\(^o^)/ 森家しらみつぶしの旅 2002年12月 旅行記INDEX

12月20日(金) 赤穂は踊る

19日の夜に夜行バスで岡山に向かう。旅は初日から多忙を極めた。なぜなら、ひとえに私がバスの出発時間の22時を
午後11時と勘違いしてたから。家を出るべき時間になっても、のん気に家で「渡鬼」を見ていた自分が、今となっては懐
かしい。22時が午後10時ではないのか、という偉大な歴史の流れに気付いた時の自分の行動の速やかさは、きっと「
速き事風の如し」の孫子の兵法にも叶っていよう。

20日、朝。岡山から電車を乗り換え赤穂に行く。同行するM氏と落ち合い、森家の菩提寺の花岳寺で、地元の
歴史研究家、桃さん(仮名)とお会いした。この花岳寺には、赤穂藩森家の墓、御霊屋、位牌、お成り部屋の小書院、
赤穂城の門を使った山門がある。

森家のことをここで、説明しておくと蘭丸や長可兄貴が亡くなった後の森家は、美濃金山時代→川中島時代→青春時
代→美濃金山時代→津山時代→赤穂時代そんでもって幕末にいたる。途中、三日月藩にも分家ができた。

しかし、赤穂はご存知のようにまた、忠臣蔵が花盛り。今年は討ち入り300年でことさら花盛り。おかげで、森家ゆかりの
ものも、森家の名前もひっこめられている。私にとっては、かなり余計なお世話である。そして、すぐに話が赤穂浪士に
スライドしてしまう。その筋の話では、赤穂家臣は江戸から4昼夜早籠を飛ばし、赤穂へ急ぎ大事を知らせたが、桃さん
はチャリンコで2日半で東京へ行けてしまったとおっしゃった。赤穂からチャリで東京へ?!一瞬驚いたけど、しかし、私
は飛行機で東京へたった1時間前後で行けてしまったことがある。しかも、福岡から。

これまた森家のお墓の有る随鴎寺へお参りした。途中お犬さまのウコンを踏み、草原へかけていったお人もいたが、比
較的ゆっくりと赤穂の町並みを抜け、赤穂城跡に至った。以前ここへ来たときは、お城の門を抜けるとそこは最新鋭の
民家だった・・。その節は肩を脱臼するほどにがっくりしたけど、なんと、今日見た景色は見事にさら地になっていた。
Σ(゚□゚;
うきき:「あの沢山の民家はどうなんたんですかっ?!」
桃さん:「全部のけた。」
・・・あわわわわ。さすが300年祭・・・。城中の大石神社でひとえに桃さんのコネで森家のバイブルである『森家先代実録』
をお見せいただいた。感激もひとしお。文中のいかにも手描きの鶴丸家紋の絵は、目がつりあがって、

鶴丸紋:「わたくし、あなたに構っている暇はないのヨ!ごめん遊ばせ、スーイッチョン♪」

という感じにプンプン怒っているように見えるのが超プリティ激セクシーである。

夜は姫路に宿をとり、仕事を終えた可児守さんと合流。最新鋭のボジョレーヌーボーで、再会を祝して乾杯。


12月21日(土) 三日月町に電車が届きません。B'zの聖地津山で森忠政に清き1票を

雨の中、姫路駅に駆け込んで姫新線に乗り、三日月町へ向かう。・・その列車が姫路駅の次の駅で
止まった。待てど暮らせど動かない。(T¥T)別に、可児守さんが列車に立ちはだかってローリングソバットをくらわした
訳でも、Mさんが枕木に寝転び愛くるしいタマちゃんのものまねしていた訳でもない。信号の故障で止まったのだ
った。車内で待つこと2時間。復旧しない。しかも、復旧を急いでいる様子もない。遅刻の大義名分を得た学生達は嬉し
そうにはしゃいでいる始末。しかも、極めつけには車内のトイレに紙がなかった。これが都会なら、既に車内の群集は一
揆の軍勢と化し、車掌は竹槍で一突きされているだろう。しっかしこのワンマン列車には乗客いないじゃん。

車掌:「こんなこと滅多にないんですけどねえ・・。」

私もさすがにショゲで「こんなネタまみれの旅行は嫌だ。」とナメクジのように座席でくねっていた。三日月町、楽しみにし
ていたんだよぅ!(涙)
ついに、遠く三日月駅で待っていてくださった方が姫路近くの我々の押し込められていた駅に車でたどり着いてしまった。
わざわざお迎えに来てくださったHさん。お優しい限りで涙ルイルイ。

三日月町のHさん:「こんなこと滅多にないんですけどねえ・・。」

三日月町に行ってもみなさん:「こんなこと滅多にないんですけどねえ・・・・。」

電車が止まるのは10年に一度、あるかないかの大イベントらしい。もしくは、しょっちゅう列車が停止する事実を兵庫県
が県ぐるみで私たち3人に隠してそう言っているかだ。

Mさんが三日月藩森家から出たこともあって、町ではすごい歓迎を受けた。三日月町の職員同行で、三日月藩森
家菩提寺の高蔵寺へ。我々よりも、職員方がフィーバーしてお寺に向かってシャッターきっていらっしゃるではないの・・。
およよ!Σ(゚□゚;

「御霊屋の中を見せていただいたのはこれが初めてなのですよ。」

地元の方でも見れない貴重な御霊屋をわざわざ開けていただけたのだと知ったとき、感動・・・。
いっぱい勉強していつかこの町に恩返ししよう。

「この子にいい人いないですかねえ・・・。」
可児守さんは、私を三日月町に嫁がせ、ねじ込もうとしていた。私の結婚を一番心配しているうちの親でも初対面の人に
は、よう言わんわ。

今、建設中の三日月藩の陣屋を解説つきで見せていただいた。蘭丸たち先霊を祀る列租神社を参拝。

そしてお昼ご飯まで三日月町の方々にご馳走していただいたのだった・・・。私は、ソバガキという食べ物を生まれて初め
て食べてしまった。別に、ガキが入っているわけではない。フタを開けるとお湯のなかにソバの塊がプッカプッカ浮いてご
ざる。ちぎって汁につけて食べるものだそうで、教えてもらっていなければ、この塊に対して私はどんな行動にでたのか、
今考えても背筋が寒い。手を突っ込み、握りつぶしていたことは否めない。面白く、かつ美味しかった・・・。
しかも、三日月町の方は、次の目的地の津山までわざわざ送ってくださったのだ。優しすぎる・・・。

三日月町の古文書を読んで知ったこと。三日月藩では、5月5日の端午の節句と6月2日の命日には森蘭丸・坊丸・力丸
三兄弟の画像をかけて、お菓子やお酒をお供えしたそう。なんか、いつまでも先祖を大事にする心を知って温かい気持ち
になった。

津山では、お友達のハナちゃん[URL]、しまちゃんがお迎えくださった。この日の為に、色々と準備くださり、果ては久米町
にあるガンダム
を下見に行ってくださったほど。痛いほどの愛。(TT)ハナちゃんの仲介で妙願寺へ。

あるときは森可成の妻、あるときは森蘭丸の母、またあるときは信長と石山本願寺の和睦の功労者、愛の禅尼・妙向
尼さまゆかりのお寺。
こちらのご住職も森家の血筋の方。有りがたくも、私たちの為にお時間を作ってくださり、お話することが叶った。
じゃーん♪
ここで、うきき特製質問状登場。聞き漏らすことの無き様、知りたかったことを箇条書きにしてきたのだった。うふ♪
記者会見みたい。その後、初めてお邪魔したのに、モロに家捜し。さーんざんに本棚とか開けていじっちゃいましたっ!
荒らしちゃいましたっ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だって、『蘭丸の母』という名のレコードがあったし・・・・。

帰りのハナちゃんの車の中で、妙願寺での自分を振り返り、ほじくり返した自分の行動のおぞましさに固まってチワワに
なってた。
夕食はハナちゃんおすすめの千恵という名の食事処で千恵鍋をいただいた。「先生をお呼びしましょうか?」とハナちゃ
んが妙願寺のご住職を呼んでくださった。
さっき感無量でお別れしたのに、1時間とたたず再会できるなんて。そりゃあ、夜の宴は花盛り。皆さんとお別れした後は
蘭丸の忘れ形見の弟・忠政の造った津山の城下町をぶらぶら歩いた。

兄の青春の地の美濃金山、そして戦国の中央舞台を離れてこの美作国へやってきた忠政。
頼るべき親兄弟もこの時は既にみな鬼籍の人で、忠政は国主といえどもはや孤独の身だった。絆は強くとも縁(えにし)の
薄い兄弟だった。

「兄上がいてくれればどんなによかっただろうか・・。」と決断の折々、喜怒哀楽の折々で繰り返した日々があるにちがい
ない。

立ち去るものは美しく潔く去った。
本当につらかったのは残されて生きていかねばならない忠政だったに違いない。それがよく、このようなすごい国を造っ
た。つーか、津山城、でかすぎ。あれじゃあ、いくらなんでも徳川幕府に睨まれます。素人の私でもソワソワしちゃう。
亡き兄に恥をかかせまいと、忠政が必死に国造りに励んだ清清しい町並みを歩いて、今日の締めくくりに津山駅まで行
き窓口で今朝の列車の運賃の返金を迫った。
12月22日(日) 津山で、蘭丸君・アズ・チャイルド



津山城跡を専門家の方に案内していただいた。わざわざ当時の地図を開いてくださっての解説。私は城が好きとは言え
ど、いつも漠然に見ていただけであり、ついでに本丸で小躍りしでいただけであり、さらには調子こいてセンチメンタル・ジ
ャーニーしていただけであるので、この日、専門家の方に、「これが火事で焼けた城石、こちらが開けたら落ちる門跡、こ
の石のこの幅が城壁の厚さです。」と様様なことを教えていただいて、遺構というものの奥の深さに目から鱗。遺構だけで
こんなにわかるものなのか!私の中で、荘厳な津山城が立体的によみがえってゆく。い、今まで私は100個所以上の城の
テッペンでなんて間抜けなことをしていたのだ。感動の余り、ぜひ、この方に津山流・城見学道を創設していただきたいと
思う。他の人にも私のもらったこの感動を分け与えたい。

「城見学とは死ぬことと見つけたり。」

ちなみに津山城は今,備中櫓を復元中。一口5000円の寄付をすれば、なんと瓦にあなたのお名前が入れられて、その
上ビデオかDVDが貰えますよっ![URL]

津山流お家元と別れ、3人で津山ラーメンを食べた。作戦会議の末、差し迫ったスケジュールの午後のコースを決め、時
間がないのでタクシーに乗って忠政ゆかりの鶴山八幡宮へ参詣。それから、取り急ぎ本屋で『週刊少年ジャンプ』を立ち
読みし、速やかに忠政が総鎮守とした徳守神社を参詣。境内の屋根がすごい。かっこいい。歩いて成道寺泰安寺へ。
もとはと言えば二つとも、森家の故郷・美濃金山にあった寺院とのこと。
泰安寺には夭折した森家の二代藩主長継の七男の五輪塔が。3人で墓場をさまよって見つけたこの「大吉さま」と呼ばれ
るお墓はすさまじく巨大。

森家の菩提寺である本源寺には、森家代々の位牌を祀る御霊屋と、その背後には巨大な大名墓が並ぶ。戦国の貴公
子・長可兄上の供養墓もある。若いご住職と、若お庫裏さんが本堂にあげてくださって、かなりの時間お話をした。
忠政公木像
を初めて拝顔。津山城跡にある忠政公ブロンズは、『俺様ブッチャ―三回転』という感じだったけどそのモデ
ルとなったこの木像は本当に素敵なお顔でした。忠政さん、写真写りわるいタイプなのね。。。
ほっ。
このお寺での蘭丸の戒名は【瑞桂院殿鳳山智賢大童子】。大童子としてご供養されているのですね・・・。そうかも知れま
せん、17年間の人生。あの人は余りに生き急ぎすぎました。
12月23日(月) 本能寺で変になる 

大徳寺へ。そこで、石田三成ラブのお2人と合流した。あとのお昼ごはんの時
間にも「三成公の頭蓋骨の復元図の瞳が大きすぎる、しかしながらあの口元はやむを得ない」とほとばしるようにおっし
ゃっていた。情熱だなあ・・・。大徳寺には拝観禁止ながら、森家ゆかりの寺が2寺もある。

1つは森忠政が、石田三成と浅野長政と建てた三玄院。忠政と三成の墓がある。関ケ原で東西袂を分かち合った者たち
がどうして一所に仲良しこよしで眠っているのだろう、とか、浅野長政は生前「お前って、浅井長政に名前が似てるね。」と
皆に言われたのだろうか、とか、いろいろ考えさせられるお寺である。蘭丸たちのご位牌もある。

今1つは、真珠庵。戦国森家以前の先祖のご位牌があると、『森家先代実録』ではもっぱらの噂。聞くところによると、こ
の真珠庵は由緒ただし過ぎていろんな位牌が凄まじい数あって、現在なかなか確認ということができない状態らしい。
くすん・・・。

歩いてそのまま船岡山建勲神社へ。信長ファンの信長ファンによる信長ファンのための神社であり、信長公と、その
功臣を祀る。その十六功臣のすべからくムサいおっさんの画像の中に、森蘭丸という華一輪。すごいよ、あなた。やっぱり
すごいよ。
ちなみに、桃に当たって亡くなった忠政はこの船岡山の麓で荼毘にふされた(=火葬)。全然いらん話しではありんすが、
人間を焼くと、熱により筋肉が収縮して例外なくファイティングポーズを取ると言う。・・・・・・やった?忠政くんも、やった?
棺おけを突き破り、ぐももももっ、とファイティングポーズをとる忠政に、「無念でござったのですな、殿ぉぉぉぉぉ!!!」
と嘆く家臣達・・・。悲しすぎて涙がとまらない。合掌。

織田信長と、本能寺の討死者のお墓のある阿弥陀寺へ。お庫裏さんにお茶のおもてなしを受けながら、沢山の為になる
お話を伺った。殿の木像や森家三兄弟のご位牌にもお参りし、懇ろにお墓参りをした。写真を撮らないので、代わりに手
書きで五輪塔のお墓の絵を描いていたら、蘭丸のお墓がウ●コみたいになってしまった。しかも、五輪のウ●コの絵であ
る。よってここには出せないでいる。

私がいらんことしていたので、日が暮れてしまい、本能寺へかけこんだ。門の閉まる5分前。息せき切らしてご朱印帳を差
し出し、何とか本能寺戦死者供養塔にもお参りできた。
旅行のグランドフィナーレはやはり本能寺跡。闇の中を歩いていった。本物の本能寺は、現在とは別の場所にある。行けば
掘ってある掘ってあるぅ!発掘調査中。できれば、蘭丸くん戦国トラベルセットとか力丸くんの美濃焼シャンプーハットが新発
見されることを祈る。