福井県

 


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 森可成と長男・可隆が織田信長につき従って赴いた越前国。可隆は敦賀の地手筒山城で、初陣にして晴れなる最期を飾る。
また、手筒山城跡から更に進めば、有名な金ケ崎城の遺構群へとたどり着く。この地で信長は、義弟・浅井長政の逆心を知り、しんがりに木下藤吉郎(サル)を残してこの地を去ることとなる。
有名な”金ケ崎の退き口”である(と、偉そうに言ってみる)。
 そしてその五年後には、森長可が織田信長につき従って越前に入り、一向一揆軍の殲滅に力を注ぐ。



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■ 手筒山城跡(敦賀市)

 織田軍と朝倉軍の攻防戦が繰り広げられて激戦地となり、織田軍も多数の死傷者を出した。
信長は自分の御印が見えるまで手筒山城を攻めこむなと指示した結果、信長を待っていた先手の丹羽
軍らは攻撃に出ることができず、前線に死傷者を出してしまう結果となり、「信長公御一代の御誤り」と酷
評されたという。
 手筒山には朝倉太郎左衛門をはじめ、町人や気比神宮の者が立て篭もっていた。この要塞の周辺は
沼地であるために、手筒山城の敵勢も、織田信長が来ないものと油断していたが、元
元(1570)年 4月
25日、織田軍総勢十万の大軍がこの城を取り巻いて攻め込んだ。
 父・森可成とともに越前朝倉氏征伐に従軍していた
森可隆はこの時が初陣・城に一番乗りを果たして討
死を遂げた。この日のうちに、手筒山城は落城している。

《 みどころ 》 『信長公記』にも「彼(かの)城高山にて、東南峨ゝ(がが)として聳(そび)へたり。」とある
          要害。
          浄化センター近所に、手筒山の登山口がある。急な坂道を一心不乱に登れば、20分くらい
          で山頂にたどり着く。中腹には東南方面の城跡遺構を見学できる道もある。
          可隆悲劇のこの地も、本丸跡は広場と化している。
          展望台からの眺めでは、手筒山の尾根より続く金ケ崎をより明確に確認できる。
          本丸跡の横には見張台跡があるが、現在は遊びたくない児童遊技場に(草深いし)。
          また、金ヶ崎宮(金ケ崎城跡)の境内に”金ケ崎城・手筒山城”のジオラマがある。    

《 交通 》  JR敦賀駅から徒歩30分で登山口 


■ 金ヶ崎(金ヶ崎城跡)(敦賀市)

 金ヶ崎は手筒山山脈と地続きになっており、敦賀湾に突出している。
元亀元(1570)年の、越前朝倉攻めのために若狭路より越前へ入った織田軍(森可成・可隆父子も従軍)。
4月25日には前田利家の軍が金ヶ崎城を包囲。秀吉が金ヶ崎城の城主・朝倉景恒に降伏を勧めたところ、朝倉
義景や景鏡の援軍が待てども待てども来ないこともあって、景恒はあっさり降伏して武生へ退いた。
 手筒山・金ヶ崎城の両城を落城させた信長だったが、この金ヶ崎で、義弟の浅井長政の裏切りを知る。当然
信長の味方をすると思われた浅井長政が織田軍を背後から襲おうとして兵を動かしていることを知り、信長は
越前府中への進軍を断念せざるを得なくなる。殿(しんがり)として秀吉(木下藤吉郎)・明智光秀・池田勝正らを
金ヶ崎に残し、自らは朽木越えで命からがらの退却劇を繰り広げた(金ヶ崎の退き口)。
 この前後、森可成は、織田信長の命で今道(尾張-京都)ルートの確保と、浅井・朝倉勢の南下阻止を目的とし
た宇佐山城を近江に築いて城主となっている。

《 みどころ 》 山中に三つの城木戸、月見御殿などの遺構がよく残っている。
          麓の平地が本丸だったといい、その地にある金ヶ崎宮の境内には金ヶ崎の歴史を説明する看板
          や”金ケ崎城・手筒山城”のジオラマがある。    

《 交通 》  JR敦賀駅から徒歩30分以上本数が少ないけど、コミュニティーバスもある。 


■ 木ノ芽峠(敦賀市)

 木目峠ともいう。平安時代に開削された古い官道で、敦賀から今庄へ抜ける最短路。
1575年(天正3)一向一揆平定のため、信長軍は木ノ芽峠から、もしくは敦賀から海路を通り、河野浦など
海岸に上陸して府中に攻めに入んだ。この時、森長可は木ノ芽越えルートで府中に攻め込んでいる。

《 みどころ 》 森長可のほか、道元禅師、親鸞聖人、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉ザル、芭蕉などの
歴史人物も通ったとのこと。天正3(1575)年に織田信長と一向一揆との激戦が繰り広げられた鉢伏城、木
ノ芽城、観音丸城、西光寺城などの一揆軍要塞群が山中に存在する。
※峠にはクマが出るというので、クマ対策していない私は峠越えを断念。入口だけうろついてきました(涙)。

《 交通 》  JR敦賀駅よりコミュニティーバス東郷線「新保バス停」下車後、延々と徒歩(バス停より山頂
までは約80分だそうです)。


■ 龍門寺城跡(武生市)

 府中龍門寺城。龍門寺の開創は正安元(1299)年と伝えられ、当時の府中の南端に位置していた。
天正元(1573)年の朝倉攻めの折、信長はこの「龍門寺城」を拠点にしている。朝倉氏を滅ぼした信長は、
信長に寝返ってきた朝倉氏の家臣に越前を任せて引きあげたが、その後、越前一向一揆の勢力が圧倒
的になり、一揆の大将三宅権之丞等がこの龍門寺城に立て籠もっている。
 そのため、天正3(1575)年一向一揆平定のため、信長軍は木ノ芽峠からと、敦賀から海路を通り、河野
浦など海岸に上陸して府中に攻めに入み(この時、森長可は木ノ芽を越えている。)、この城にも攻めこみ
落城させ、再びこの城を拠点にして、越前の一揆軍を殲滅させた。その時、森長可もこの城を攻めている。
 一向一揆平定後、府中一帯10万石は前田利家・不破光治・佐々成政(府中三人衆)に任せられ、不破光
治が龍門寺に入った。

《 みどころ 》 寺院の南側には堀跡と考えられる場所があって、現在墓地になっている。近くには城に関わ
る小字名や、織田信長軍が兵士の数を計るために造ったと言われる卍が辻の桝形などもある。
森軍がこの城に攻め込んだ折、長可の家来・河村勝助の配下の者が来国俊の名物「蜘蛛切」の太刀を見つけ
ており、太刀は信長に献上された。

《 交通 》  車で行ったのでよく判りませんが、JR武生駅から徒歩圏内かと。 


■ 後瀬山城跡(小浜市)

大永2(1522)年若狭守護・武田元光が後瀬山に築城したことに城の歴史が始まる。若狭武田氏滅亡後には丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が入城して統治拠点としたが、慶長6(1601)年の関ヶ原合戦後には京極高次が拠点を雲浜築城(現・小浜城)に移して後瀬山城は廃城となった。主郭跡には現在、愛宕神社が建っており、参詣道から城跡へアクセスする登山道が整備されている。 

《 みどころ 》森蘭丸の姉・梅(のちの宝泉院)の夫・木下勝俊が1593(文禄2)年に小浜領主となり後瀬山城を居城とした。城跡の石垣などが残っている。
『後瀬山此里にすみ始めしころにや、さとの児か椎ひろひにとなれてさそふ』 (長嘯子)

《 交通 》 最寄り駅・JR小浜駅)城跡へは麓から約40分徒歩


■ 佛国寺(小浜市伏原)

文亀2(1502)年に若狭守護の武田元信によって建立された曹洞宗の寺院。
武田元信の五輪塔があり(画像右)、その傍らには小浜領主だった木下勝俊の墓(画像左)も建立されている(墓石の刻印によれば昭和5年建立)。

《 みどころ 》森蘭丸の姉・梅(のちの宝泉院)の夫である木下勝俊は1593(文禄2)年に小浜領主となり後瀬山城を居城とした。しかし、関ヶ原の戦いの折に預かっていた伏見城を捨て戦線離脱したために改易となり、梅とも離婚に至る。その後、勝俊は木下長嘯子(ちょうしょうし)を名乗り京都・高台寺に隠棲して1649(慶安2)年に亡くなった。勝俊の墓所は高台寺にあるが、昭和5年に建立された墓も小浜にある(と、現地で知った)。
寺の門前には人物紹介の看板『人の駅 木下勝俊』が設置されている。

《 交通 》 最寄り駅・JR小浜駅 (駅前の若狭おばま観光案内所にレンタサイクルあり) 


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