森忠政逸話集

末っ子だってすさまじい人生

       
 ―――――なるほど先祖は代々死場よく候、某も死所を案じます。(忠政談)


■出し抜かれた!!!

  元和5(1619)年、広島藩主の福島正則が改易となった時、森忠政も幕府の命で(万が一のために戦の準備を整えて)
広島城の受け取りに行った。
 忠政は6月10日に江戸を出て20日に津山入り。森軍の先発隊は24日に出陣(忠政は26日に出陣)。25日には幕府方の
大名らが備中の中津井に勢ぞろいした。
 広島へ向う幕府方、森軍の前は加藤嘉明軍である。森家は毎朝早くに出立の用意をしているのに、この加藤家は朝寝し
て巳刻にならないと宿を出ない。軍法に背いて加藤の列を抜くこともできずに困っていた。
 そして広島に着くという日。加藤家はまたのんびり出立するのだろうと思いきや、実は加藤軍は前夜に、はや広島へ着陣
したとの注進。出し抜かれた森軍は四、五里の道を急いだという。
 広島へ着陣してからは江波口に小屋を立てたが、その夜の亥の刻ばかりになると、小屋の下に海水がジミジミと差し込ん
できて、諸軍は難儀した。 (『森家先代実録』)

コメント:忠政が江戸で出陣命令を受けた時、森家の鉄砲隊は当時伊豆に派遣されていたので、忠政は津山にいた叔父の森可政に江戸から書状を出して、鉄砲隊を編成するように頼んでいます。また、同じ幕府方として出陣した備前の池田忠勝は若年のため、忠政が同伴で面倒みてあげていたようです。
加藤嘉明は有名な賤ガ岳七本槍の一人ですが、戦国の世が終わっても、出し抜く人は出し抜くのですね。暑い時期に加藤軍がトロいせいで日中に移動させられた上に、最終的には思いっきりハメられちゃいました。森軍がムキーーッ!!!と怒りながら慌てて広島に走る姿が目に浮かびます。でも、広島城接収自体は、滞り無く終わったようです。     


■ああ言えばこう言う。

 大名衆の寄り合いの折の話のついでに、忠政は、金森法印(長近)に呼びかけて「高麗鷹が沢山来たので、目利きをしてよい鷹を2羽、3羽見立ててくだされ。」と話したところ、法印は「美作(忠政)殿は、鷹など好んで何になるのか。」と答えた。すると忠政は「好き、嫌いという事ではなく、大鷹というものは、大名でなくては飼わぬものだ。これは、国への奉公であって、また、国持ち大名の公務のようなものだ。」ときりかえした。

コメント:金森長近の言葉に、忠政は微妙にカチンときている模様。忠政が鷹を飼う理由、一言でいうと、「大名だから。」と、いうことでしょうか。言いたいことは判るような、それでいて判らないような・・・。言いかえれば、「別に天文学が好きな訳じゃないけど、ヨン様ファンだからポラリスを探すのよ!!」というような事なのでしょうか?「大名でなくては飼わぬもの」と忠政がいうのは、当時、鷹は大名アイテムであって、庶民が飼うと処刑されました。原本では鷹を二本、三本と数えています。すなわち鷹狩用の鷹は「2羽、3羽」ではなく、「2本、3本」と言うそうです。(4へぇ)


■初出仕で返却

仙千代(森忠政)が小姓として信長に仕え始めたのは天正10年(1582)春13歳のときのこと。先輩の梁田弟河内守が、あどけない仙千代の姿を面白くおもったのか、からかってきて、仙千代の顔をなでながら信長の前へ出たので、仙千代は怒ってその先輩を部屋の隅に追いつめ頭を扇でポカポカ叩いた。これを見た信長は「仙はまだ側仕えできそうにない。母の元へ返せ。」ということで、親元へ返された。

コメント:初出仕の初々しい仙千代を見ていて本当にからかいたくなったんでしょうね、簗田さん。しかし世の中何が災いするのか、何が幸いするのかわからぬもの、簗田さんによる仙千代ほっぺたナデナデ♪がなかったら、仙千代は本能寺のお供をして命を落としたはずですから。


岐阜城脱出劇

天正10年本能寺の変のあと、仙千代(忠政幼名)は織田信孝のもとで人質となっていた。しかし、森一族は信孝と対立している豊臣方につくことにきめた。「仙千代どのの御命はあきらめて。」という家臣もいたが、長可はこれ以上身内を失いたくないと自ら仙千代救出を決行。小人数で岐阜城に忍び込み、忠政の手を引いて屋敷から連れ出して、なんと、いきなり仙千代をがけ下30mに張っておいた布団の中に突き落とした。見事に脱出成功!

コメント:まあまあ、なんて激しいお兄ちゃんですかねぇ・・・。


■ 我を待つ城よ。

慶長4年より、海津城主は森忠政で、川中島四郡を領された。この時から、海津を”待代”と名づけたという。
武田信玄の時代、森長可殿が海津城に在城の時の話だが、信長公が光秀に討たれたために長可殿は川中島を捨てて退きもうされた。
その時、川中島の百姓達が長可を討とうとして、山中で合図をして猿ケ馬場峠まで追いかけてきた。長可は取って返しこれらと競り合った。けれども山中の百姓たちは、合図しあって駆けつける前に追い返されてしまったという。
長可が(長久手の戦で)討死したその後、森忠政殿が海津城主となった、家康公へ申し上げたことには「秀吉公ご存命の折に、兄長可の跡目を信州川中島に置いてくださるとお約束戴きました、このこと、秀頼公へも仰せになってくださいました。川中島を拝領ください。」と様々語られた。忠政殿は川中島を拝領した。
入領の際「この付近の百姓どもは、私に遺恨の有る者どもなので、さぞや私を待っていたことであろうよ。されば、この場所の名にせん。」とて、その時より海津城を”待城”と名づけたという。さて、忠政殿は”兄の仇だ”、と、鳥打山より寺尾のはずれまでの川中島の百姓ら300余りの人々を磔(はりつけ)にかけられたとのことだ。

コメント:川中島海津城が”待城(松代の地名の前身)”と改名された理由は諸説ありますが、その説のひとつがこれ。
地元民の磔(はりつけ)の話ですが(><;)、忠政の治世の元、過去の遺恨を残さずにうまくやっていけるように、森家と百姓たちがお互いに話し合って”磔ごっこ”をしただけで殺さなかったという逸話も伝わっています。


■俺たちバイトです!!

 森忠政が徳川家康から信州川中島を拝領して海津城へ入城した時のこと。
当時、信州は人口が少ない国であったので、かつて森長可に対して叛乱を起こした徒党が残らず忠政に成敗される事になれば、
人がいなくなってしまうので「忠政公が領内巡視に来る前に磔(はりつけ)にかけてご覧にいれておいて、お裁きが済んで忠政公が
通りすぎてから全員を助ければよい。」と森家の下郎が土地の者と申し合わせた。
そういうことであれば一日磔にかかっているのもどうかと土地の者らは身代わりの日雇いを雇って磔にかかってもらった。
中には金持ちでも支払いを惜しんで自分で磔にかかる者もいて、磔の列は二十町ばかりズラリと並べられた。
 しかしそこへ「忠政公、間もなくお通り!」と告げる先触れの森家家臣がやって来るや否や、磔になった者たちを端から鑓で突き始めた。
それで、磔の上から「日雇いです!」と、口々に断りの声があがったという。(『森家先代実録』等)

コメント:森忠政自体は名前しか登場しないのですが興味深いので載せました。川中島は、かつて長可が織田信長より拝領した土地。そして、領民達に蜂起されて苦しめられた土地。長可がかの地を去って18年後に再び見る森家の到来。川中島の人々は復讐されることをそれは怯えたことと思います。
しかし、磔の日雇いなんて前代未聞?!しかも雇用条件と違うことが起こった!!!


■戦国ストライキ

 森忠政は海津城への国替えや、さまざまな補修、相継ぐ出陣などで経営が逼迫していたので、数千人の足軽たちへ妻子を養う為の
俸禄を出せずにいた。
そのために、戦の陣で足軽達はおしなべて暇を乞い、郷里へ帰ると断りを入れてきた。
森忠政の重臣である林長兵衛為忠は、具足櫃より黄金三枚を取り出し、
「うち続く物入りで忠政公も不自由なさっておいでなのだ。些少ではあるがこれを少しづつ分配して堪忍せよ。」
と足軽小頭たちへ渡し、色々となだめたので足軽達は承知して差し支えなく働いた。 (『森家先代実録』)

コメント:慶長5(1600)年、森忠政が真田攻めに出陣した時の逸話です。忠政が絶対に困る場所で現金なこと言ってくるのですね。でも命張って戦奉公しているのだから、当然の主張といえば当然の主張。
大名というものは、ただ戦に出て勝ちをおさめるだけではなく、色々と些細なことにも気を遣わなくてはならないので大変…。
そして、やっと川中島を整えたと思ったら、この後は美作国へ栄転!津山城築城!江戸城普請手伝い!!駿河城普請手伝い!!!篠山城普請手伝い!!!etc!!!続々と出費が続きます。


■地震大国日本

寛永五年7月14日江戸城で能があって、諸大名一同で鑑賞していたら地震が起こった。大名たちは驚いて舞台前の白州まで降りてしまった。忠政の向かいに座していた森忠広(忠政の子供)も避難しようと立ちあがろうとしたが、忠政がすさまじく睨みつけるのでそのまま座っていた。忠政と並んで座っていた堀尾山城守忠晴も立ちあがろうとしたが忠政は彼の袴を引っ張って立ちあがらせない。伊達政宗も逃げる途中だったが、忠政父子らが座っているのを見て、扇を開いて白州に避難した者たちを呼び、「御前近くなのに大騒ぎだな。もはや揺れもおさまったので皆お席にお戻りくだされ。」と鎮めて政宗も席に戻った。堀尾さんは翌日森家に来てお礼を述べた。

コメント:蘭丸兄ちゃんも地震の時にはテコでも動かなかったが、忠政どのもテコでも動かない。遺伝とは恐ろしきものだ。兄弟同じことをする。地震ごときで人間動けば負けなのだ。これは男の意地なのだ。ついでに横の奴も立たせてなるものか。それはそうと、伊達政宗どの!


■粥(かゆ)に願いを

忠政の代より、歳末のすす払いのお祝いはキラズ粥なのだ。その訳は、忠政が成敗が大好きで年々多く成敗なさるので、それを差しとめ、許容してもらう為、新年も切らずにおきましょう、という気持ちで年末のお祝い納めはキラズ粥なのである。

コメント:キラズ粥のキラズとはオカラの事のようです。”カラ”が”空っぽ”に通ずるので良くないから、オカラは”切らなくていいから”という意味で”キラズ”と呼んでいたようです。オカラの粥ってどんなの???(−−;)それにしても、成敗大好きっだったのね・・・。しかし、これを忠政の子供の忠広の話しとするものもありました。


江戸城火鉢事件

寒気の厳しき折、江戸の殿中では大名達みんなが火鉢に寄って手を温めていた。そのとき炎の立った火の塊が忠政の左手に飛んでいった!落ちた火は忠政の手の上で消えないでいるのに、当の本人は見向きもせずに座っている。岡山藩主・池田忠雄が急いで扇子で打ち払ってあげているのに、忠政はただ敢然として「そんなことしなくてよろしいですよ。今に消えるから。」と笑ったという。

コメント:森家の男としては左手がジュウジュウいっていようと、このくらいの事なんでもないのであって、こう言うときこそ忠政スマイルが見れるのであって・・・痛点ないのか?!忠政どの!!!


■ 目でコロす事件

 忠政の庭内へノギツネが1匹飛びこんできた。忠政はうるさいと思ったのだろうか、はたと睨み付けると、そのキツネは怖がってそのまま四足を縮めてその場に伏して固まってしまった。「誰かある。あれを取って捨てろ。」といえば、近習の者が庭に下りていったが、キツネの目の前にくると、たちまちキツネは起きあがって逃げていった。

コメント:森家の男は目でコロす。にらみつければクマであろうとギガンテスであろうと、たちどころにして静止画像になる。きっと金山でも、こうやって森家ではご飯を調達していたのですね。


■ 鶴山八幡宮ストーリー・1〜ふたり忠政〜

 森忠政は美作国(今の岡山県)をいただいて、鶴山という山に城を建てることにした。この鶴山の鶴は森家の家紋だったので、”鶴”の字を訓読みの通じる”津”に変え”津山”と改名した。築城に際し、この山にあった鶴山八幡宮を別の場所に移すことになり、久米南郡の覗山という所に新たな社殿を造営し神様をうつした。
しかしこの神社の由来をよくよく聞いてみると、(室町幕府の将軍足利義教を謀反して殺した)赤松満祐を討ち取ることに軍功のあった山名氏が美作をいただいたことに始まる。一族でも武功多き山名忠政という男はこの鶴山に築城し、その鎮守として鶴山八幡宮を建立したとのことだった。

コメント:森家の家紋は鶴丸紋です。そんな鶴の名をいただく山に城を築こうとすれば、その昔、同じ忠政という名を持つ者が、この鶴山に城を築いていたという・・・。なんという・・・偶然?


■ 鶴山八幡宮ストーリー・2〜神様あらわる!〜

 慶長13年(1608年)森忠政は鶴山八幡宮大祭の前日に礼拝し、心清きままに月夜の宴を催した。その夜、忠政が床について眠っていたとき、鶴山八幡宮の神様が、翁のかっこうをして忠政の枕元にお立ちになったのだった。
「汝が信仰もっとも篤し。それに感動しないわけではないが、今鎮座している場所って他郡である。すみやかに私が前いた郡の西北の地に遷宮せよ。必ず国家の鎮護となるであろう。」と、その神が明かに告げた。しかし、森忠政はそういう事を信じないたちなので「内臓が弱っていたからこんな夢を見てしまったのだ。」とやり過ごした。

コメント:信仰しているのかしていないのかどっちなんだ、忠政どの!しかも神様のセリフを読むにつけても、鎮守していた場所(苫南郡鶴山)から外されて全然違う久米郡にやられたと怒ってるんじゃないのですか?


■ 鶴山八幡宮ストーリー・3〜ふたたびお引越し〜

 神様はしつこく3度も忠政の夢枕にたった。さすがに不思議に思った忠政は、鶴山八幡宮の神主・富岡新左衛門政義と近臣の伴藤右衛門唯利に命じて、郡内のよい場所をあたらせた。神主の富岡は八幡宮で神にお伺いを立て、お城の乾(=西北)の隅、十六夜山がよろしいとの神意を得た。また、近臣の伴は調査の結果十六夜山の地が一番すぐれているという結果を出した。忠政はおおいに驚いて「私の夢と一致する。」と霊夢の話をした。ますます崇敬の念が厚くなった忠政は、即刻家臣に命じて十六夜山に社殿を造営して、久米郡の覗山より返遷し、神器を奉納した。

コメント:こうしてようやく忠政と神様との折り合いがつき、鶴山八幡宮は末永くお城の守護神と仰がれました。寛永12年には、森長継によって、南面を向いていた本殿を東向きに建て替えられています。


■ 我が子の死

忠政の子・忠広は、文を修め武を極め、その容貌も瑠璃や玉(ぎょく)を欺くかの如き美男子であったという。徳川家の覚えもめでたく、諸臣みな末頼もしく喜んでいたが、いかなる天魔外道につきまとわれたのか、寛永8,9年頃になるといきなり酒におぼれ、女にふけり、毎日寵愛する白拍子の膝の上を枕に過ごし狂気の沙汰を見せ始めた。
父の忠政も、これでは恥も外聞もあったものではないので、根性を叩きなおそうと自分のいた江戸へ招き、家臣の高木右馬助重貞に忠広の保護監察を申し付けた。すると、高木右馬助重貞は忠広を捕まえて一室に閉じ込めてしまった。部屋が窮屈で、そのうえ高木の扱いが荒荒しすぎたのか、忠広は病気になってしまい寛永10年に30歳で早死にした。

コメント:狭い一室にぶちこまれてしまった忠広公。窮屈すぎるって、一体どんな部屋にぶちこまれたのだ・・・。なんかかわいそう。ちなみに、この高木どのは、馬をカニ挟みにして懸垂ができたほどの怪力男だったという。。コインを柱に押しつけて穴を開けることもできたという。一体、忠広どのはこの人にどんな扱いをうけたのだろう。。想像するだに恐ろしい・・・(汗)ちなみに高木はその後森家を退き、紀州に行きました。


■ 忠政最期

寛永11年徳川家光が7月11日に上洛するので、忠政は先だって7月1日に京都入りした。5日に大文字屋宗味の家に行き、ご馳走してもらい、デザートには桃を食べた。暮れに滞在先の妙顕寺へ帰るときに、忠政が「たとえ様もなく気分が悪い。」といい始めたので、お供の面々は驚いて医療に針にお灸を試み、加持祈祷したりと、尽くせるだけ手を尽くしたが7月7日についに逝去した。家臣たちはあの桃に鴆毒でも入っていたのではないかと話したという。
以来、津山では命日の7月7日の七夕は6日に繰り上げて行い、7日の朝には祭壇を撤去するようになった。また、
桃を植えることを憚るようになったので、桃園がなくなった。

コメント:地震も気にならない、飛び火も一向に気にならない忠政が”たとえようもなく”気分が悪い・・・・というのはどれほど凄まじい気分の悪さだったのか。。。ちなみに、忠政逝去の日は、地元津山の香々美の山々が鳴動していたそうです。


つづく・・・。

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