長久手史跡


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森長可が最期を飾った長久手の合戦。
舅の池田恒興とともに秀吉方についていた長可は、先の羽黒の合戦にて敗北を喫したその汚名を挽回しようと画策、池田隊とともに三河の岡崎をついて小牧に陣をおく家康を孤立させんとした(現在では秀吉の考えた策だったとも言われている。)しかしこの動きを見逃さなかった家康に長久手・仏ケ根において攻撃をうけ、眉間に鉄砲傷を受けた長可はあえなく戦死してしまう。


■ 長久手古戦場跡

 かつて激戦地となったこの場所は現在きれいに整備された公園になっており、古戦場全体の地形を
縮景で表現してある「古戦場縮景」となっている。
戦場を抜けた道路にも森家鶴丸の家紋があったりして嬉しい。


《 みどころ 》 古戦場跡には長久手町資料室があり、長久手の合戦に関する書籍等なども手に入る。

《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車
 


■ 長久手町郷土資料室

 長久手古戦場の敷地内にある。1階には長久手の合戦に関する資料、2階には火縄銃や甲冑のほか、
県指定無形民俗文化財の「棒の手」などの民俗資料が展示されている。
1階には、長久手合戦ジオラマを中心に、合戦図屏風(レプリカ)や解説パネルなどがあるので、ここで
長久手の合戦について勉強し、地図の入ったパンフレットをもらってから史跡の散策をすることをオススメ。

《 みどころ 》 『長久手町史 資料編』、『劇画小牧・長久手の戦い』『長久手の戦』などの郷土書籍を
          購入できる。

《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車
 

■ 武蔵塚

 長可は徳川本陣を攻撃し、一時敵を退かせたが、さらに深くこれを追って徳川方の鉄砲が
眉間に当り落命した。長可が着ていた白い死装束が目印となったという。戦死したと伝えられる
場所に長可の官命にちなんだこの武蔵塚がある。池田父子の墓とは違い、住宅地に入りこんだ場
所にあり、道しるべも目印もないので、下手に迷ってボロボロになって塚にたどり着くよりも、初
めに場所を確認してから訪れたほうがよい。人家横の金網に囲まれた空間の中にこの塚がある。
「森武蔵守長一戦死場」と刻まれた長細い石碑が目印。この碑は、尾張藩士人見彌右衛門と
赤林孫七郎が明和8(1771)年に建てたもの。


《 みどころ 》  
この周辺の住所はズバリ「武蔵塚」。春には花見の名所として武蔵塚のまわりも
          賑やかになる。ご命日4月9日の桜真っ盛りの頃に、花見客を尻目に塚でオイオイ
          泣くのが真の勇者。塚の横にはご子孫が明治31年に立てた「森公遺蹟碑」がある。

《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車


■ 勝入塚

 古戦場公園のすぐ近くに木々に囲まれた場所があり、この中に森長可の舅でもあった美濃大垣城主・
池田恒興(=勝入)が戦死した場所がある。
森長可の陣より200m離れた場所にあり、長可の戦死後に押寄せた徳川軍により池田軍も敗走に及び、
自ら鑓を振るって力戦したものの、
安藤彦兵衛に討ち取られた。享年49歳。
彼の号・勝入斎にちなみ、”しょうにゅうづか”と呼ばれている。


《 みどころ 》 
「勝入池田公戦死處」というご子孫の手による大きな石碑があるのですぐにわかる。
    
《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車

■ 庄九郎塚

 池田恒興の長男・池田元助(=之助)の戦死した場所といわれる。幼名・庄九郎にちなみ”しょうくろうづか”
と呼ばれている。父戦死の報を聞き、父の陣地へ引き返すところを
安藤彦兵衛に討ち取られた。享年26歳。
之助の弟、輝政は家臣の「父、兄は既に退陣」の報を信じ戦場を離脱。後に備前国岡山城主となる。

《 みどころ 》 
父と同じく「紀伊守之助戦死場」と刻まれた大きな石碑がある。庄九郎塚の近くには、江戸
          時代に戦死者鎮魂の為に植えられた松の跡「二本松塚(二本松代石)」がある。


《 交通 》
 リニモ「長久手古戦場」下車

■ 番外編

長久手古戦場通り

 ストリートにも、森家の鶴丸紋ストーンが。
ツルちゃんの目がスネオ。
長久手古戦場入り口
 
 屏風型のモニュメントがあって、スクリーンの
ひとつには森家の鶴丸紋があしらわれている。
浅井屋製菓「古戦場もなか」

長久手の老舗和菓子店の
「古戦場もなか」。軍配形もなか。
パッケージ背景には、古戦場地図。

クーポン持参でもなか1個プレゼント
(2010年11月30日まで)
   

 


■ 槍合わせの場

  徳川軍が森長可の軍勢に突き崩されようとした時、徳川家康は采をとり、命令を下した。
「池田の婿は崩れた。池田の備えを突き破れ!」と家康方の平松金次郎と森方の山田八右衛門とが
槍を合わせ、また、家康方の鳥居金次郎と森方の千田主水と槍を合わせた。仏ケ根
南側側雨池北方にある。



《 みどころ 》 管理人未確認。情報モトム
         サイト訪問者より頂戴した情報によれば、
         その場所にはマンションが建ってしまったとの事(確認中)。

■ 血の池公園

家康方の渡辺槍半蔵らが槍や刀を洗った池で、合戦のあった毎年4月9日には池の水が赤くなると
いわれた”血の池”があったらしい。現在池は埋め立てられ、公園に整備されてしっかり憩いの場に
なっている。名前が憩えないが・・・・。
公園の奥には血の池で武器の洗い物をする時に、武将が鎧をかけたといわれる鎧掛けの松があっ
たという。今は3代目松なるものがある。



《 みどころ 》
血の池のいわれが書かれた石碑と、鎧かけの松がわずかに名残を留めるのみで、
         まったく血の池感がない。左の画像に見えるのが鎧掛けの松3代目。

《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車


■ 長久手城跡

長久手の合戦においては徳川方についていた加藤太郎右衛門忠景の城跡。
忠景は長久手の戦いでは義弟・丹羽氏次の居城・岩崎城を守るが、池田軍との攻防により230余名
もろともに討ち死にした。この城跡は後に民家となり荒廃したが、加藤忠景の子孫であった尾張藩士
が城跡に「加藤太郎右衛門忠景宅址」の碑を建てた。(区画整理されて、現在の場所にある。)


《 みどころ 》
今は城跡と思えるような遺構はないものの、敷地内に長久手の合戦で亡くなった死者
         を弔うお地蔵様が鎮座している。

《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車


■ 首塚

  安昌寺の雲山和尚が長久手の合戦の戦死者の屍を敵味方の区別なく集めて塚を築き、
手厚く供養した跡といわれる。


《 みどころ 》 
現在は明治43年に建てられた大きな碑がある。

      

 


■ 安昌寺

長久手の合戦後に、この安昌寺の雲山和尚が戦死者達を手厚く供養したゆえんで後年多くの
藩士たちがこの寺を訪れ、合戦にまつわる書き付けを残している。

《 みどころ 》 池田勝入父子、森長可の位牌がまつられている。

鉄圍秀公大禅定門 
   森武蔵守長可
顕功永節大禅定門 
  池田庄九郎之助
護國院雄嶽宗英大居士 
   池田勝入信輝


         ※『長久手合戦物語』柴田義雄/安昌寺 著(昭和59年)にも位牌の写真が掲載
         されている。

《 交通 》 リニモ「長久手古戦場」下車。(私はひたすら歩いたけど、寺までバスも走っている。)


■ 常照寺

リニモ「はなみずき通り」で下車、駅をでるとすぐに寺に続く長い階段が目につく。
ここには三将(池田恒興、池田之助、森長可)の墓がある。境内の墓そのものの場所はわかり
にくく、お寺の方のお住いの裏を抜けてちょっと下に下りた所にひっそりと供養塔が三基並んでい
る。

《 みどころ 》 
元文年間に書かれた『池田家御先祖様由緒書』によれば、昔は寺の中に池が
          あって年忌の日(4月9日)には池の水が血(の色?)になっていたという。
          私の参拝の折にはその池の存在はわからなかった。
          常照寺におけるご法名
          ■ 森武蔵守長可 : 鐵圍秀公大居士 
          ■ 池田恒興 : 護國院殿雄岳宗英大居士
          ■ 池田勝(庄)九郎之助 : 顯功永節大禅定門          
          
また、境内には非常に珍しい竜舌蘭があった。

《 交通 》 リニモ「はなみずき通り」下車。


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