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 武田領であった信州。織田信忠が攻め込んだ際には森家長可が先鋒隊として信州入りした。
後に森家の領土ともなる為、森家に関わる史跡も残る。
信濃では、武田と同じく森も嫌われているよう気がするなのでご注意を。






■ 松代(海津)城跡

 もとは海津城と呼ばれた武田方の城だった。
天正10年(1582年)3月、武田氏滅亡後に森長可が城主として入城。しかし、同年6月2日に起った
本能寺の変で信濃支配が不可能になり、長可は海津城を放棄して旧領金山に戻る。
のちの慶長5年(1600年)、家康の命で弟の忠政がこの城の城主となる。この待望の城を手に入れ
た忠政はこの城を”待城”と改名、松代という地名のもととなる。
慶長8年に美作津山(岡山県津山市)に移封になるまで森家の城となった。

《 みどころ 》 森忠政の時代に二の丸、三の丸を整備し、土塁を石垣に築き直したものと
          考えられる(解説板より抜粋)。 

《 交通 》 長野駅善光寺口バスのりばから松代行約30分 「松代駅」下車 徒歩5分



■ 善光寺千人塚

 「牛に引かれて善光寺参り」で有名な国宝・善光寺。
本堂を抜けて右奥に歩を進めると、
千人塚と呼ばれる赤い簡素な供養塔が一基建っている。
これは慶長五年頃、海津(待)城主森忠政の行った厳しい検地に対して百姓一揆が起こり、
その時に処刑された人々の供養塔といわれている。

《 みどころ 》 よく見ると、犠牲者の名前と思われるものが沢山刻まれている。
          また、この塚は別名「二斗八塚」と言い、
          延宝年間の二斗八騒動で処刑された人々の供養塔とも伝えられている。

《 交通 》 JR長野駅より徒歩30分、またはバス。



■ 長沼城跡

 戦国期の平城。海津城に次ぐ北信濃の最重要拠点であった。武田氏滅亡後は、森長可
の統治下となる。
 『森家先代実録』によれば、この城には森長可に従った重臣・各務兵庫元正が在城した。
後年、再び森忠政と信濃入りを果たした各務兵庫はこの地で生涯を終えた。

《 みどころ 》 遺構はりんご畑に囲まれて、城の石碑周辺の土塁跡以外には、目立つ遺構は
         見うけられない。
長沼体育館近くの守田神社が本丸付近とのこと。また妙笑寺の
         山門の扉が、長沼城大手門にあった扉だという。

《 交通 》 長野市穂保。千曲川堤防沿いにある大きな木が目印。
       その下のりんご畑内に「長沼城跡」の石碑がある。


■ 飯山城跡

 鎌倉時代に泉氏がここに居館を設けたのが始まりと言い、永禄7(1564)年に上杉謙信が
大改修をして築城。武田と争っていた上杉の北信濃の防衛線となる。
 天正10(1582)年、織田信長が武田を滅ぼし、森長可は信濃四郡の領主となり、飯山
も統治した。
在番に稲葉彦六を置いていたところ、一揆軍が蜂起して、この飯山城を取り囲んだ。
織田信長や織田信忠からの援軍も森長可の加勢に向かい、その後、一揆軍は大倉城へ立
て篭もり、森長可の攻撃を受けることになる。

『森家先代実録』によれば、長可はこの飯山城を叔父の林長兵衛為忠に
与えたという。

《 みどころ 》現在の遺構は、江戸時代に整備された城の遺構。

《 交通 》 JR飯山駅下車



■ 大倉(大蔵)城跡

 森長可が信濃四郡の領主となると、越後の上杉景勝が信濃の芋川荘(現上水内郡三水村
芋川)の芋川親正と計り一揆軍を蜂起させる。その時、川中島の合戦後には既に廃城になっ
たというこの城を修築して一揆軍が立て篭もった。
『信長公記』によれば、森長可は長沼口の一揆軍八千余りを追い討ちにして、千二百に及ぶ
一揆軍を討ち取り、終にはここ大倉城の女童一千余りを切り捨て悲劇の城と化した。

《 みどころ 》 遺構がとても判りやすい山城。時々、急斜面があるのでロープを伝って登る。
          山頂には、大倉一揆の犠牲者のものと思われる供養塔が並ぶ。

《 交通 》  豊野町大倉、18号線「大倉」から鳥居川とは反対の方向へ道を曲ると、途中に
        上り口がある。


猿ヶ馬場峠(森長可が信濃を去る時に人質を殺した)とか、丸子城(森忠政が真田を攻撃)とか、森家が関わった史跡、またUPしたいです。

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