武蔵守様ご乱心 せん様ご傷心
(一)
「たとえ弟の仇(かたき)なれど、武功は武功。」
森武蔵守長可がついに下手人・安田作兵衛を見つけ出して吐いた言葉がこれであった。
安田作兵衛。本能寺で信長に一番槍をつけ、長可の弟・蘭丸の首級をあげた男。
そして長可は、こともあろうかこの男を家臣に召抱えて連れかえった。
執念深く安田を追った長可の目的は、これを討つ事に相違あるまい、と誰もが思っていた。
お蘭さまの首をあげた安田作兵衛をその兄が称え、お召しになるというこの狂気_______!
上から下まで誰もが目を血走らせ、轟々と声をあげて反対し、重臣ごぞって安田を手打ちにするよう説得した。
しかし長可は全く聞き入れなかった。
安田を害した者は処罰する、とまで言いきった。
そんな事を言いながら、長可は長久手であっけなく帰らぬ人となってしまった。
(二)
長久手の合戦当時、15歳のせんは人質として豊臣秀吉のもとに送られていた。
”せん”とは、長可の一番下の弟。後に、羽柴右近太夫忠政と名乗ることとなる。
せんは秀吉に呼びつけられるなり兄の死を知らされ、聞き返す暇も与えず秀吉は
既に己の涙と鼻水の垂れた長可の遺書を差し出し「こころして読め」とせんに渡した。
せんはつぶらな瞳を大きく見開き、その文字を追う。
せんの顔がだんだんにこわばってゆく。
読み進めるにつれ長可が平常心を失っているさまが見て取れる。何なのだ、これは?!
武士はもう嫌だと叫び、せんの跡目相続を徹底的に拒絶、
負け戦の時には城に火をかけ全員死ねと言っている。
「不憫(ふびん)よの、不憫よの!武蔵は、不憫よの!」
秀吉の嗚咽のような声が耳鳴りのように響き、せんは青ざめた顔をあげた。
確かにせんは知っていた、長可の心の脆(もろ)さ。
しかし、それは弟のせんだけが知っておればよいことだった。
このような心覚束ない書き物を秀吉の目に触れさせたなんて。
兄上、なんということですか ___。
頭が混乱して、何をどう正すべきか、せんにはわからなかった。
問いただす兄はもういない。言葉だけを置いて、去った。
涙を流すことも忘れた弟の前で、秀吉はなお、いかにも悲しげにむせび泣いていた。
(三)
長可兄上・・・・・・。
秀吉の元で死ぬべき人ではなかったと思う。
森長可の誇りには、織田信長の気高さがよく似合っていた。
信長の元にあってこそ、はじめて輝けた人だった。
せんは、秀吉の命で森家の家督を継ぎ「一重」という新しい名を持って郷里の金山へ帰還した。
長可の涙ながらの願いに逆らい、長可の知らない名前をもち、長可の知らない人生を歩み始める自分がここにいる。
葬儀までを終わらせたせんは、心労の余りに自室の柱によりかかる。
長可の葬送を見届けるや否や、多くの家臣が森家を去った。
「私は長可どのに仕えたのであり、せんどのに仕えたわけではないのです。」
わざわざ言い残して行く者すらいた。
跡目を継いだとたん、膨大な政務がせんにふりかかる。
更には何度となく豊臣家のお指図がやってくる。
秀吉は確かに情の深い男で、森家に特別気を遣ってはくれたが、
完全に名門森家の上位に立てた事を喜んでいるに違いなかった。
それを知りつつ、時勢のままに秀吉に頭(こうべ)を垂れなければならないせんの運命の悲しさよ。
思えば長可兄上も、こんな悔しさを押し殺して秀吉の元にいたのか。
少年の夢見た武士の本懐とは遠い世界が、長可のいた世界、せんのいく世界。
今となっては、何のしがらみもなく、迷いもなく、信頼できる主君について
華と散った蘭丸たちの曇り無き美しい人生がうらやましい。
信長に殉じ損ねた長可の悲惨な最期に比べて、
まこと、自分を欺かずに人生を生きることを許された者たちの何と幸せなことか。
ねえ、長可兄上______。
「せん、せん。」と呼びかける優しい長可の声が、せんの脳裏にこだまする。
私に惜しみない愛情を注いでくれた、
もう、逢うことの無い人よ _______。
(四)
「長可君が天下の望みもある大将であればこそ、たとえ小身でも堪えていたが、
幼少なる主君に奉公して各務、林に腰を屈め居るなど片腹痛いわ!」
安田作兵衛は散々に悪口を撒き散らしてから逐電したという。
叔父の林長兵衛と、家老の各務兵庫が悔しがること限りない。
信長公の仇、お蘭さまの仇、恩知らず、恥知らず、タコ、痴れ者!ゾウリムシ!
せんの御前ですさまじい罵詈雑言だったが、当のせんは静かにこの事実を受けとめていた。
長可が死んで、安田の役目も終わった________。
狂わんばかりの安田への憎しみが、長可に生きる力を与えてくれた。
それ故に安田は既に森家に罪を贖(あがな)ったのだ。
せんは膝をピシャリと叩いた。
「安田のことは、もう捨て置け!出ていくものを追う必要も無い!」
口角泡を飛ばしていた林も各務も口をポカンと開けてせんを見やった。
「もう、よいのだ。」
しかし既に林も各務も、安田のことは脳裏から吹き飛んでいた。
「驚いた・・・・今のもの言い、武蔵どのかと思うた。」
「・・・・まこと、兄弟とは似てくるものですな。」
今度はせんが口をポカンと開けた。
長可の死後、せんの心にはじめて涼しい風が吹き抜けた。
終
___________本能寺の変の後、謀叛人安田作兵衛が長可に召抱えられたのは、史実である。