● うめ(宝泉院)
『森家譜』『森家御系図』『森家先代実録』
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■■■■■■■■■■■■■■ 森家の誇りが私の生きる力 ■■■■■■■■■■■■■■ |
男尊女卑の世の中と誰が言ったのか。 戦国時代に、旦那を蹴って実家に戻ってしまった烈女がここにいた。 ”うめ”は森家の姉妹の中で、唯一俗名のはっきりとした女性である。 彼女の輿入れは信長逝去後、時代が秀吉に移ってからのこと。秀吉が自らの地位を不動のものと するためにも、信長旧臣とのつながりを深めようと画策していた。当然、森家にもその猿手が及ぶ。 森家にはこの後も、羽柴姓を押しつけたり、桐のご紋やってみたり、色々モーションかけてみるのだ けど、その旧臣とくっつこうキャンペーンの1つには、婚姻関係を結ぶことも入っていた。 そして、うめは、義理の甥、秀吉の正室おねの兄木下家定の長男、木下勝俊に嫁ぐこととなった。 旦那様は秀吉にも重用されたキリシタン大名。ペテロ。ペテロ。もいっかい、ペテロ。 そして、風雅を好む歌人大名でもあった。ところが、関ヶ原ではこの旦那は故あって戦線離脱。 (^0^)/~~ばははーい 家康の怒りに触れて所領没収。後に、叔母の北政所から、父の遺領、備中足守を与えられるが、 家康の怒りに触れて所領没収。あの家康が、木下勝俊を優遇する北の政所を書状で糾弾してい る。父の遺領を勝俊に継がせたのはそもそもが北政所の独断だったから仕方ないのだけど、 こわっ! かくて勝俊は一般市民として、京都に隠遁した。剃髪して長嘯子と名乗り花鳥風月を愛で風雅に生 きる。文才豊かな彼が、このご時世に武士として今まで生きなくてはならなかったこと、憐れといえ ば憐れ。 しかし、奥方のうめさまは、夫の武運の拙さに、ついに堪忍袋の緒が切れてしまう。 この戦国を男らしく壮絶に死んでいった体育会系の親兄弟を持つ彼女にとっては、文系の勝俊が どうにも理解できず、それが見苦しい以外の何ものでもなかったのかもしれない。 また、弟の忠政が秀吉逝去後、豊臣家ときっぱり縁を切っていた事も遠因かもしれない。 こんな旦那に愛想をつかして髪を切り、夫に送り付けて「実家に帰らせてください。」 こうして津山に出ていってしまった妻に呼びかけて長嘯子は歌を詠む。 おもひやる久米のさら山さらさらと あられふる夜の竹のした庵 |
■■■■■■■■■■■■■■■ 亡親に孝行を尽くして ■■■■■■■■■■■■■■■■ |
と、言うわけで、うめちゃんは、実家である津山の弟・忠政のもとで宝泉院と名乗って余生を送った。 当時、夫が死ねば尼になるものを、夫が嫌で尼になるとは、なんと強くたくましい女性なのだろうか。 その後、彼女は実家である森家の法要を取しきるようになり、亡き父母や兄弟の菩提を弔って生き た。 元和8年(1622年)4月16日に京都の村雲屋敷でその生涯を閉じる。 森可成公三十三回忌には、大徳寺三玄院に、この孝女”うめ”の木塔が造立されたという。 |
■■■■■■■■■■■■■ ちなみに勝俊とのお子様は ■■■■■■■■■■■■■■■■ |
勝俊との間には娘がいて、彼女は家康の5男の下総国佐倉城主・松平信吉の正室になっている。 信吉は名門武田家の名跡を継承させられ武田信吉と称し、関ケ原の合戦の後には常陸国水戸城主 となったが、病弱で21歳の若さであえなく亡くなったため、彼女もまた若き未亡人となってしまった。 しかし、仮にもかつて森長可が前線で戦って滅ぼした武田家の名を、その姪が背負う羽目になった とは、なんという奇縁なり。(−−;) また、母・うめと同じ名の娘”うめ”が、公家・豊國大明神社家の萩原図書頭に嫁したという話も『森家 先代実録』にある。 男子もいて、こちらは福岡藩黒田家に仕官したという。 |