森 美作守 忠政(1570-1634)


縁側でくつろぐ仙千代と各務兵庫

もり みまさかのかみ ただまさ・右近大夫
  ※信長時代は長重と名乗る。
  ※天正
13年中は一重と名乗る。
  ※天正
14年中は忠重と名乗る。

幼名/せん
    仙千代・仙千代丸・千丸 などと残る。


金山城主・岩村城主・待(松代)城主・津山城主

合戦 / 小田原攻め・大坂の夏の陣・冬の陣など

命日 / 寛永11年7月 7日

法名 / 本源院殿前作衆国主羽林中郎将先翁宗進大居士
(大徳寺)

墓所/ 京都大徳寺三玄院・津山本源寺

 

■■■■■■■■■■■■■■■不祥事おこして命拾い■■■■■■■■■■■■■

上には可隆兄さん・長可兄さん・蘭丸兄さん・坊丸兄さん・力丸兄さんがいるのに、全員戦死

しちゃった。

仙千代は元亀元年(1570年)父の可成が近江に出張中に生まれて、お父さんはそのまま

浅井・朝倉と戦って死んでいる。父を知らぬ子、子を知らぬ父。

永禄8年(1565年)森 蘭丸は、金山城主森三左衛門可成の3男として金山城で出生。物心

ついた頃にはお母さんもすでに仏門に入ってしまっていたので、剃髪バージョンのお母さんし

か知らない。こんな仙千代も、兄蘭丸らと同様、小姓として信長に仕え始めたのは天正10年

(1582)春のこと。この年、蘭丸兄も坊丸兄も力丸兄も本能寺で討死にするはめになるのだ

が仙千代だけはまだ命運が尽きていなかったのだろう。小姓先輩の梁田河内守さんに顔を

なでられたので怒ってその先輩を部屋の隅に追いつめ頭を扇でポカポカ叩いた。殿の御前で

。たぶん蘭丸兄さんも口をポカンと開けたことだっただろう。これを見た信長はチョロQみたい

な仙千代を親元に返した。季節が巡って蘭丸たちの小姓の命が尽きている事を思うと、おお、

梁田先輩は命の恩人なり。このように、仙千代も兄らと違わず性格的にはかなり気の強いと

ころがあったようで。でも、そんな忠政くんのシュミはカエル釣りなのだ!

天正10年6月2日の本能寺の変。仙千代は兄3人を失う。この時兄・長可も、信州上杉戦の陣に

あり。

■■■■■■■■■■■■ゴムひもなしのバンジージャンプ■■■■■■■■■■■

本能寺の変を知った兄・長可は信州の領土を放棄して猛烈ダッシュで金山城へ。再会を果

たした母と手をとりあって本能寺の変に涙する。信長亡き後、長可は池田恒興の誘いで秀吉

側につくことにした。秀吉は織田信孝と対立している。人質となり、その信孝のもとにいる仙千代

の命危うし。仙千代どのの御命はあきらめて、という家臣もいたが、長可はこれ以上自分たち兄

弟が母に親不孝を重ねてはならないし、自分も唯一の弟を死なせてはもはや何の生きがいもな

いと嘆いた。

仙千代救出大作戦♪るん♪長可は小人数で岐阜城に忍び込む!忠政の手を引いて屋敷か

ら連れ出して、いきなり仙千代をがけ下30mに張っておいた布団の中に突き落として見事に

脱出成功!すっごいアトラクション。楽しかったね仙千代くん!

■■■■■■■■■■■■ついに長可死して城主となる■■■■■■■■■■■■■

仙千代はついに唯一人の兄も失った。天正12年(1584年)鬼武蔵と呼ばれた兄は、其の名

にふさわしく、長久手の戦いで壮絶な最期をとげる。長可兄ちゃんはその遺書に「せん(仙

千代)ここもとあとつぎ候事、いやにて候」とロコツに書いていましたが、戦国の世に武士と

して生まれてきた以上、仙千代も平穏無事に生きることはできず、仙千代も武士として生き

るしかない。その後、森家を継いだ彼は元服して忠政となり、唯ひとりの兄弟もなく金山城を

継ぐ。時に忠政15歳。天正13年、越前国津幡城主・佐々成政退治が初陣であったという。

同年(他年説あり。)、豊臣秀吉より羽柴・豊臣姓を名乗ることを許される。文献とかに

時々、羽柴右近なんて名前で登場するので、別の人と思って間違えそうでやっかいだ。

秀吉の朝鮮出兵の折りには、九州の名護屋城普請奉行を勤めた。慶長5年(1600年)家康

は忠政を信州川中島に転封させる。懐かしい思い出の残る金山城を後にして、かつての兄

・長可の所領へ入る。海津城は「待ちに待った兄の城」という事で、忠政が”待城”と改名し

たともいい、それが現在の”松代市”の名称の元となったともいう。かつて兄・長可が越後の

上杉景勝を睨んだこの城から、忠政は真田昌幸が上田城を見張る。そして時代は天下分け

目の関ヶ原に突入する−。

■■■■■■■■■■■■豊臣を離れ、家康に味方する ■■■■■■■■■■■■

石田三成は森忠政、かつての羽柴右近、は自分たちにつくと思っていたらしい。ところが忠

政、「私の兄・長可は豊臣の為に死んだのに、あんたらは後を継ぐ私が幼少だからと言って

兄の川中島4郡を召し上げたのでどれだけ恨みに思ったことか!家康どのは川中島をくれた

ので恩がある。お前等に従う理由ないじゃん。」と返事して三成に牙をむいている。名字も”森”

に戻した。三成が青筋をたてて怒りを大爆発させる姿が後世のわれわれでも目にうかぶ。

必殺手のひら返し♪

関ヶ原の時、ご存知の通り、徳川秀忠は信州上田の真田を攻め、信州にいた森軍はこれ

に従った。大坂の陣のときは「何事もなくするすると勝って軍をひくことができますように。」と

神社にお願いしている。かつて信長の目の前で先輩をどつく程の気性の激しい荒い男が。

かつての兄・長可の様に、槍を振るって自分の領地を切り開く時代は終りを告げようとしてい

た。

■■■■■■■■■■■■■■■ 津山に城を築く ■■■■■■■■■■■■■■■■

慶長8年(1603年)江戸幕府を開いた徳川家康によって、忠政は美作国(岡山県)18万5千

石に移封になる。津山城築城の際には、家臣にスパイさせ豊前国細川忠興の小倉城の縄

張りを写し取らせ、忠興さんにしっかりばれている。忠興は笑ってこれを許し、津山城完成の

際には”朝顔の釣鐘”(大坂・南蛮文化館蔵)までプレゼントしている。その津山城だが、幕

府に内緒で5層の天守を4層に見せようとして、そのくせ幕府が検分に来る直前に慌てて切

り落としたという話が残る。

森一家の訳の分からない性格は健在である。寛永11年(1634年)7月7日京都で逝去、船岡山

ふもとで火葬にされ、大徳寺三玄院に葬られた。

或る時、市橋という人が、森家の者はみんな討死にしてばかりじゃないかと皮肉ったらしい。

忠政は「なるほど、先祖は代々死に場所がよい。私も死ぬところを案じている。」と返事した。

忠政、実は京都で桃による食中毒で苦しむなか、家臣の呼んだ針師にぷつぷつ針をさされて

しまった。針師や薬師の治療や、祈祷の甲斐なく、ついに忠政は懐かしき家族のもとに旅立った。


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