2002年旅行記

旅行記INDEX

5月3日〜6日 森家関係史跡めぐり

■ 5月3日(金)■

夢にまで見たGW!新幹線で爆睡してあやうく乗り過ごしそうになったけど、
とにかく名古屋へ降り立ちました。蟹さん(仮名)の案内で桶狭間古戦場跡へ。
ご存知の通り、織田信長芸能界デビューの場所です。
昔は開けた場所だったのでしょうが、今は居住地に囲まれて、狭かった、、、。今こんな所で今川軍が陣を
張って宴会しようものなら、信長様が来る前に、近所のおばちゃんにたちどころに通報されそうです。ちな
みに、近くの高徳院というお寺に古戦場資料館があります。お次は長久手古戦場跡。1584年徳川VS.
豊臣の戦いがあった場所です。ここで、森長可(アニキ)は岳父である池田恒興に従って豊臣側につき、美
しい白装束を身にまとい27歳という華の命を散らしました。後に関ヶ原の戦いのとき家康は、長久手の戦で
長可を討ち取った事を回顧し「たとえ宇喜田秀家や石田三成が束になってかかってきても負けはしない。と
ころで今日の晩ご飯なに?」と語ったそうです。資料館に行った後、アニキの墓である武蔵塚にお参りしまし
た。信長が武蔵坊弁慶になぞらえて長可を称えたという武蔵守の誇り高き名を抱いてアニキは戦場の露と
消えたのです。
武蔵塚(長可墓) 長可の愛馬”百段”像か?

長久手町立図書館で、資料狩り。閉館時間を過ぎても「九州から来た」を盾に立てこもっちった。ごめん
ね。古戦場古地図ゲット!こちらも長久手の戦い関係の史跡ですが、岩崎城に寄って1日め終了。

■ 5月3日(土) ■

設楽原古戦場馬防ぐ柵 土屋昌次柵にとりつき大音声の
看板。カナブンじゃあるまいし。
長篠城の本丸跡のぼり
中睦まじく並んでいる

長篠の戦の激戦地設楽原古戦場跡。殿が鉄砲使いまくって武田を滅亡に追い込んだ戦です。ガンバ
ッテもガンバッテも織田の鉄砲が襲って来る!!!あ痛っ!いてて!これはもういじめの世界ですね。
設楽原歴史資料館にて資狩り。『甲陽軍艦』に長可アニキに関する記述発見!それによればアニキは
「俺1人で上杉景勝を滅ぼし越後をとってやる!」
と豪語していたそうです。
かっこいい。つくづくかっこいい。家康の「それって八丁味噌じゃない?」と同じくらい名言です。本能寺な
かりせば、何らかの形で景勝と直江に豪快な嫌がらせをしていたはずです。
長篠城跡には翌日ののぼりまつりの準備で沢山のぼりが立っていました。城跡には武田勝頼お手植え
の樹
がありました。今まで色々な史跡に行きましたが、お市お手植えの松・信長お手植えの松など、戦国
にはちょっとした植樹ブームがあったのではないかと思われます。

■ 5月4日(日)■

ひさびさの兼山!この地で森蘭丸は生まれそして育ちました。今日は1日この地に心血を注ぐ次第である。
というわけでまずは蘭丸亭なかえ(お食事処)で腹ごしらえ。はやくも窓から見える壮大な木曽川の景色
に胸キュンです。民俗資料館で、森家関係の資料を満喫。この民俗資料館は何度きても血沸き肉踊る。
(´▽`)そこで蟹さんそっちのけで史料探しでした。たぶん蟹さんは暇で暇で泡ブク状態だったでしょう。
その泡を柱にすりつけていたかも知れない。役場で史料をコピーさせてもらって、しかも幸運にも、研究家
の方に連絡が付いて非売品の古文書解読書を手に入れる事が叶いました。ただ、悲しい出来事も。以前
お世話になった方に今度もお世話になろうとお土産持って来たのですが、お亡くなりになっていました。
Σ(゜□゜; いい人ばかりが去ってゆく。
仏前にお土産をお供えさせていただいて、奥さま息子さんとお話しました。この方の死により、
森家関係の重要資料は兼山からちょっと離れたところに移されました。今日は特別に可成寺の本堂を開
けていただき一族の御位牌を拝ませていただきました。ここは可成パパの菩提寺で、森兄弟みんなの墓
もここにあります。おじいさん森可行、お父さんの可成、長男可隆、長可、蘭丸、坊丸、力丸。
畳の上で大往生を遂げたのはおじいさまだけです。あとみんな戦死。

可成寺にお墓参り 可成寺門すりすり。 一族の墓の案内版
可成寺に落ちてた国産タケノコ
つわものどもが夢の跡

次は兼山湊に案内していただきました。偉大なる木曽川。木曽川というからには木曽から流れて来るだ
ろうと思われます。この川で森兄弟泳いでいたんですよねえ。泳ぎあい、競争しあい、溺れあい、ああ、と
っても楽しそう。その後は蘭丸の母、妙向尼の眠る常照寺へ。ここには寺宝として母の肖像画と蘭丸愛
用槍の穂先があります。一般公開はしていません。以前特別に一度だけ見せていただきました。

兼山湊から撮った木曽川
蘭丸はこの川で泳いでカッパと
間違えられて騒ぎになるという
カッパ事件を起こした。
常照寺
蘭丸母、おじいちゃんの菩提寺

森家の居城金山城、いまは跡だけですが、当時はきっと、パパとアニキの趣味がふんだんに生かされて
いた仕掛けいっぱいの超びっくり城だったハズです。

金山城本丸跡
写真にある建物に一族郎党
きゅうきゅうに住んでいた
訳ではない。
同じく本丸跡 石垣も苔むして、、、。

城のふもとには以前はなかった蘭丸ふる里の森ができていました。蘭丸産湯の井戸は昔は草をかき
分けて見に行ったものですが、今じゃすっかり整備されています。びっくり。そのあと、地酒蘭丸とお菓子
を買いました。

蘭丸産湯の井戸
井戸マニアにはたまらない逸品
蘭丸、アニキもこれにまたがっ
て乗馬の練習をした。
可児の真禅寺
アニキのご遺体がここに運ば
れたということで、お墓があり
ます。

蟹さんの運転で一路可児の鳩吹山のふもとの真禅寺へ。さんざん道に迷ってしまった上に、駄目押しの
如くに乗っちゃあいけないバイパスに乗って一直線。まあ道に迷うのが旅の醍醐味だと、上杉謙信も川
中島でひとり迷子になったときに語っているのでOK。ここは初めて訪れました。長久手で亡くなったアニ
キを家臣が連れ帰ってこのお寺に安置したといいます。家臣のお墓に囲まれた長可のお墓はどこの
アニキ墓より小さくひたすら悲しみを誘いました。

■ 5月6日(月) 最終日■

蟹さんは仕事があるらしく、今日は単独行動です。家康ゆかりの岡崎城三河武士のやかた家康館
で遊びました。お昼は城内のお店で味噌田楽を食す。うかつにも味噌をズボンひざ上に落としてしまいま
した!Σ(゜□゜; こ、この味噌の色合いといい、風味といい、ズボンにウコンがついているが如くに見え
てしまう!違う!私は無実だ!家康とは違って嘘はついていません!とれない!この味噌には防水加工
がしてあるんかい?!岡崎を逃亡。
逃亡者うききは犬山でモンキーパーク近くに瑞泉寺を探しました。道に迷っているとすがすがしい青年に
声をかけられました。「ああ、私たちは瑞泉寺の雲水です。こちらですよ。」観光寺院ではないので入れるか
どうか不安だったのですが、これこそ仏のお導き。瑞泉寺の内田門は森家の金山城の大手門の移築と
いわれています。この門を蘭ちゃんもくぐったのですよね。そう思うにつけ、かの時代を知るこの柱が何とも
愛しく思えしばし触れておりました。そうだデジカメ。昨日までのデジカメは蟹さんのものを拝借したので今は
手元になし。でも、万が一の場合に弟のデジカメを借りてきているのだな。私ってズボンに味噌ついているけ
ど実に用意周到。門さん、はいチーズ。あれ?シャッターがおりない。なして?(・_・)門の画像がやけに荒い
のは弟デジカメに電池が入っていなくて振っても使い物にならなくて、しぶしぶ携帯の写メールで撮ったせい
ではありません。雲水さんが寺にある左甚五郎の猿の彫刻をご説明くださいました。
雲水さん:「ほら、あの柱にだけ猿の彫刻がないでしょう。あまりに彫刻が見事なので本物の猿になって逃げ
てしまったそうですよ。」
うきき:「ああ、その猿はモンキーパークへいきましたか。」
雲水さん:「そうおっしゃる方もいらっしゃいます。」

木曽川のほとりを歩く。水面のきらめきが眩しくって、この素晴らしき情景のなか、帰りたくないないなあ、と
いう気持があふれてきました。犬山城は国宝の城、しかも城主がおわしますプライベートキャッスルです。
金山城の木材をばらして木曽川で犬山まで流して築城に使ったという説がありますので蘭丸ファンは一度は
この城の柱に張り付いて職員総がかりで引き剥がされてみるのもよいでしょう。城下に移りまして、奥村邸
こんこんとわきでる名水、銀名水で殿も蘭ちゃんもアニキものどをうるおしたといいます。美味しい。奥村邸
の蘭丸の人物画の横に描かれし伊藤蘭丸の正体が今をもって謎ですが、水が美味しい。

瑞泉寺内田門
金山城大手門の移築
奥村邸銀名水
蘭丸も口にした。