可成HYPER


父よやはりあなたは大きかった!!一級史料による森可成情報!!                           HOME


一、 森可成の名称について

通称・仮名(けみょう) ・三左衛門
・与三
  他人が呼ぶ時に使う名前。
実名(じつみょう) 可成   本人から名乗るべき名。他人が呼ぶことは失礼にあたるので、本人以外は親兄弟くらいしかこの名を
発音しない。
幼名   元服する前の名。
異名 十九   ケガで指が1本なく、手足が合計十九指だったので、家臣が可成の事を指してこっそり使ったとされる
あだ名。


二、『信長公記』に登場する可成

首巻   (弘治二年四月)軍終り、頸の実験して、信長御陣所大良口へ人数を出し候(中略)、森三左衛門、千石又一に渡し合ひ、馬上に
て切り合い、三左衛門臂(ひじ)の口きられ引退く
1556年4月、信長が舅の斎藤道三を助けるために軍を出した時の戦いの模様。森可成は千石又一との馬上戦で臂を切られて退く。
    (弘治二年)八月十四日牛尅、(中略)其時上総介殿手前には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、御鑓持の御中間衆
四十ばかりこれあり、造酒丞、三左衛門両人はきよす衆土田の大原をつき伏せ、もみ合ひて頸を奪ひ候処へ、相がかりに懸り合
ひ戦ふ所に、爰にて、上総介大音声を上、御怒りなされ候を見申しさすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立ちとどまり、終に
迯(にげ)崩れ候キ  
1556年8月、織田信長が弟・信行を破った稲生原の合戦で、可成らが奮戦、大原をつき伏せる。
     
巻一   (永禄十一年)九月廿八日(正しくは26日)、信長、東福寺へ御陣を移され、柴田日向守、蜂屋兵庫頭、森三左衛門、坂井右近、此
四人に先陣仰せつけられ、則、かつら川打越し、御敵城、岩成主税頭楯籠る正立寺表手遣、御敵も足軽を出し候、右4人の衆見合
せ、馬を乗込み、頸五十余討捕、東福寺にて信長へ御目に懸けられ、公方様同日に清水御動座。
1568年9月26日、信長は東福寺に陣を構え、森可成らに先陣を任せ、岩成主税頭友通の守る勝龍寺城を攻めさせた。
     
巻二   (永禄十二年八月)是より、わきわきの小城へは御手遣いもなく、直に奥へ御通り候て、国司父子楯籠られ候大河内の城取り詰め、
信長懸廻し御覧じ、東の山に信長御陣を居ゑさせられ、其夜先町を破らせ焼払ひ、廿八日に四方を懸けまはし御覧じ、南の山に
(中略)東に柴田修理、森三左衛門、山田三左衛門、長谷川与次、佐々蔵介、佐々隼人、梶原平次郎、不破河内、丸毛兵庫頭、
丹羽源六、不破彦三、丸毛三郎兵衛、か様に陣取り仰せ付けられ、其上四方しし垣二重、三重結はせられ、諸口の通路をとめ・・・
1569年8月、織田信長、北畠具教・具房親子の籠る大河内城を包囲。
     
巻三   (永禄十三年)去て京表面々等の人質執固め、公方様へ御進上なされ、天下御大事これあるにおいては、時日を移さず御上洛
あるべきの旨仰上げられ、五月九日御下り、志賀の城・宇佐山拵、森三左衛門をかせられ、十二日に永原まで御出で、永原に
佐久間右衛門置かせられ、長光寺に柴田修理亮在城。
1570年信長、金ケ崎の陣を払い、近江の各城砦に兵を置く、可成は宇佐山城を守る。
    (永禄十三年)六月一日、浅井居城大谷(小谷)へ取寄り、森三左衛門、坂井右近、斎藤新吾、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、
塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀(ひばり)山へ取上り、町を焼き払ふ
小谷攻めに際し、可成ら、雲雀山へ上り町を焼く。
    (元亀元年)辛未(正しくは庚午)九月十六日、越前の朝倉・浅井三万ばかり坂本口へ相働きなり、森三左衛門宇佐山の坂を下々
(おりくだり)懸向ひ、坂本の町はづれにて取合ひ、纔(わず)か千の内にて足軽合戦に少々頸を取り、勝利を得る
浅井・朝倉連合軍、可成の守る宇佐山城下に侵入。坂本にて戦いになり、勝利をおさめる。
     
巻四   (元亀元年)九月十九日、浅井、朝倉両手に備へ、又取懸け候、町を破らせ候ては無念と存知られ、相抱へられ候の処に、大軍両
手よりどうとかかり来り、手前において粉骨を尽くされ候といへども、御敵猛勢にて相叶はず、火花を散らし、終に鑓下にて討死、
森三左衛門、織田九郎、青地駿河守、尾藤源内、尾藤又八
森可成、浅井・朝倉軍と奮戦するも討死。
    道家清十郎、道家助十郎とて兄弟覚えの者あり、生国尾張国守山の住人なり、一年東美濃高野口へ武田信玄相働き候、其時森
三左衛門・肥田玄蕃先駆けにて、山中谷合にてかかり合い、相戦ひ候て、兄弟して頸三ツ取て参り、信長公へ御目に懸け候へば
御褒美斜めならず、白きはたをさし物に仕候、其旗をめしよせられ、天下一の勇士なり、と御自筆に遊ばし付けられ候て下さる、都
鄙の面目これに過ぐべからず、名誉の仁にて候なり、今度も其旗をさして、森三左衛門と一所に候て、前後手柄を尽し、火花を散ら
し、枕を並べて討死候なり
信長に「天下一の勇士」と認められた道家清十郎、道家助十郎兄弟が森可成と共に討死。

《解説》
『信長(公)記』は信長の家臣・太田牛一の著による織田信長の伝記で、その記述の正確さより第一級史料に位置づけられています。
可成は、はじめ斎藤家の家臣だったとか、はじめから織田家に仕えていたなど諸説ありますが、早い時期から信長に仕えていたことがわかります。



三、『信長公記』(町田家本)に登場する可成

巻九   (天正四年)上一重のかなぐは、後藤平四郎仕り候、京、田舎衆、手を尽し申すなり、二重めより、京のだい阿弥かなぐなり、御大
工、岡部又右衛門、漆師首刑部、白金屋の御大工、宮内遊左衛門、瓦、唐人の一観に仰せつけられ、奈良衆焼き申すなり、御普
請奉行、森三左衛門、抑(そもそ)も、当城は、深山こうこうとして、麓は歴々甍を並べ、軒を継ぎ、光輝御結構の次第、申すに足らず
1576年の安土城普請に関する文章です。普請奉行は森可成が担当?!

《解説》
『信長公記』のうち、町田家バージョンに登場する1576年の安土城普請に関する文章です。森可成ははや天国にいるはずなのですが、普請奉行をしていることになっています。死してなお、信長のためにゴーストとなって安土城を普請・・・ではなく、城郭研究家の西ケ谷恭弘さんは安土城の普請奉行をしたのが「森長可」だと比定されています。管理人(うきき)は「すごい19歳だなぁ、すごい城にされちゃうぞぉ(汗)」、と思いつつ(まぁ、家臣がやってくれれば・・・汗)、そんな西ケ谷説があることを特筆しておきます。(詳しくは『考証織田信長事典』(東京堂出版)をご覧のほどを。)ちなみに『信長公記』他本では「森三左衛門」ではなく「木村二郎左衛門」、『安土日記』は「木村次郎左衛門」となっています。



四、『多聞院日記』に登場する可成

永禄十三年三月廿日   内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、今度今道北、ワラ坂南、此ニ通ヲトメテ、信長ノ内、森山(三)左衛門
城用害、此フモトニ新路ヲコシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トゝムル故、三井寺ヘ通ル物ハ、道ニテ剥取ト申間
乍思不参見渡了、残多者也、新路之大ナル坂ヲ越ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、東山ノ辺ヲ通ル

《内容》1570年3月、森可成は”今道”と”ワラ坂”の2道を止め、宇佐山城の麓に新たな道を作り、人々に使用させていた。

《解説》:『多門院日記』は奈良・興福寺多門院筆。『信長公記』の描く五月よりも早く、森可成が宇佐山城を築いていた証拠となる記述です。



五、『兼見卿記』に登場する可成

元亀元年九月廿日   浅井、越川之勢至坂本令着陣云々、森三左衛門尉取出志賀之城、於坂本令対陣、既令一戦、森三左討死云々
然間坂本悉放火了、志賀之城、武東ト云者、令堅固在城云々落中落外胸霧了

《内容》1570年9月。浅井・朝倉軍が、森可成の宇佐山城の砦までに攻め寄せ、坂本で相対した。そこで森可成は討死し、坂本はことごとく放火
去れたが、武藤、肥田の両人が城を守りぬいた。

《解説》:京都吉田神社の神主さんであった吉田兼見(兼和)(1535-1610年)の日記に登場する森可成です。浅井・朝倉の連合軍に応戦する為、可成は坂本にまで出て戦い、比叡辻で壮絶な討死を遂げます。その後、大将・可成の討死にもかかわらず、武藤(でた!)や肥田(でた!)が粘ったおかげで宇佐山城を持ちこたえさせることができ、結局、浅井・朝倉は落城させられぬまま迂回して京都へ向かいました。この頃は、金山城のお隣さんの米田城主の肥田家も森家と力を合わせていたのですね。



 

つづく・・・・・・・・。   HOME