姫の茶壷

長可が秀吉に借金してまで買わせられた名物。

沢姫(さはひめ)

東山御物

茶葉が7斤余入る大茶壷。


長久手の戦いのある4、5日前、長可の元へ家臣らが全員集結した。戦の役割を申し述べた後、長可は奥の部屋へ入って

行ったが、また戻ってきた。「いずれもしばらく待つべし。」そういって長可が自ら抱きかかえてきて、家臣一同に披露した茶

壷がある。

『・・・見申すべしと御自身、裸壷を抱き出給ひ、広間に差し置かれて内に入給ひ、何(いづれ)も拝見致せし也』

「内に入りたまひっ?!」と読んで、長可どのが壷の中に入ってしまったのかとそのシュールレアリズムにドキドキしたが、よく

吟味するに”内に入れたまひ”と読み、”みんなを広間の中に招き入れた”と解くべきか。(00;)

決死の戦の前に長可が家臣たちに見せてあげたこの茶壷、『さはひめ』という。

秀吉の勧め、というか、指図に従って長可がこの茶壷を買った、買わされた。

ピンポーン♪

長可が自宅のドアを開けたら、金色スーツ姿の秀吉がドアのすきまに無理矢理足をはさみこんできてこう言う。

「この魔法の壷さえ買えばあなたも先祖も救われるだぎゃー、今なら500万円だぎゃー。」

・・・・・・そういう話ではないらしい。

そんな変な壷を売りつけられたら、目利きの長可さんは相手の足の肉と骨とを断ちながら強引にでもドアを閉めてしまうに

違いない。

「さはひめ」の茶壷はれっきとした東山御物の大茶壷で足利8代目将軍・足利義政の同朋の能阿弥の極めによって「沢姫」

の銘で伝わった逸品である。秀吉の指図に従って購入したものの、代金が足りず、不足分を京都の豪商・大文字休徳斎
に用立てさせた。秀吉からも、金二枚を援助してもらった。そういう逸品である。

どんな姿の壷であったか、博多の商人・神屋宗湛の『宗湛日記』に詳しい。オタッキーな人が記録しておいてくれてよかった。

(わかりやすいように ひらがな交じりに直した。)

『一.さほひめ大壷は、七斤余入と也。肩なで、胴張る、乳の内一つ次(=継)付候かと見ゆる。
土赤めに、そと白けたり、土の心はよし。上薬は薄く、しら(=白)りと青め也、一方に三寸ほど
のつぼすり有(このまわりに薬濃くたまる)、一方に四、五寸ほどにべっさりと押入たるやうに有、
その下になだれ一四、五あり、二つは底まで懸(かか)る。その下に横こぶあり、底に”さは姫”
と相阿
の判有、かなに又左の方にそろて、”さはひめ”其上に能阿の判あり、口の高一寸ほ
どに、但(ただし)下しむる、ろくろ三つ、あざやかに段々に候、遠山あり、あざやか也、常の壷に
なりも替る也、又蓋の内に”さほひめ”と有り、

是は宗及書付候と也、宇治森所にて也。

一、覆もえぎ金らん、裏あさぎ、しめ緒紅也。

一.さほひめとは、春まで一段茶よきよて申との説也、茶の色春霞のやうに、外白らけて立やうなる
とて申す説あり 是に説有なり』

注: ※相阿:相阿弥。足利義政の東山殿中に仕えた同朋衆 
   ※能阿:相阿弥の祖父。足利義教・義政に仕えた同胞衆 森:宇治の茶師

どうやら、長可の時代には「さはひめ」だったものを、天正15年10月には津田宗及が茶師の森彦右衛門のところで「佐保姫」

に改めていたらしい。

この壷は長可の死後、どうなったか・・・。森長可の遺言の第一項目目はこうである。

『一、さはひめのつぼ、秀吉様へ進上。但、いまは宇治にあり。』

どうさ、この長可の気前のよさ。自分の死後、森家の後事を秀吉がうまく取り計らってくれることを心から願ってのことだろう。

秀吉は、烈士の形見としてこの茶壷を愛用したという。

 


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