可成寺記
【内容】
この『可成寺記』には可児市兼山にある森家菩提寺「可成寺」の由緒とともに、金山城主、津山藩森家、赤穂藩森家らとの関わりが記されている。
森可成の名を「よししけ(よししげ)」と読ませていること、また可成寺の盛衰を赤裸々に綴っているところなど、興味深い内容が多い。
『可成寺記』が書かれた年については記載がないが、文中の「年数考」を参照にすれば、正徳四(1714)年の成立かと思われる。
但し「年数考」以降は筆跡が前半のものとは全く異なっていることも念の為併記しておく。
【凡例】
・一段が本文1ぺージにあたり、原文のままの改行を施している。
・小さな文字は原文が割注(字が小さく2行になっているもの)。
・原本の”ふりがな”はそのまま記した。同漢字または同熟語の右左に”ふりがな”が配されている場合は「右側ふりがな・左側ふりがな」として「・」で区切っている。
・青字は訳者(管理人:)の加筆。
・
変体仮名の「可・須」などを「か・す」などと現代仮名に変換した個所がある。
・ 句読点「、」は訳者の判断で加えた。
・ 虫食い箇所の文字は、□に置き換えている。
・ /\は踊り字を現す(「く」を縦に長くしたような形のくり返し記号) 例:月/\(読み:つきづき)
・()内の文字は、直前の漢字、または熟語に併記してあったもの。
・ パソコン表示の都合上、フォントにない異字体を一般的な漢字に改めた箇所がある。
【注意事項】
『可成寺記』は、ご所有者に特別許可を得た上で掲載しています。転載・再発行は固くお断りいたします。
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可成寺記
山高きにあらされとも
あらされとも
州可児郡中井戸の庄大龍山可成禅
當境
小
その来由をたづね
龍と名付る事ハ、
殊にハ、
といふ
龍の天に在らん事を
とかや、
織田
をしらす、元亀元年五月信長に
九月十六日
餘騎を
より出て是を
可成爰に戦死す、行年四十八、坂本の来光寺 ※来光寺=聖衆来迎寺
におゐて
浄翁大禅定門とす、當寺始ハ城山の
に在りとなん、今に傳へてその所、寺ヵ峯とそ申
傳りき、今の境地是此里の
西に
ふもとよりいづる清水也、世々の城守
遊興の帰かさに手つからめし上られたるとなん申傳へて此名有
今在家の井水と成て五家をたすく水ます/\
冬日に夏日に寺茶の
りなる山の
の地を
内に
とも一
に
乱世にして城中ハ
なんとねがふよすがもなく
年相
米ハ月/\に御蔵より
什物宝財
すといえり
可、秀吉公の命をうけて天正十二年甲申
四月九日行年廿七にして尾州長久手にて
討死したもふ、誠に
らぬハなかりき、顔回ハ孔子の弟子、短命ニテ死ス、今の可成寺殿前の武州の
太守鉄圍秀公大禅定門、是なり、され共
まりたまへハ、七万石の領内士農巧商の ※士農巧商=士農工商
四民相供に悦びあふ事はなはだし、討残リたる
家臣、可児、各務、林、大塚等長可の
護し来り中野にて
成寺に納め法事執行、他に殊に取おこなひ
寺中に五輪を造立す、今の
秀吉公よりも代参有て
あらざる旨仰下されけるとなん
可成寺扶持米の事
有べき旨城守より仰あれど
引キ移す、家中悉く
大半
成ル、自條の寺院も
おとろへ朝暮の
財悉く
さだかならす、慶長のはしめより當寺
住職の沙門見陽和尚とそ傳へ侍ルか
英岩の
條畝
なくよろしき
所と成、名、原清左衛門殿支配也
慶長八癸卯三月下旬家康公の下知
に依て右近作州の津山に移ル、是時十
八万六千石、左近衛の中将―ハふるき官をすて新キ官ニうつるを云に
年中将忠政の嫡子十五歳、右近ノ太夫忠
廣と号す、是よりして親子
たりしか忠廣不幸短命にして卒す、寛永
十年酉の八月廿二日顕徳院殿と号す、翌年
忠政卒去、寿城六拾五、本源院殿前作州大
守先翁宗進大居士と法号す、是、津山本
源寺の開基也、忠政命終に監て内記長
継を以て養子とす長継ハ関民部の少輔成次の長
子たり成次忠政のむすめ女を以て婦
人とすかるかゆへに忠政の
嫡孫たり
慶長の末寛永に到るまて、
住職の僧もたへまがちなれハ、在家の
も
或ハ
の前
あはれむへし、
成ル、
時に在リ、たへたるをつぎ、すたれたるを起すも
利東禅
勢にすみしが
雲をつつミ包み此地に来てみれハ一
住たる地
たづねたるに大通禅刹
殊にハ壇越も
ならん、久昌の
作農業を勤るにそうぎなし、可成の
寺ハ旦越もなく徳なけれハさゝわる事もな
からん
土蔵を営む、今の中興通岩宝公首座と
なするもの是也、天地富貴
也、正保のはしめ内記殿旅行の節、宝首座
目見え面謁
あたハす、
明暦より寛文の末迄親子替る/\参勤
たりしか、此節に住持ならひに小弟祖慶侍
者相供に目見へ面謁すといえり、寛文七年諸国
の寺院本末のしらへ有、可成寺いまたさたまる
本寺なし、
仙に改めるへきやなんと師壇検べ残すまちく
也、小弟慶侍は東禅の了侍和尚に随侍して
者に
証状分明なりき、延宝二年寅の二月廿八日美
作守
と号す、嫡子万右衛門殿幼稚たるの間伯耆守長
武を以て
さため難きハ世の
雲のことし、宝首座住職中間四十余年一
場の夢とのみ金銀米穀有といえとも
肉類
水中の
り住職勤難し迚、師壇
座に入院せさしむ、延宝三年乙卯
をむすひ世をのがれしが、幾程もなく午の
三月五日丗寿七十六にして身まかり奉らし
△跡ハ
ことし、
何人か
れハあへてあたハず、いとうへきにあらす、ねがふ
へきにあらす、延宝六年午の四月伯耆守長
武太田に
翌朝未明に秀公の廟所代参たつ、是
よりして森家の連枝両三家旅行の目
見え有となん、天和元年関大蔵殿廟参
有、同年住持
に赴き鉄圍秀公遠
年忌の事森家に
伯耆守殿上国の時、當寺仏参有て先
祖の法事執行のため永々五人扶持附ケ
法
の木塔を
踊経せしむ、
山のミねをやくか如く
に似たり、領内地押有て六万石を増し得たり
是を以て子葉に分ち孫枝にあたふ、都合
二十四万六千五百石といふもの是也き、元禄八年
万右衛門殿美作守に任す、
圓明院殿前美作国守伯州碧雲鉄山大居
士と号す、同き十一年寅の二月美作守殿参
勤のため勢州桑名に到る時、
病身と成、是より帰国す、此時森家十八万石
に
まづほろぶとハ此時をや云べけん、當寺扶持
米も
を失ひ、嶮道に杖を
八十余にして残り給ふが、此事を近習のものあへて
語らす、ゆへハ老衰はやくせまり死の近からん事
をおそれて也、
十一日に卒す、
道岳大居士と号す、
一万五千石を領し播州の内ノ井ノに住す ※ノ井ノ=乃井野
四男関大蔵殿二万石備の中州
後、備前守に任す、五男森和泉守備中のえ原 ※え原=井原
に住す、宝永三年播州
ハ元禄十五壬午の五月也、世はたのしむへくし
ゐてかなしむへからすと此事然り、あにそれは
からんや、黎民飢す、
にして宝永三年春二月清濁の世をのかれて
壷中日月の永きをたのしめり
惟時、宝永六己丑仲秋之日、大竜山主西我幽
年数考
△當寺開闢元亀二辛未人皇百七代正親町院
之御宇到テ二正徳四甲午年ニ一凡一百四十四年
△ 森三左右衛門可成卒去 正徳四年迄百四五年心月浄翁
△武蔵守長可卒去 天正十二甲申四月九日今ニ到テ二正
徳四甲午年ニ一凡一百三十一年前武州太守鉄圍秀公大禅定門ト号ス
△美作守忠政卒去 寛永十一年七月七日今到ニ二正徳四
甲午年ニ一凡八十一年 本源院殿前作州太守先翁宗進大居士
△伯耆守長武卒去 元禄九丙子五月十八日今ニ到テ二正徳
四年甲午ニ一十九年 圓明院殿前美作国守伯州碧雲鐵山大居士
△當寺中興通岩宝公首座示寂 延宝六戊午三月
五日今到テ二正徳四甲午年ニ一凡三十七年
△森三左右衛門殿金山居住 永禄三庚申年ヨリ今到テ一
正徳四甲午年ニ一凡一百五十五年是ハ梯田六兵衛方ニ兼山帰リノ年受帳有
秋日遊可成寺記耳目及所矣 | |||||||||||||
宜提蔵主西我 | |||||||||||||
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東濃州可児大龍山
可成寺