森家を追って低い山にも登る旅


安土を素通りしては、日本の歴史は語れない!

2012年11月10日(土)-11月11日(日) in 京都・滋賀

■ 11月10日(土):らんまる君まで追うと大変なことになるので遠慮がちに安土へGO

本日の旅程
京都駅→地下鉄(今出川駅下車)→仏陀寺→阿弥陀寺→JR京都駅
→JR安土駅→安土城郭資料館→安土城天主「信長の館」
→安土城考古博物館→安土城跡→JR安土駅→JR近江八幡駅→宿


夜行バスで9日(金)夜に福岡を出発し、今朝、京都に到着した。
久々にモリモリできるのである。

今回の目的は
『そうだ、森可成も登ったあの雲雀山に登ろう。』
である。

 予定では本日は京都と安土をめぐって近江八幡で宿泊し、明日にはお城仲間ズと合流して一緒に長浜にある雲雀山にのぼり、ついでに小谷城にも登ろうかと思う。

 まずは単独行動。
今朝はJR京都駅のロッカーにキャリーバッグを預けて地下鉄に乗り、今出川駅から歩いて仏陀寺への参拝することから始まった。

この度の仏陀寺参拝は、桑田忠親先生が森長可の遺言状にある一文の
『一、だいてんもく、秀吉様へ進上、ふだにあり』
を解釈して
「台天目は山城国の仏陀寺にあり、秀吉様へ進上したい。」
とされていたことに起因する。
桑田解釈を信じると仏陀寺がどう森家に関係あるのか私にはわからずに気になっていたのでお参りしてみたのだけど、境内に入っていいものかもよくわからず、結果として何も解決しなかった。
しかし、今の私の心境では、『ふだにあり』はこの仏陀寺と関係がないように思える(情報求む)。

最近では森長可の遺言状の例のくだりは
「台天目を秀吉様に進上します。その旨をに書いてあります。」
という解釈もでてきている。
『ふだにあり』は『仏陀寺にあり』ではなく、『札に書いてある』、すなわち長可が「秀吉様へ進上ぶん」がどれか分かるようにメモしてポストイット感覚で『札』に書き付けて台天目の入っている箱にくっつけている感じか。
私も「札」として解釈したほうが、長可の遺言状案の文脈がスッキリすると思う。

しかし、世の中もしかして…もあるので、仏陀寺も一応めぐってみた。
本当に森家と関係あるなら、いつか別のルートでつながりが見えてくることを祈る。
仏陀寺
森家と関係あるのか情報求む
仏陀寺の山門

 で、偶然にもこの仏陀寺のご近所が織田信長と森蘭丸・坊丸・力丸のお墓のある阿弥陀寺だ。
どちらも住所は「鶴山町」である。
 そういうことで久々に阿弥陀寺に立ち寄り、本能寺戦死者の皆さまのお墓参りをしてきた。
すると小雨が降り始める。
森三兄弟の墓は背後の壁の工事に伴い、一時期は別の場所に移動されていたが、壁も完成して以前の位置に戻ってきていた。でも、墓の並びが変わっていて三兄弟の間に団平八郎のお墓が挿入されていた。なにゆえ?(´・_・`)

阿弥陀寺の織田信長父子の墓

阿弥陀寺の森三兄弟の墓(五輪塔)
森家の五輪塔の間にあるのは団平八郎の墓。
蘭丸とも仲がよかった。

 この墓の主である団平八郎も本能寺の変の際に二条城で討ち死にしたが、生前は蘭丸とも親しかったようで、蘭丸から平八郎に宛てた書状も遺っている。

 仏陀寺と阿弥陀寺のお参りを済ませて京都駅に戻った頃には雨はあがったよし。
そしていざ、安土に移動しようとするのに、どのロッカーに荷物を預けたのかわからなくなってロッカーを求めて小一時間ほど京都駅構内を徘徊した。
ああ、なんという魔界都市・京都。
 


 無事にキャリーバッグをコインロッカーから取り戻してから、ようやく安土駅に移動した。
安土も久々で嬉しい。
 最初に訪問した安土城郭資料館には、動く縮小サイズ安土城天主があるほか、近年誕生の”ゆるキャラ”の「らんまる君」たちのグッズがある。


安土城郭資料館にある
安土城天主ぶったぎり模型
模型の窓から誰かが見てるよ!


 らんまる君グッズの中には紙で作る らんまる君帽子なんかもあったけど、小さい子向けなので、大きい子である私は買わなかった。
らんまる君バッヂや絵葉書などは大人のお買い物の範囲で購入した。

安土城各資料館グッズ
らんまる君グッズがいっぱいしかもお安いんですよ、奥様。

 安土城郭資料館の外に立っていた三兄弟。
こちらは非売品。お持ち帰りも不可。
らんまる
「らんまる君」が名前じゃなかったと
知る


ぼうまる
「ぼうまる」「りきまる」は
2012年現在は着ぐるみはなく
板で登場するキャラだという。
りきまる
耳が…。


 その後はレンタサイクルで青空の下で安土をかけぬける。
買えばよかった、らんまるくん帽子♪
自宅でなら、なんとかかぶれる らんまる君帽子〜チリン♪チリン♪

 次は、入館料惜しさに最近とんとご無沙汰していた「信長の館」に久々に入ってみた。
「信長の館」とは安土城天主の5階と6階だけを原寸大に作って、それを屋根で覆ってみたシュールな館である(館内の画像を掲載していいのかわからなかったのでここには掲載しませんでした)。内装は豪華に金箔も貼ってありながらも、まったく品格を失わないキラキラ天主になっている。
しかし、むしろお目当てはこの天主よりも信長の館ミュージアムグッズだった我。
天童市にある信長の肖像画のポストカードが販売されていたので購入した。


 次にお隣にある安土城考古博物館に入館した。
秋季特別展「信長×信玄 戦国のうねりの中で」を鑑賞。
うねりの中に森家がたくさん含まれていればいいなー、と思ったけど森度が低くて名前もほとんど出なかった。でも、日頃目にするチャンスのない武田方の貴重資料がいくつか展示されていて勉強になったのでよしとする。
 でも特別展会場じゃない博物館内の壁には、堂々と手描きの「森可成」ポスターが貼られていたのだけど、これは博物館のセンスなのだろうか。
安土城考古博物館
「信長×信玄」とかけ算してるのかと思ったら刀の
マークだった。


そのあとには、いよいよ安土城跡に登る。
安土城のある安土山遠景
山の左のほうに天主があった。


お時間の都合で織田信長公本廟天主跡まで一気に登ってしまった。
そして安土城跡で深呼吸して肺の空気を総入れ替えしていたその時である。
出張で別行動していた夫が、本日の合流地点の近江八幡駅にまもなく到着すると連絡してきた。
私も大慌てで近江八幡に向かうべく、きびすを返して安土駅へ急ぐ。
安土城の伝・森蘭丸邸址
敷地はもっともっと奥のほう(立入禁止)。
安土城内
向こう側から今にも信長が歩いてきそうな感じ?
安土城天主跡

安土城 二王門
戦国当時からある安土城内唯一の建造物。

 列車の時間に間に合うように、安土の田んぼの中で必死に自転車をガシガシとこいでいた時に、乗る予定の列車がプォーンと走り去るのを見てしまった。
邪魔な建物がないので、列車が走り去るのが遠方からでも、すごくわかりやすいヨ!!
安土駅前観光案内所の
らんまる君プレート

かくして1時間に2本しかない電車に乗り遅れてしまい、
『嗚呼。こんなことならもっとゆっくりと安土城にいればよかった。』
と切なくなった次第。安土駅周辺をうろついて、30分後の電車に乗る。
なぜ、かくも有名な安土なのに、安土駅に普通列車しか止まってくれないのだろうか。
かふぇ らんまる会場
次回12月1日って…屋外カフェ?寒くないん?
とにかくも、また会う日まで

 夫とは無事に近江八幡駅そばのホテルで合流。
夕食は大大大大奮発で近江牛の高級レストラン「ティファニー」に行ってみる。
恐れ多くもトレッキングシューズで入ってしまった。
そして、口の中でとろけるジュースィーな近江牛をコースでこれでもかと満喫した。

ジュースィー近江牛

 そしてその夜。
高級メニューに慣れない私の胃が脂肪分たっぷりの近江牛詰め合わがやってきたのに驚いたのか、胃がもたれてもたれて眠れないのであった…。
うぐぐぐぐ!!!!!

■11月11日(日)森可成を追って低い山をゆく

 早起きしてバスに乗り、近江八幡城下にある西光寺の織田信長公のお墓にお参りする。

西光寺 織田信長の墓
豊臣秀次が安土城かよりこの地へ移してきた
ものという。
西光寺 山門
石碑にはばっちり「天正八年 織田信長公開基」

の文字が

 朝から小雨が降ってくる。
夫とともに近江八幡の宿を出て彦根駅でお城仲間さんズ3名と合流し、車に乗せてもらった。

そして今から目指すは雲雀山

『信長公記』曰く、
『(1570年、元亀元年)六月廿一日、浅井居城大谷(=小谷)へ取寄り、森三左衛門(可成)、坂井右近、斎藤新五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内、丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り町を焼き払ふ』

というので私の中で非常に有名な雲雀山である。
浅井攻めで小谷城まで攻める時に信長は虎御前山に陣を張り、一方、森可成らは雲雀山の砦に登って、小谷の町をファイヤー!!!!

 小雨の中、雲雀山に登ろうとしたのに登り道がわからず、地元のお年寄りに声をかけて教えてもらった。
しかし雲雀山に登ると申し上げているのに何度も
「小谷のことじゃないの?」
「小谷城はこっちじゃないよ。」
と確認される。いえ、小谷城ではなく、我らは全員、雲雀山に登りたいのであります!!

雲雀山
森可成も登った愛と野望の雲雀山

登り口は公民館(ひばり山交流会館)横の道だと教わる。
そのお年寄りに

猿が出るよ。

と言われるが、万が一、猿が出たらバニャニャ戦法で戦うことにし、森可成も登った雲雀山へ元気に登った。
もしかすると山の中はそのまま藪になっているかとも思ったけど、山道もちゃんとあるし、もともと標高145 mの低山なので10分くらいで難なく登頂できた。(^O^)

雲雀山山頂
石碑には「雲雀山古墳群」
雲雀山から浅井氏の小谷城をチラ見

 しかし、山頂に「雲雀山古墳群」の石碑はあったけど、本来あるべき

森可成も登った雲雀山砦

の石碑やステキ看板は一切なし。
何をしているんだ教育委員会は。
 
 山頂には砦らしい遺構のような、違うような、思い込みのような形状はあったけど、その形状が本当に砦の遺構かよく分からないし、森可成らがやってくる前には領主であった浅井氏がこの雲雀山に何か手を加えていただろうし、その前に古墳を造るのに古代人が手を加えていただろうし、その前に原始の地球がマグマの海だっただろうし…何が言いたいのかよくわからないが、とりあえずここに森可成がやってきたというだけでシビれておくことにした(ビビビ)。
 この低っくい雲雀山から、森可成は放火して燃え上がる町を眺めていたのかなぁと思うと胸が熱くなる。
しかし、雲雀山から見る小谷山(小谷山城があった山)は本当に近すぎである。
思いっきり織田軍に横付けされてるのね。

「燃えろよ燃えろよ〜♪」
「炎よ燃えろ〜♪」

そんな歌をお城仲間さんと歌いながら違う道から雲雀山をくだる。
その下り坂で、低い木の上に何かがぶら下がっているのが視界に入ったので
「ん?」
と見上げてみると、そこには信じられないものがいた。

逆さ吊りバンザイになったまま死んで半分ミイラ化している感じの猿

ぎゃあああああ!!!!Σ(゜□゜;Σ(゜□゜;Σ(゜□゜;Σ(゜□゜;
見てはいけないものを見てしまい(撮影してないので画像はありません)、女性陣は半泣きで下山。
ああ、戦国の世とは、げに恐ろしきものなり。

 次の予定は小谷山城跡に行くはずなのであるが、この頃にはいっそう雨が激しくなり、
「車で待ってるから、君たち行っといで〜。」
と言うお城仲間ズ。
私もこの雨の中の登山はだんだんと面倒くさくなってきて、小谷山城跡の見学はまたの機会に譲り、織田信長が陣を張った虎御前山の見学もまたの機会に譲り、しかしせっかく長浜に来たのだからと山本山城経由で車を走らせてもらった。
山本山城とは、
『上から読んでも山本山城、下から読んでも城山本山』
として私の中でおなじみのあの山本山城である。
マイナー武将として有名な・阿閉氏の居城である。「阿閉」の読みは「あつじ」でよいのだろうか。
山本山城も阿閉氏も森家はあんまし直接関係ないけど、山の形が二等辺三角形なので、登らずともそのシルエットをまた見たくなってきた(以前、姉川古戦場めぐりをした時に見ていたので)。

山本山城跡のある山(画像の一番奥にある山)

でも、実際の山本山を見たお城仲間に
「二等辺三角形というから、もっとトガっているかと思ったのに。」
と言われたが、山がそんなに鋭角すぎたら阿閉一族がみんな滑り落ちてしまうじゃないか。

 お昼に長浜ちゃんぽんを食べた後は、屋根がある近隣の史跡ということで長浜城歴史博物館に寄ったけど、入館料を出したうえで気づいたのは館内でやっていたのが歴史資料展示でなくて画家の特別展だったという罠。絵画が並ぶ〜。
ほかには、秀吉の長浜城の石垣に本来使われていたという石を表で見た。

長浜城歴史資料館と今どき石垣
長浜城跡
本来の長浜城石垣だった石もこの辺の整備に
リサイクルされているらしい。
長浜城石垣出土地


 雨のせいでやる気がなく、どこに行きたいと希望する人もなく車を走らせていると、石田三成が城主だった佐和山城跡のそばにある「佐和山遊園 開館中」なるものに遭遇。
お城仲間さんズが「開いてる〜!!!」と入っていったので、コンビニかも知れないと訳がわからないままついていった。
佐和山遊園の中には私費を投じたっぽい謎の建物や石像が、ミュージアムという形でいっぱい並んでいる。
石田三成テーマパークというべきか。
佐和山遊園 公益財団・佐和山三成会

佐和山城
よかったよかった

石田三成創建の寺 瑞岳寺本堂
(という想像)

ピカピカ!!

 なぜか建ってる佐和山城の中をチラ見すれば城内は土の地面が広がっており、佐和山城の前に建っている石田三成像はセメントに銅像カラーを着色しており…で、この大理石でできたような風貌の女は誰?!

佐和山城(という想像)と
石田三成セメント像に女性像
石田三成像のどアップ…こんな顔
凹んでる。

 石田三成のことはよく分からないが、総合分析するに、この「佐和山遊園」は石田三成ファンの理想郷(ガンダーラ)なのだろう。
雨の中、体力を奪われつつパラダイス体験をしてしまった…。

彦根の中心地の「たねや」でみんなでお茶して旅は終わり。

雨に邪魔されてしまったけど、念願の雲雀山に登れてよかった。
お城仲間さんズ、今回もおかげさまでよい旅でした。(^O^)
どうもありがとうございました。
こんど一緒に兼山遊園つくりましょうねー♪

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