森忠政関係書状          多すぎてやる気半減


一覧

番号 文書名 機能 年月日 差出人 宛先 形態 所蔵 備考
1 豊臣秀吉朱印状 書簡 天正17年11月21日 (豊臣秀吉) 羽柴金山侍従との 不明   金山七万石知行状
2 徳川家康朱印状 書簡 慶長5年2月1日 家康 羽柴右近殿 不明   信州川中島知行状
3 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年4月2日 江戸中納言秀忠 羽柴右近大夫殿 不明   川中島で引っ越したね
4 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年4月6日 江戸中納言秀忠 羽柴右近様人々御中 不明   川中島の引越し祝い
5 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年5月9日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   プレゼントサンキュ
6 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年5月18日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   上杉景勝上洛するみたいよ
7 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年6月1日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   お父さんが下国するんだ
8 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年6月6日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   会津に出陣のことだけど
9 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年6月28日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   お父さんが16日に大坂へ
10 徳川家康書状 書簡 慶長5年7月22日 家康 川中島侍従殿 不明   宇都宮着陣大儀であった
11 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年7月22日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   着陣の連絡うれしい
12 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年7月25日 秀忠 羽右近殿 不明   帰った?眼病だいじょうぶ?
13 徳川家康書状 書簡 慶長5年8月2日 家康 川中島侍従殿 不明   川中島に着いた?
14 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年8月4日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   使者がそちらに行きます
15 徳川家康書状 書簡 慶長5年8月17日 家康 川中島侍従殿 不明   そなたの仕置きは秀忠に
16 徳川家康書状 書簡 慶長5年8月21日 家康 川中島侍従殿 不明   鮭ありがとう&出馬のこと
17 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年8月21日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   油断しないでね
18 徳川家康書状 書簡 慶長5年8月21日 家康 川中島侍従殿 不明   嘘くさいぞ。秀忠つかわす
19 徳川家康書状 書簡 慶長5年8月23日 家康 川中島侍従殿 不明   委細は秀忠に申しつけた
20 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月1日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   近日中にそっち行くよ
21 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月4日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   真田昌幸 の命は助けるよ
22 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月8日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   明日は私、小諸に行くから
23 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月8日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   榊原がそっちに行くから
24 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月11日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   一緒に上洛しよう
25 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月12日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   キミをおいて僕だけ上洛する
26 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月12日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   鮭ありがと〜♪
27 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月15日 江戸中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   キミの上洛はもっと先だから
28 徳川家康書状 書簡 慶長5年9月22日 家康 川中島侍従殿 不明   そこで油断せずに頑張ってね
29 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月23日 秀忠 羽柴右近殿 不明   キミの上洛は延期だじょ
30 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月27日 中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   君の上洛の事は父に頼んだ
31 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年9月末日 中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   一揆軍成敗、お手柄だね
32 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年10月16日 秀忠 羽柴右近殿 不明   私、天下のこと任されたよ
33 徳川秀忠書状 書簡 慶長5年10月21日 中納言秀忠 羽柴右近殿 不明   キミの上洛まだ先だから
34 徳川秀忠書状 書簡 慶長9年1月?14日 近藤主馬 羽右近殿 不明   また来てくれたら感激
35 森忠政定書 書簡 慶長11年1月15日      ― 忠政 不明   定・三か条

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森忠政書状 書簡 慶長19年2月1日 羽柴右近忠政 ? 不明   ??
37 森忠政書状 書簡 慶長19年4月14日 羽柴右近忠政 安藤対馬守様人々御中 不明   将軍様近日出馬ですって
38 五奉行御法度 覚書 慶長19年 村瀬左馬助ら 森美作守殿 不明   覚・三か条
39 森忠政願書 書簡 慶長20年5月1日 御たが様(多賀神社) 羽柴右近忠政 不明   大坂の陣で楽して帰りたい
40 森忠政書状 書簡 元和元年?5月7日 忠政 誕生寺 不明   私の陣に君の使僧到着した
41 徳川秀忠書状 書簡 元和3年5月26日  (判のみ) 美作侍従との 不明   美作国知行状
42 森忠政書状 書簡 元和5年6月9日 忠政 森対州(可政)殿へ 不明   広島にいくので準備しといて
43 妙願寺書状 書簡 不明 正寿院紹向   不明   忠政殿をお諌めしたくて・・
44 森忠政書状 書簡 寛永元年4月19日 忠政 浅田次郎右衛門殿 不明   松平越前少将忠直狂ったよ
45 徳川秀忠書状 書簡 不明 秀忠 美作中納言殿 不明   鷹、うけとりました
46 池田さる書状 書簡 年不明10月16日 池田さる 羽右近殿様参人々御中 不明   私も大坂の陣準備中、犬が
47 因幡守書状 書簡 年不明12月15日 三 因幡守 羽右近様人々御中 不明   風邪引いてコタツに入ってる
48 常真書状 書簡 年不明12月29日 常真 羽柴右近殿 不明   お歳暮ありがとうございます
49 与安法印書状 書簡 年不明5月17日 与安法印 羽柴右近様人々御中 不明   家康様近況とかお知らせ
50 安藤次右衛門
書状
書簡 年不明3月17日 安藤次右衛門ら 羽柴右近様人々御中 不明   栗石を石垣に使う件です
51 森忠政書状 書簡 年不明7月15日 うこん くすりやかた 不明   帷子の袖を遣わす
52 森忠政書状 書簡 年不明7月11日 なこやより うこん くすり屋 不明   小袖・茶壷のことなどで
53 森忠政書状 書簡 年不明3月23日 森美作守忠政 松平陸奥守様(伊達政宗)
人々御中
不明 伊達家 酔っ払ってお礼に行けない!UP
54 森忠政書状 書簡 年不明8月26日 羽右近忠政 徳永法印様人々御中   本法寺  
55 森忠政書状 書簡 江戸前期       護国寺  
56 森忠政書状 書簡 江戸前期8月14日 森美作守忠政 横切紙 折紙 金地院  
57 森忠政書状 書簡 江戸前期          

まだあるようだ。。。続く・・・・一覧表つくるだけで疲れ果てたので下の文書には後日、現代語訳、解説つけます。


 2 徳川家康書状

原文

飛札殊遠路初鮭祝着之至候、仍上方出馬之儀、
可為廿六日時分候、其表之義、委細従中納言
(秀忠)所可申入候由、可有其心得候、恐々謹言
八月廿一日 家康(判)
 川中島侍従殿

書下し文

飛札殊に遠路初鮭祝着之至候、仍上方出馬之儀、廿六日時分となすべく候、
其表の義、所委細中納言より申入べく候由、其心得有るべく候、恐々謹言
八月廿一日 家康(判)
 川中島侍従殿

中納言とは徳川秀忠のことです。


52 森忠政書状

原文

(端裏内封上書)松平陸奥守様人々御中  森美作守忠政

今朝者被召寄、御茶被下、殊ニ御掛物初而拝見、御茶入久々にて致拝見、
重畳忝候、種々御亭主振故、此中不被下大御酒、及沈酔申候、御禮ニ可
致伺公候へ共、右之通ニ御座候間乍略儀如此ニ候、
猶期拝顔之節候、
恐惶謹言
 三月廿三日 忠政(花押)

書下し文

(端裏内封上書)松平陸奥守様人々御中  森美作守忠政

今朝は召寄せられ、御茶下され、殊に御掛物初て拝見、
御茶入久々にて拝見致し、重畳(ちょうじょう)忝(かたじけな)く候、
種々御亭主振り故、此の中下されざる大御酒、沈酔に及び申候、
御礼に伺公致すべきに候へ共、右の通に御座候間、略儀なが
ら如此に候、猶期拝顔の節候、
恐惶謹言
 三月廿三日 忠政(花押)

現代語訳:今朝はお招きいただき、お茶をご馳走になりました。特に茶事の席での掛け物は初めて拝見し、お茶入れも久々に拝見させていただき、重ね重ね有り難くおもいます。あなたの様々なご亭主振りで、この茶事では出るはずのない酒が出されて私は呑みすぎて、酔っぱらってしまいました。今朝のお礼に伺うべきだったのに、このような始末であったので参ることもできず、略儀ではございますがお手紙でお礼申し上げる次第です。またお目にかかれますように。

解説:松平陸奥守とは伊達政宗のことです。
当時の大名の当然のたしなみではありますが、忠政は親兄弟に似て情熱的な茶道具マニアだったようです。鷹狩には自主的に没頭せず「将軍がするから自分もするだけー。」と言っているのですが、茶に関しては熱の入れようが違ったようです。しかし、泥酔するまで呑んだとは、伊達さんとはよほど打ち解けた間柄だったのでしょうか、お茶の席も本気で楽しんで帰ってきたものと思われます。


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