歩いてみると古い寺社仏閣もある。 《 交通 》 信越本線JR二本木駅 |
■ 関山神社
和銅元年(708年)妙高山の山頂を極めて霊験を感じた裸行上人が興し、妙高山関山三社大 権現と称された。 木曽義仲や上杉謙信の信仰も厚く、別当宝蔵院にも滞在したというが、天正10(1582)年5月、 森長可が越後侵入の際に放火して灰塵と化した。 江戸期に上杉謙信の甥である俊海により再興される。明治の神仏分離令で関山神社と改称。 《 みどころ 》 解説にも森長可が登場するが、神社は焼かれたためにそれ以前の文献は全く不明。 境内には関山石仏群や関山仏足石、妙高堂など、見るべきものも色々とあり、 別当宝蔵院跡などの遺構もある。 《 交通 》 JR信越本線関山駅徒歩10分 |
■ 小田切口古戦場
森長可は、所領の川中島を出立して越後を侵し、関川口に討ち入って小田切に陣を張る。 これを防ぐ上杉軍との戦いの場があった。 ……この「古戦場」の場所については、石碑もなく、はっきりと判りませんでした。 「この一帯だろう。」ぐらいしか。 詳しいことをご存知の方、ご教示ください。m(_ _)m |