久々!森家ストーキングの旅



2015年2月22日(日)-2月24日(火) in 岐阜・愛知

■ 2015年2月22日(日):夢にまで見た森家ストーキングの旅再開

 森家ストーキングに明け暮れて一生を終えるものと人にも思われていたこの私が、どういう訳か結婚して子供まで産んでしまった(ちなみに子供には森家にあやかった名前をつけてしまった)。
その間、3年ほど森家ストーキングはお休みしていたものの、現在、子供も1歳半を過ぎてようやく家族旅行を楽しめるようになってきた。

そういうことで、念願の森家の故郷の美濃金山(岐阜県可児市兼山)に家族で訪れることにした。

本日の旅程
福岡空港駅→中部国際空港(愛知県常滑市)→レンタカー→野間大坊(常滑市)→安養院(常滑市)→知原古戦場跡(岐阜県中津川市)→法泉寺坂古戦場(中津川市)→ 鉄砲池古戦場跡(中津川市)→西古道(中津川市)→宿(恵那市)

 しかし、旅行当日の朝になって問題が発生した。
いつも元気なわが子(以下、小ウキキと呼びます)が、この日に限って朝から鼻水じゅるじゅる…。本当に、なぜ、この日に限って…。(´Д`)
熱はないし、本人にも元気があるので大丈夫と判断して福岡空港から飛行機に乗ったけど、中部国際空港に着くころには、小ウキキの鼻の穴からとめどなくあふれる二筋の光のライン…。

やっと念願の森家史跡旅行が叶ったものの、子供の体調が心配でソワソワしながらの初日となった。

中部国際空港でレンタカーを借りて、まずは野間大坊(愛知県常滑市)という寺院にお参りした。
このお寺と森家とは直接には関係ないものの、歴史の重要人物である源義朝(源頼朝や義経の父)と織田信孝(織田信長の三男)のお墓があるのでずっと訪問したいと思っていた場所だった。

源義朝:森家は清和源氏の流れというので無関係ではない(森家濃度3%)。
織田信孝:森家の主君の息子なので無関係ではない(森家濃度10%)。

と、いうことで多少なりとも森家には関係ある史跡に違いない。
野間大坊(のまだいぼう)
天武年間に建立された古刹。

野間大坊の境内にあったクラッシックな看板

今どきのノリノリな感じのパネルもあった。なぜかこちらが照れくさくなる。
むろん、照れるのでパネルに顔もつっこまないことにする。
野間大坊の境内にあったクラッシックじゃない顔出しパネル
お寺の中にかようなものが…時代は変わった。

奥へすすむと、源義朝のお墓があった。
平安末期、平清盛に敗れてここ、野間の地へ落ち延びた源義朝だったが、家臣の裏切りに会い殺されてしまう。
源義朝公のお墓

お風呂に入っていて何も身に着けていない時に、家臣に襲われて殺害された義朝さん。

源義朝:「せめて木刀一本でもあれば殺されず済むものを」

という最期のセリフがゆえんで、境内の義朝のお墓には刀の形をモチーフにした護摩木がびっしりと積み上げられ、お供えされていた。

なお、無念の死を遂げた義朝にお供えするこの護摩木には、「お願い事を書いてOK」らしい。

『ダーリンといつまでも仲良くできますように。』→憤死した義朝公の墓前にお供え
『ハーバード大学に無事合格できますように』→憤死した義朝公の墓前にお供え
『ものすごく今更だけど織田信長が本能寺で殺されませんように』→憤死した義朝公の墓前にお供え

…そういったお願い事を書いて義朝公の墓前にお供えすると、はたして誰がそのお願い事を叶えてくれるのか、個人的に気になってしょうがない。

さて、この野間大坊には、織田信長の三男・織田信孝の墓もある。
信孝は、家臣筋だった羽柴(豊臣)秀吉によって野間大坊で自害させられた。

その折、信孝は源義朝が野間の地で家臣に討たれた故事になぞらえて

『昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴ちくぜん』

という強烈な怒りと憎しみにあふれた辞世の句を残し、自分の腹を掻き切って中から腸を引っ張り出して床の間の掛け軸に投げつけた。
怒ってる。
めっちゃ怒ってる。

本能寺の変で主君・織田信長と信忠を失った森長可も、しばらくはこの織田信孝に仕えていた。弟の仙千代(千丸、のちの森忠政)と姪のお鍋(森可政の娘)を人質に差し出したのはこの時だ。
しかし、信孝は長可と打ち解けず、その後、長可も信孝に不満を感じる事があったらしく(『…三七信孝卿も、武州君へも御心ヲ被置、夫より御不足之儀有テ…』『森家先代実録』)、信孝に仕えるのを辞めようか…と長可が思っていたときに羽柴秀吉から転職のお誘いがあって、乗っかっちゃったのである。

先ほどの源義朝のように色々とお供え物が盛られたお墓とはうって変わり、織田信孝のお墓は人知れずひっそりとたたずんでいる。
墓石の大きな縦割れが信孝の怒りのようにも感じられた。

野間御坊の織田信孝の墓

その上で、今どきイラスト顔出しパネル画像をもう一度載せてみる。
源義経の赤マフラーをつかんで簡単に首をキュ!とできそう。
源義朝を殺害した謀反人・長田氏の首をとってこの顔出しパネルに顔出しさせてみるのもまた
一興。

その後は織田信孝が自害した部屋の残る安養院(昔は安養院は野間大坊の一部だったとのこと。なお、自害したお部屋は非公開だった。)にもお参りして常滑市を後にした。

小ウキキの体調も気になるし、早めに宿に入って休むことにして、本日の宿泊予定地の岐阜県恵那市に向かった。

でも、やっぱり折角、恵那方面に来たので、恵那市に隣接する中津川市に点在する森長可の苗木城攻め関係の史跡に車をめぐらせた。

その頃には大雨も降っていたし、史跡の予習も下調べもしておらず、ただ中津川市公式サイトに掲載されていた史跡情報を元に車を走らせて、公式サイトにある画像と同じ景色と思われる写真を撮って回っただけだった。

なお、旅行から帰宅した後に中津川市苗木遠山資料館から書籍も取り寄せて情報を調べなおしてみた。
中津川市公式サイトもそうだけど、森長可の苗木城攻め関係の情報は、『苗木伝記』『高森根元記』といった資料を根拠にしていることが多い(資料が他にないらしい)。
しかし、この『苗木伝記』や『高森根元記』の内容は面白おかしく話が盛られすぎていて、歴史的事実に沿わない部分もあるらしく、合戦の内容もあまりに詳細すぎて逆に史実かどうか怪しいらしい。
なお、森家側の資料にも苗木城主遠山氏との合戦については概略程度でとどまり、詳しい内容は出てこない。

参考資料:
■『苗木の伝記 苗木記・高森根元記』中津川市苗木遠山資料館
■『遠山友政公記』苗木遠山史料館友の会


だから、以下に紹介する史跡は、史実とは違うかもしれない、後世に作られた物語の舞台かもしれない、どちらにしろ森長可はかっこいい、というのを頭に入れて見学したほうがよいみたいだ。
史跡についての詳しい説明は、中津川市公式サイトをご参照ください。

知原古戦場(付知川河川敷):中津川市公式サイト[知原古戦場]
雨の中、大慌てで川の写真を撮影したけど、よく考えたら河川敷のほう
をメインに撮影しなくちゃいけなかったのかもしれない。

法泉寺古戦場  中津川市公式サイト[法泉寺古戦場]
(公式サイトと同じ場所を見つけられなかったけど地図
によればこの周辺。個人所有地とのことなので深入りできなかった。)


鉄砲池古戦場 中津川市公式サイト[鉄砲池古戦場]
私もここは二度目の訪問。
今回訪問史跡の中で、説明看板が存在するのはここだけでした。

木曽西古道遺跡 中津川市公式サイト[木曽西古道遺跡]
ちなみに、画像にある石碑は森長可とは直接関係なかった。

撮影を終えて宿にチェックインして夕食をとってホッと一息つくことができた。
あとはお風呂に入って鼻水じゅるじゅるの小ウキキを温めてさっさと寝かしつけようと思いきや、なんと風呂が部屋の外(ベランダ)についていたという…。Σ(゜□゜;
湯船を温かくしても、2月なので外の空気は冷たい。バ・・・ババンババンバンバン…。
ベランダに設置されていた陶器風呂

そして恐れていたことが起こった。
夜中、小ウキキが熱を出してしまった。
『死んだらどうしよう…。』と狼狽しつつ、緊急時に備えて近隣の小児科を探して過ごした。
その一方で、小ウキキ本人は旅行の興奮が収まらずに、またベランダ風呂に入りたがったり、部屋の中を大はしゃぎで走り回る。
お願いだから止まって!と、つかまえる我。

■2月23日(月):国指定になったよ美濃金山城跡

旅程:兼山(岐阜県可児市)

私は眠れぬ夜を過ごしたけれど、朝、小ウキキの熱が下がっていて心底ホッとする。
だけど油断は禁物、夫婦で
「あまり色々と連れ歩かないほうがいいね。」
と、旅程をセーブすることにした。

ともあれ、ずっと訪問したくてたまらなかった森一族の故郷・山(岐阜県可児市)の地に再びやってくることができた。
それも、今回は我が子(鼻水じゅるじゅる)を伴ってくることができた。
もう感無量。

ずっとお世話になっている兼山の知人ご夫妻と一緒に、兼山のお食事処の蘭丸亭で食事をした。
蘭丸亭
兼山の数少ないお食事場所。鶴丸マークビシッ!

私たちのお部屋は『坊丸の間』。
蘭丸亭の「坊丸の間」入り口

小ウキキの体調が心配なので森家の菩提寺の可成寺さんにだけお参りして、兼山をあとにすることにした。

可成寺
森家の菩提寺

森家の菩提に手を合わせた。
またこの地へ来させてくださってありがとう。

本日は多治見市内に宿をとった。
夕方、宿の近くのスーパー『バロー』(私の住む福岡にはないスーパー!)に寄って、朝食を買物がてら、現地でしか手に入らないアイテムをいっぱい買った。
お土産屋で買うよりも断然安い!

スーパーで購入した地元ならではのアイテム

九州には上陸してくれないパスコの「超熟ロール」パンも買った。
幼児に食べさせるパンとして人気が高いパンだったから、どんなものか食べてみたかったのだ。

小ウキキは昨日の高熱はどこへやら、熱もなく元気いっぱいで、本日の宿でもおおはしゃぎした。
夜間、夫と私はずっと「いーとーまきまき♪」を歌い、踊らされた。
■2月24日(火):武蔵は続くよどこまでも


旅程:金山城跡(岐阜県可児市兼山)→森長可公胴塚(愛知県豊山町)→武蔵塚(長久手市)→岩崎城(日進市)→中部国際空港→福岡空港

今日は小ウキキの体調も良かったので、金山城跡に登ってみた。
本来は今日のラストに『出会いは雨〜愛と感動のめった打ち桶狭間古戦場跡(リニューアル後)』を入れる予定が、やっぱり兼山に行っておきながら金山城跡に登らないままで帰るのは心残りだということで、予定変更で昨日出かけた兼山にもう一回出かけたのだった。

森家の居城・金山城本丸跡
背後の建物はスケルトン天守閣ではなく、城跡に後年建立された烏龍神社の拝殿

国指定になったせいか、前回の訪兼の時まで設置されていた斎藤大納言正義や森一族の手書きイラスト看板が撤去されていたのが個人的にはショックだったものの、城跡は以前のままだった。

やっぱり、金山城跡に来ると元気が出る。
育児に翻弄されるあまりに忘れかけていた情熱の炎がふつふつと湧いてくる!!!
ありがとう、森家!ありがとう金山城!!

その後、愛知県豊山町にある森長可公胴塚をお参りした。
以前、この胴塚の存在を教えてくださる方がいたので立ち寄らせていただいた。
個人の方が近年建立なさったものとのことなので、一般の史跡とはちょっと違うのかな。
私も由来を含めて詳しくはまだ存じませんので、ここに撮影画像を載せるのは控えますけど、
幸い、グーグルマップストリートビューで見ることができるのでさりげなく貼っておきます。
胴塚ストリートビュー


続いて長久手市長久手古戦場跡へ。
森長可の死地に建立された武蔵塚にお参りした。
ここにもまた、こうして再びお参りにくることができたんだなぁ…と、目頭が熱くなる。
小ウキキが道路に逃げ出さないように羽交い絞めにしつつ、静かに手を合わせる。

武蔵塚
懐かしき安定感のある台形フォルム


旅の終わりに愛知県日進市岩崎城跡を訪問した。
天正12(1584)年4月9日の小牧長久手の戦いの折、池田恒興と森長可に攻め込まれて落城させられた小城だ。
簡単に経緯を記すと、池田恒興と森長可は、敵である徳川家康の本拠地・三河を衝く「中入り」作戦を実行して密かに(徳川側にはバレバレだったけど)三河に向かっていた時に、通り道にあった岩崎城内から攻撃を受けた。中入り作戦成功のためには無視すべき小城だったのに、池田軍も森軍も無視していられずに岩崎城に攻め込み、城代の丹羽氏重と城兵を皆殺しにして落城させてしまった。
それだけでも充分タイムロスなのに、池田恒興と森長可は、余裕をかましてさらに首実検をしていた。
その時に
『味方の後方が徳川軍に襲われているんですけど!』
の一報が入り、池田軍も森軍も慌てて引き返して厳しい条件で徳川軍と対峙し、ついに激戦に陥り自分たちまで戦死してしまうことになる。

岩崎城跡
現在、城跡には、原型を上回る超デラックスなカッコイイお城が建ってしまっている。

城内にある岩崎歴史記念館の中には、岩崎城を守っていた丹羽氏重(城主の氏次の弟・16歳)の銅像もある。
敵ながら天晴、個人的には、とても気になる人物だったりする。
建物の中では目立たないので、個人的にはお外に設置してあげてほしい。

兄の代わりに岩崎城を守っていた丹羽氏重(16)の銅像

お天気も良かったので、城内の遺構をのんびり見て回り、飛行機の時間を見計らって帰路に着いた。
やっぱり私は今も昔と変わらず森家が好きでたまらないことを再確認。

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