■ 那古野城跡(中区本丸)
大永年間の初めに今川氏親が築いた城で当時は「柳之丸」と称したこの城を、天文元(1532)年、織田信長の 父・信秀が今川氏豊からこの城を奪って「那古野城」と称して居城とした。 後に信秀はこの城を子の信長に与え、信長が弘治元(1555)年に清洲城へ移るまでの居城となった。 《 みどころ 》 現在の名古屋城二の丸・三の丸周辺。石碑と説明看板があった。 《 交通 》 地下鉄・名城線「市役所」下車 徒歩5分 / 鶴舞線「浅間町」下車 徒歩10分 |
■ 名古屋城(中区本丸)
江戸幕府を開いた徳川家康は、豊臣との来るべき戦いに備えて各地に天下普請で城を築いていったが、 慶長15年(1610年)には豊臣恩顧の外様大名を動員した天下普請で名古屋城を築城。 その時には、清洲城も築城の材料として利用された。当時の天守は太平洋戦争で燃えてしまったが、御深 井丸の西北櫓は、清洲城天主の古材で造られて別名「清洲櫓」とも呼ばれ、こちらは現存する。 《 みどころ 》 『森家先代実録』によれば、森忠政が名古屋城の普請手伝いをしたとされているけど、津山市 《 交通 》 地下鉄・名城線「市役所」下車徒歩5分 / 鶴舞線「浅間町」下車 徒歩10分 |
■ 稲生原古戦場跡 (西区名塚)
弘治2(1556)8月24日、柴田勝家らが織田信長の弟(信行)を擁立して、織田信長をこの地において討とうと した戦い。森可成も信長の為に大いに奮闘した。 現在は名塚1丁目に古戦場跡として(三角形に)整備され、敷地内には合戦の解説看板と、戦死者を弔う 庚申塚がある。 《 みどころ 》 森可成は、自らも鑓をおっとり敵を刺せども首は無視し、下知することに専念して織田信長を勝 利に導いたという(『森家先代実録』)。 一方、『信長公記』では森可成は信長本陣の手前にあって織田造酒丞とともに、敵と味方が攻め合ってもみく ちゃになっている所にさらに突っ込んで戦っている。 その時に、信長が大声をあげたらしくて敵はその信長の怒りように驚いて一気に崩れていった。 敷地が狭くて目立たない三角形の公園なので、地図で正確な場所を確認しながらでないと道に迷うかも…。 《 交通 》 地下鉄鶴舞線庄内通駅下車 徒歩 |
■ 桶狭間古戦場跡 (緑区)
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桶狭間の戦いは、永禄3(1560)年5月19日に織田信長が今川義元を尾張の桶狭間で破った戦いとしてあまりにも 有名。もう一つ、豊明市にも「桶狭間古戦場伝説地」がある。 《 みどころ 》 『森家先代実録』『御家聞伝書』によればこの戦いで、森可成は信長に、”相手に備えができないよ 《 交通 》 管理人は、まだここに行ったことがないデス…。 |
■ 桶狭間古戦場伝説地(豊明市)
桶狭間の戦い伝承地のもう一つの場所。 桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日に織田信長が今川義元を尾張の桶狭間で破った戦いとしてあまりにも有名。 森可成も参戦している。 《 みどころ 》 『森家先代実録』『御家聞伝書』によればこの戦いで、森可成は信長に、”相手に備えができないよ 《 交通 》 名鉄名古屋本線中京競馬場前駅から徒歩 |
■ 清洲城跡 (朝日城屋敷)
清須城とも。弘治元(1555)年、織田信長は叔父の織田信光と共謀して、当時対立関係にあった守護代・織田 彦五郎(信友または広信)を攻めて清洲城を奪い取った。 それにより、美濃攻略の拠点として小牧山城に移る永録6(1563)まで清洲城が信長の居城となった。 有名な桶狭間の戦いもこの城から出陣している。 現在、当時の清洲城の跡地はJRでガッツリと分断され、また、当時の本丸とはずれた場所にプラスチックのよう な模擬天守が建っている。清洲城の古材は名古屋城築城に持って行かれてリサイクルされた。 (画像は、五条川の護岸工事の際に発掘された清洲城石垣の一部。) 《 みどころ 》 『信長公記』では、織田彦五郎は信光に押し寄せられて自害するが、『森家先代実録』では、 《 交通 》 名鉄電車
名古屋本線「新清洲駅」下車徒歩15分 / JR東海
東海道線清洲駅下車徒歩15分 |