旅行記INDEX
  

■■ 8月7日(水)■■森家史跡めぐり、高遠(長野)編
高遠城跡は武田信玄の息子さんである仁科五郎盛信公が守っていました。人呼んでゴロちゃんである。天正10年(1582年)織田軍団が武田攻めでやってきたとき、彼は麗しき26歳(諸説あり。19歳〜34歳)武田恩顧の重臣たちが次々と武田にそむいて織田へ寝返る中、「兄の勝頼を滅ぼさんと押しとおる軍勢を通すわけにはいかぬ!」と討ち死に覚悟で決起しました。抜け駆けの常習犯である森長可兄貴は、この戦いにおいても、みんなで約束した時間を待てずに、とっとと軍勢を繰り出しちゃって2度もこっぴどく信長にしかられました。敵はすでに死を覚悟する者たち、死に物狂いで 向かってくる敵に、鬼の武蔵と呼ばれた長可も、苦戦を強いられます。まあ、最終的にはブチ切れた兄貴が城の屋根に登って屋根を引き剥がして、弓鉄砲の雨を降らせて城内を血ダルマ状態にしてしまいます。(※よい子のみなさんは決してまねをしないでください。)ついに盛信は自害してしまいました。そのような悲しい歴史を持つこの城跡も今では桜をあでやかにまとい、美しく咲き誇って人々の目を楽しませてくれます。本丸跡には盛信を祭る 藤原神社があります。盛信の眠る五郎山があるはずだけど、山がありすぎてどれかわからない。高遠町立博物館に寄った次は、桂泉院、信長の嫡男信忠が、よそからぶんどってきた梵鐘があります。高遠城攻撃の際にも、法要の際にもこの鐘を鳴らしています。盛信の位牌もあります。

建福寺で、武田勝頼の母のお墓参りをした後、遠照寺弘妙寺へ。。。。森長可と関係の深い寺です。腹が減っては戦ができぬ、長可は寺へ行って炊き出しを命じるのですが・・・・・。まず私が訪れたのは遠照寺、住職にお話を聞かせていただきました。このお寺は長可兄貴に炊き出しをしてあげ たので、彼は喜んで、お礼に諏訪から強奪してきた太鼓と鰐口を時の住職にプレゼントしました。元手ゼロでご飯が食べれました。よかったね。その太鼓と鰐口は現存します。「もうひとつ説がございまして、味方にも多くの犠牲がでたので、これで弔ってくれと、わが寺に頼んだというお話もあります。」次に訪れた弘妙寺には、”忠義の寺”というキャッチコピーがつけられています。ほーら、長可兄貴がご飯をもらいにやってきました。

長可:「和尚、飯をくわせろ。デザートはプッチンプリンじゃ。」
住職:「わが主君(武田)を討つ敵に飯などやれぬ。」
長可:「なに?くれんのなら、
寺、燃やすぞ。」
住職:「何と申されようと、敵にくれてやる飯などない。」
長可:
プチッ!(切れる音)「ものども!火を放てぃ!あ、でも、仏には罪はないので仏様は燃やすなよ。(※ちょっとこの辺で熱心な仏教徒のお母さんの教えが生かされている。)」

「うちのお寺以外にも11箇寺燃やされています。」とお寺の方が教えてくださいました。こうして兄貴は敵領の民心をたちどころにアンチ・ノブナガに燃え上がらせちゃったのでした。

 

■■8月8日(木)■■ 川中島にて信玄と謙信のデートを発見
松本城は国宝でした。鯉がおいしそうです。白鳥もおいしそうです。あ、亀もおいしそう。暑さでダウン。松本の正鱗寺に東洋のマタ・ハリと呼ばれた川島芳子さんのお墓があります。犬の散歩をしているおばあちゃんに墓の場所を尋ねて連れていってもらいました。「あそこにも行きなさるとよろしい。」 前方には美しく新しい建物が。「あの建物は資料館か何かですか?」「火葬場じゃ。」すすめないで。お墓参りの後は、日本司法博物館へ。川島芳子資料室がありました。この目的を果たして、ほかの展示品をのぞくと、巣鴨プリズン戦犯資料が!すごすぎてすごすぎて、目をみはりんこ!

長野へ向かい、川中島古戦場発見!武田信玄像と上杉謙信像がじゃれあっていました。こんな暑い日になにやってんだか!まあ、ブロンズボディ なんて涼しいいからね。怪我の心配もなく、うらやましい。近くのお蕎麦やさんで典厩寺の場所を尋ねたら、善光寺を教えてくれんした。てんきゅうじ。てんきゅうじ。読みはてんきゅうじ。川中島の戦いで討ち死にした武田典厩信繁さん(既婚)のお墓があります。ほかにも信玄や謙信ゆかりのものが思いがけずもいろいろあってパラダイスでした。プリンも豆腐もひし形に切ってしまう信玄ファン、生涯独身を通す謙信ファンは一見の価値有り。そして夜訪れたのが、多分世界遺産の善光寺。牛に引かれてはねられて、気づいたら善光寺。人の作ったものなのに、まるで大自然の一部のように神々しい。いや、仏々しい

 

■■8月9日(金)■■ 嗚呼、松代城は金網に囲まれての巻
松代城。森長可が城主だったときは海津城と呼ばれていました。海ないじゃん。上杉領と接するこの信濃を兄貴に預けた信長の期待が感じられます。兄貴はこの城から川中島を眺め胸の高鳴りを押さえずにはいられなかったでしょう。感動のあまり欄干の上で踊ったり、廊下を前転していたかも知れません。 しかし、今は工事中で入れないそうです。おもいっきり工事中で金網で囲まれていますねん。入れろー!!!長可兄貴が本能寺の変を知ったのはこの城にいたときです。輝ける未来を信じて疑わなかった彼に届いた突然の訃報。それからの長可の行動は早かった。当時は工事中の金網もなかったので長可はたやすくこの城を脱出しました。いろいろな人たちに日ごろの仕返しをされながらも、兼山に帰り着きました。たった数ヶ月の城主。後には森忠政がこの城もらって松代城と名を改めます。たぶん、「海ないじゃん。」と思ったからでしょう。(ちがいます。)真田資料館では、ボランティアの方が館内を説明してくれ真田一族のすばらしさについて語ってくれました。森長可についてたずねると、「ここは真田の資料ばかりです。」と言われてしまった悲しみ。旧真田邸を見て、これまた真田ゆかりの上田へ。上田城内は今は真田神社になっています。境内の中には変な窓付きタルがありました。真田親子宅

 

高遠城本丸跡
武田方の若き武将仁科五郎盛信の守った城。森長可兄さん大ハッスル。
国宝松本城
ライトアップされた松本城も
素敵だ。

川中島古戦場にて
ばったり出会って、 じゃんけんに興じる武田信玄と上杉謙信の像
松代城跡
工事中で当分入れません。 あの中はパラダイスに違いないのに、、。無念なり。
上田城跡
真田の居城。関が原の戦の時、森忠政は徳川秀忠とここで足止めをくらった。
真田神社の謎の樽の家
果たしてここで真田親子が住んだのか?

 

■■8月10日(土)■■天下に明智駅が2つあり
森家の里、兼山へ赴かんと名古屋駅からJRに乗り込む。『そのとき歴史はうごいた』、うきき、赤っ恥まであと3時間半。多治見駅を過ぎ恵那駅へたどり着いて明智鉄道に乗り換え。しかし、明智鉄道には数本しか列車がない。恵那駅で時間をつぶすよりほかなかったです。
駅のお姉さん:「あと一時間半待たなくてはならないってことですよね。 ずいぶん時間ありますね。」
うきき:「恵那峡へ行ってみることにします。」
駅のお姉さん:「そんな時間ないです。 」
というわけでお姉さんお勧めの中仙道を歩いて大井宿ひし屋資料館美術館で時間をつぶし、ようやく明智線に乗りました。予習のために『兼山軍記』を読んで50分、明智駅である。降りて兼山行きのバスに乗ろうとする。バス。バス、、、兼山いきのバスがない。うきき、赤っ恥の瞬間3、2、1、、、、(・・)→(>■>;)

私が乗るべきは名鉄線じゃん!!!!!
じゃかじゃかじゃーん、じゃかじゃかじゃーん、じゃかじゃかじゃんけんじゃんけんぽん!明智線にも名鉄線にも明智駅が存在 しますが、ぜんぜん所在地が異なります。お、思いもかけず明智光秀の生まれ故郷に降りたってしもた。どうあがいてもいまさら兼山に行くのは無理。なんで蘭丸を観にきて光秀なのか?!兼山に行くのにいつも名鉄に乗っていたのに、なんというオオボケ。悔しいが、ここは前向きに明智光秀ツアーさ。ああ、みっちゃん、ここであなたは生まれた。ここにくることが出来て感激。駅の人にたずねる。「明智城へはどう行くのですか?」「明智城?そんなところに行ってどうするの?」「それもそうですね。」明智駅に降りて数分で再び車上の人に。さっきの電車と車掌じゃん。岩村駅へ引き返して一心不乱に岩村城跡へ上りました。ここは日本一標高の高い城です。体調悪いのに炎天下の中、ひーひー言って歩きました。誰もいないじゃないかっ!登れど登れど登れどまだまだ私の身長の何倍もある高さの石垣が長々と続きます。涙ちょちょ切れる巨大ラビリンス!かくしてフラフラになって本丸跡にたどりつきました。私をしぼっても一滴も水はでないぞ。武田氏の居城だけど、織田軍が攻め落とした後、森蘭丸、長可、忠政が治めました。もっとも蘭ちゃんは城主と言えど、殿のお傍を離れられないからか、山城じゃ釣りができないという理由からか、家老各務兵庫を城代においていました。たった数ヶ月だけ蘭ちゃんはお殿様でした。でもね、ゼイゼイ。断れよ。要りませんっていいなさいよ。
殿:「この岩村城はお蘭にくれてやる。今日からそちは城主にして大名よ。はっはっはっ。」
蘭丸:「後世私のファンゆえにここに史跡めぐりに来た人が、あまりに標高高すぎて激怒するので要りません。」

ほかにもいろいろ史跡があるのですが、今回はパス。だって駅に戻らないと、汽車に間に合わないー!!!17:14の汽車を逃すと次は18:50だぞ、恐ろしい。なんとか走って17:12に駅に滑り込む。たった一人の駅員さんが、汽車のために旗を振りにプラットホームへ向かっていたので、おいおい叫んだ!「明智駅までの切符売ってください!早く!」駅員がかけ戻ってきてくださり、明智駅行きの切符を渡してくれ、また走ってホームへ行ってしまいまし た。ぼーっとしながら汽車のほうを眺めていました。そして突然気づいた!「ぎゃーっ!!!!明智駅じゃない!
私は名古屋に戻るんです!その汽車待って!」ごめんなさい、駅員さん。ごめんなさい。暑さで脳みそがセキセイインコ並みになっていたんです。なぜ私の潜在意識は明智駅に戻ろうとしていたのか。あやうく光秀の罠にはまるところでした。あぶない、あぶない。


■■8月11日(日)■■兼山にて拾われる
森家の里、兼山に赴かんと名古屋駅から名鉄に乗りこむ。明智駅からバスに乗って兼山に舞い降りました。「とぉーっ!」しゃきーん!!!今日は間違えずにこれたもんねー。可成寺常照寺へかけつけて森ファミリー墓にごあいさつ。それから、民俗資料館へ行きました。私がお会いしたいと願っていた古文書の先生にお会いすることが叶い、延々と話しこんでしまいました。先生と別れ、お昼ごはんを食べ終わってから、資料館に入り浸ることにしました。資料館右の喫茶店に言ったら残念ながらしまっていたので、遠くにある食事処、蘭丸亭まで、ずーっと城下町を歩きました。蘭丸定食にはエビフライがついている。なぜエビフライなのかというと、多分蘭ちゃんの頭はエビフライでできていたのでしょう。食べているときに外は大雨になりました。通り雨なのですぐに止んで、安心して小唄を歌いながら資料館へ戻っていると、間もなく、すさまじい土砂降りになりました。人の家の軒先を借りて雨宿り、どうしよう、、。
@雨の中を猛ダッシュ→水に濡れるとグレムリンなるのでそれはできない。
A雨が止むまで何日でもここで待ちつづける。→もたもたしていると残党狩りに遭うのでだめ。
こういうときに白い歯をキラリーンと輝かせた男性がそっとかさをさしかけてきてくれるものなのだ、と思っていたら、本当に天の助けで男性が傘をさしかけてくれました。び、びっくり。これが都会なら、知らない殿方にのこのこついていくと明日には私はブタマンの具になっていたはずですが、兼山にはいい人しかいない!お会いした方は地元の方で、お土産までくださって資料館で夕方まで語り倒して一日は終わりました。なんとも楽しい一日でした。

 

■■8月12日(月)■■犬山で鵜飼いに興じる
友達と、名古屋駅タワーズで待ち合わせ。豆腐料理を食べてから、犬山のライン川くだりを楽しみました。さっそうと船の一番前の席に乗りこみました。 ほかの乗客も乗りこんで、みんな着席し終えると、空から船に雨が降り注いだ。全員逃げ出しました。あーなんてこった。楽しみにしてたのに。さすれば船頭、鉄パイプの束を出してきました。雨で退却した惰弱な乗客をなぐってやろう、というわけではない。シートを広げ、船に屋根をとりつけてくれたのでした。でも、船に屋根がついたら雨があがったぞ、やるな、おやじ。木曽川を下るのは大変涼しい。景色も大変美しい。水しぶきがかかりそうな場合は1列4人の外側の席の人はビニルシートを肩までかけます。一番前の席の人はビニルシートをひざにかけます。外側の席で最前列の
友達は肩にもひざにもビニルシートをひっかぶって、防水加工済こなきじじいになっていました。とにかくスリルとサスペンスの優雅な川くだり。それから友達があやしげな計画を立ててくれました。犬山→岐阜城犬山鵜飼。時間的に岐阜城は一瞬しかおれない。でも、実行しました。犬山から名鉄に乗り、新岐阜駅からバスに乗り、ロープウェイで金華山に登り、急いで登城して最上階に昇って、かけおりて、ロープウェイに乗って、バスにのってJR岐阜駅からJRに乗り新鵜沼駅からタクシーに乗って犬山の鵜飼へ。遅刻。何がしたかったんだ、わしら。しかも友達、城で寄生虫の話しをしてたぞ。ビバ!サナダムシ!しかし、岐阜城へ一瞬でも登れてわれは本望です。ところで、私たちの乗るはずだった船はすでに、木曽川のど真ん中を優雅に浮かんでいます。かくなる上は私をかついであそこまで死ぬ気で泳げ!!でも実は小船でそこまで連れていってもらいました。よかった。どっぷりと日が暮れ、鵜飼が始まる。闇の中にともされるかがり火が大きくくずれて火の粉を散らすのが美しい。炎に照らされた鵜は、魚をとっちゃ吐かされ、とっちゃ吐かされ。首根っこつかんでぐりぐりぐり。大変心あたたまる情景でした。

 

■■8月13日(火)■■ 伊勢でグルメになる。
占い師が言うた。「お伊勢にお参りして大阪方面に抜ければ、あなたの探していたものが見つかります。」だまされたと思って私は伊勢にきています。まず、外宮をお参りしましたが、朝ご飯がバナナ一本でお腹がすいたのでコンビニでチョコボールを買いました。お参りしながら食べよう、などと考えておりました。入り口で関東から青春18切符で旅行している女性と出会い、一緒にお参りすることにあいなりました。お伊勢参りは江戸時代に大ブームが巻き起こり、日本全国からマイ・ヒシャクを持った人々が群れと化してガンガンお参りしてきました。昔はひたすら徒歩ですが、現代はありがたいもので列車にバスがあります。外宮のお参りが終わって神道博物館に行きましょう、ということになってバスを途中で降りて博物館への坂道を炎天下の中歩いていくと休館日でした。一人だったら大暴れしているところですが、初対面のお嬢さんと一緒だったので、もの静かに暴れました。博物館そばの倭姫宮をお参りした後、メインの本宮へおもむかんとバスを待つ。お互いの年を尋ねあったら、同じ年でした。こうして素敵な人と知り合えたのも、神様のお導きでしょうか?宮の門前にはいろいろなお店があります。赤福本店でかき氷を食べる。今日も馬鹿暑いので、氷がただただおいしかった。今朝買ってリュックに入れているチョコボールはどんな形になっているだろう、、、。お宮の撮影は禁じられています。撮影してもいいけど、制服を着たお兄さんたちに小脇をかかえて知らないところへ連れて行かれます。それほど、由緒正しい場所なのでした。2人、再び車上の人となり、彼女は二見ヶ浦を観に途中でバスを降り、おいらは鳥羽へ。くくくくく。鳥羽といえば、鳥羽水族館でござる。その前にお腹が空いたので、海鮮料理店でマンボウを注文する。「は?え?マンボウ?は?マンボウですか?」 「三重県民ってマンボウを食べる習慣があるのでしょう? 」「いえ、食べません。」「マンボウが名物と聴きましたけど。」「伊勢エビが名物です。」だ、だまされた。マンボウ食わないのか、三重県民。だまされてのこのこ鳥羽まできてしまった。結局、伊勢うどんとサザエのつぼ焼きを食べました。伊勢うどんを死ぬほどかき回して食べました。そして私はけなげに立ち直りました。マンボウは食べるものではない、実は観るものらしいです。そういう訳でマンボウに会いに鳥羽水族館に行ったらマンボウ、いなかったよ。マンボウいなかったよ。ジュゴン見せている場合じゃないだろう、鳥羽水族館。マンボウがいないことに気づかないのか?大阪方面に向かうために、とりあえず奈良に出ました。ラッキーなことに、奈良燈火会に立ち会うことが出来ました。猿沢の池の水面や、浅芽ヶ原に幻想的な何千ものろうそくが闇の中でほのかに燃えているのです。バックには興福寺五重塔のライトアップ。思わず涙がこぼれてしまうほどの幻想的な世界です。もう、チョコボールがデロデロに解けて一塊の物体になっていようが、マンボウの踊り食いができまいが、もうどうでもいい。しかし、今日とった宿の私の部屋に狛犬(こまいぬ)が置いてることと、殺人映画のビデオがずらりと並んでいることは、無茶無茶なっとくできない!怖い!


■■8月14日(水)■■ 奈良で干物になる。
ろくに眠れませんでした。すべては旅館の部屋に鎮座まします狛犬のせいです。やめてくれ。こわいよぅ。一晩中電気をコウコウとつけ、TVをつけて震えながら携帯電話で「ぷよぷよ」ゲームしていました。他にも、館内に鎧とか、十手とかシヴァ神とか色々あるのに注目したい。不眠の上、よろけながら旅館を出発。興福寺に行きました。私が奈良に寄ったのは、阿修羅像にむしょうに会いたくなったからです。あの、思いつめたような物憂い気な表情、どうすることもできず立ちつくす阿修羅像。なんともいえない。朝一番に館内に入って、心ゆくまで阿修羅像と対面しました。そして、次は東大寺でひからびました。きち●いの暑さです。ぶっ倒れたら、私を正倉院のはしっこにでも植えてくれ。水やりはかかさないで。さて、言うまでもないですが、大仏はでかいです。ずーっと見上げつづけてしん どい。かといって下の方を見ると柱の穴に兄ちゃんが食い込んで抜けなくなっている。東大寺を支えるでかい支柱のひとつに横穴があいていて、その穴に体を通すことができれば、その年は無事すごせるとかなんとかいう穴だったと思います。子供ならくぐれそうな穴です。でも、兄ちゃんは抜けなくなっていた。もう彼はここで余生を柱の一部としてすごすしかないと思われた。自力で脱出できないとわかると、友達が必死にその青年を引っ張って引きずり出そうとしています。あきらめの悪い人たちだ。ついには観光客は大仏どころではなく、こっちの方に集まり始めました。この男が世界遺産の大仏を超越した瞬間だった。
「俺は見世物じゃねーっつつ!!!!!!」と力の限り叫んでいたけど、完全にいい笑い者でした。正倉院を見物して、戒壇院へ。有名な建物なのに観光客はこちらにまでほとんど足を伸ばさないのでゆっくり見物しました。が、異様にのどが乾いて頭が痛くなって水をもとめてさまようはめに。自販機を見つけたときは感激のあまり抱きついた。復活してから、在原業平ゆかりの不退寺へ。ちょうど本堂に入ったときに外は大雨。 「なに、夕立です。涼しくなっていいですよ。何せ雨が降ったのはここ最近はじめてですから。」お坊さんと本堂でお話しました。しかしなぜか毎日雨にふられている気がするのは私だけだろうか、、。このお寺には四季さまざまな花が咲いて美しいそうですが、あいにく今の時期は何もないとのこと。それでも 2輪だけ蓮の花が咲いていました。私にはそれだけで十分。
なんか胃の調子がよくないので、いったんふるさとの福岡に戻ることにしました。そんな私に弟が携帯電話にメールで「大阪名物蓬莱の肉まんを買ってきて」とよこしてきました。大阪、そういえば、占い師は伊勢から大阪方面へ、と言っていた。しかし、問題だ。私は蓬莱のお店は京都駅にあることしか知らないのです。 でも、ま、京都から新幹線で大阪に抜けるから、いっか♪肉まん10個を背負って郷里に帰りました。しかし、占い師のいう、”私の探していたもの” とは一体何だったのだろう、、、。狛犬ではない。肉まんであってほしくない。



興福寺の五重塔 春日神社の鹿 不退寺の蓮