鬼とされこうべ
(一)
炎は、彼の胸中を象徴するかのように柱をたて、怒りとともに全てを焼きつくそうとしていた。だが、豪火のうなりも
蘭丸の耳には届いていない。五感は遠のき、ただ、えぐるような熱く荒い息遣いがあるだけだった。彼の手に握られ
た刃には、わが主君、織田信長の赤い命の血がしたたっている___。これが、わが宿命。そう悟らずにはおれな
い。
「お蘭、介錯いたせ。」
蘭丸には、信じ難かった。
信長とともにいる限り、世界に果てはなかった。海のように、空のように、あるいは宇宙の様に___。
おのれ
その男が今、このような形で地上から消えゆくことを、理解できなかった。己の死は、こんなにも強く現実味を帯びて
いるのに__。
あまたの者が信長の為に死んだ。蘭丸の父も一番上の兄も信長の為に死んだ。多くの敵が味方が死んだ。その万
骨の上に信長は生きてきた。運命が彼を生かし続けてきた。今、その男が死のうとしている。死が君臣の別なく蘭丸
と信長の上に同じように及んでいるのだ。
実際、この部屋を隔てたところでは、数えるのみの味方が押し寄せる明智勢と戦い、阿鼻叫喚の世界をくり広げてい
る。もうすぐ敵は味方の血を絶やすと、この2人の聖域にも踏み込んでくる。そこには、奇跡はもう用意されていな
い、、、。
突如として信長が己が腹に刃を突き立てた。
信長の死が、確実なものとして蘭丸に襲いかかってきた。
いくさ
「これが戦!ならば果たさねばならぬ。」
おの
蘭丸は、主君の背後に周り、いつも追い求めてきた主君の背中を見るにつけ、主君に止めをささなくてはならぬ己
さだめ
が運命に対して武士としての精神の高揚を感じずにはおれなかった。
や
主君は我とともに止む。それも一つの天の定め。蘭丸はもはや武士としてためらうことなく、信長の首の上に刃を振り
落とした。刃は刹那のきらめきを放ち、運命が愛した一人の男の命をついに断ち切った。
足利が、上杉が、武田が、いや、味方ですら、この世の修羅どもが欲してやまなかったこの男の首を取ったのは、
森蘭丸であった。その点、運命は集中線を描いてすべて蘭丸に向けられていたのかも知れない。今、信長の最期
の瞬間に居合わせ、信長が首を許したのは、彼なのだから_。
若い蘭丸には限りない夢があった。信長とともに見し夢、母と語りし夢、一人胸のうちに秘めし夢、だが、もう地上で
叶うこともない。それを思い返す時間すら彼には残されていない。その時、蘭丸は人生とはこのようにして終わりを迎
えるのだと悟った___。だが、それもよろしかろう。蘭丸は、確かに自分の人生を生きたのだから。
首の所有者が信長から蘭丸に移った。もはや彼が、信長が確かに存在したという証拠を人に見せるようなことをし
なかった。一髪として残すことをしなかった。それが蘭丸の望みであったから。彼は信長の謎の全てをその胸に抱い
て死んでゆくことができる。
たとえ、わが首が敵の手に渡って土くれになるまで晒され、河原乞食に笑われようと、
それが一体何であろうか___。
(二)
長可はついにその地に立った。何故かためらいがあったが、ようやく決心して、その土を踏んだ。焼け跡とは無残な
ものである。肉親の死が含まれればなおさらに____。
人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり
弟達はその半分すら生きることが許されなかった。
けてん
人生はまさに転天、奈落の底まで突き抜ける___。
いかめしい手練の荒くれ武者どもが、正義の在るか無しかも考えず、恩賞欲しさに大刀を振り回し、若い弟達の命
を残酷にかき散らしたと思うと、胸が痛い。自分もそのように人を殺し生きてきた。なぜならそれをせねば武士は死
たなごころ
ぬ。生きるには殺るかしか道はない。しかし運命というものは、誠実に生きている者までをもその掌で弄ぶ。己が血
ぬられた五体に比べれば、弟たちは無垢に等しい。ならば殺さなかったから死んだのか?信長に付き従っていた
蘭丸らも、所詮は同類ということであろうか。
「つろうございますな。」とだけ家臣の兵庫が言った。
長可は云とは言わずに、
「母がな。」と言った。
年老いた母はますます悲しい。信仰心厚き母の念仏は3人の子どもの死の悲しみににますます強く果てしなく、城
内は悲しい響きに満ちて、夜ごと朝ごと長可をさいなむ。父が討死に、兄が討死に、3人の弟達が討死に、母の前
には位牌ばかりが増えてゆく。人はその死をこの上なき武運の誉れと解き、母の心を慰めようとするが、母の悲哀が
増すだけだ。誰がこの大きな悲運を受け止められよう。
今となっては、母と慰めあうのも悲しく、そんな行為に何の価値も見出せない。時が悲しみを薄れさせるのを待つし
かないのだ。父の時の様に___。
最後に蘭丸に会った時は、これが永代の別れの時だとは思い知るよしも無かった。桜が満開の季節、惜しむこと
なく兄にも笑顔を見せてくれた。蘭丸は幸せそうだった。そこに死の気配などみじん無かった。むしろ未来を予感さ
せた。弟達が幸せならそれでいい、と長可は思っていた。あの日が、蘭丸が、自分が、幻の様に感じる。。。ならば
誰かこの幻を止めてくれ、どんなに思い返そうが、もう日々は還らないのだから。
信長公のご遺骸は、髪の毛の一本すら残っていなかったという。それは人々に信長の生存を予感させたが、信長
はついに現れなかった。信長は死んだのだ。長可には最初から判っていた。そして思った。一髪たりとも残さなかっ
よ
たのは、信長の美学に因るものなのだと。
蘭丸は、坊丸は、力丸は、違った。彼らは地上に体を残し、光秀にさらし首にされた。安田某の持ち帰った蘭丸
の首を見て、光秀はそれをにわかに蘭丸とは信じなかったと言う話を聞いた。あの誉れ高き弟は、戦いの果てにど
んな表情をして死んでいったのであろうか、、。光秀が死に、ようやく蘭丸らが兄の懐に還ってきたときは、月日が流
れ、ゆえに僧侶に「お顔は見ずにそのまま埋めて差し上げたください」と言われた。長可は戦国に生きるものとして、
未練を断ち切るためにも、弟達の真の姿を瞼に焼き付けるべきだと思った。
だが、できなかった。清々しく、凛とした弟たちの美しい姿が自分から消え去ってしまうのは、余りにも忍びなかった
のだ。
蘭丸は兄の目にも賢く、美しい弟であった。
坊丸は母の願いに似て、芯のある生き方を好んだ。
力丸は、少年らしい情熱を見せ、兄の心を楽しませた。
それももう、過去の話。
「なぜにこの俺を通り越して、そんな死に方を選んだのだ。。なぜ、そうならねばならなかったのだ。」
来る日も来る日も自問自答したが、答えなど出るはずも無かった。彼は、本能寺にいなかったのだから。
「つらかったな、おまえたち、、。」
弟の無念を思い、歯噛みする鬼の頬に血の涙が滴った。
せき あふ
感極まって長可は泣いた。鬼は泣いた。次第に堰を切ったように涙が溢れ出し、本能寺の焼け跡の中で泣いた。
ごうごう
鳴咽をもらし、頭を抱えてそのまま轟々とむせび泣いた。
弟を思って泣いた。その母を思って泣いた。信長を思って泣いた。世の儚さを、戦国の悲運を、それでも生きてい
くその身の不幸を思って泣いた。
鬼の涙にもなお、本能寺は黙して語らなかった______。
終