森家ご先祖様まで追ってみる旅


森可成公のお墓

2012年3月10日(土) in 滋賀・京都

■ この墓が…

***今日の旅程***
(3/9夜行バスで博多→)京都駅→滋賀県来迎寺・森可成の墓少林寺・森可秀の墓→赤野井大庄屋諏訪家屋敷(森家関係なし)→京都・妙心寺玉鳳院→仏陀寺に行こうとしたけどタイムアップで断念→永楽屋→大阪ニョッキ

 しばらくモリモリしていないと、本当に病気になってしまった。
今回は、京都冬の旅特別公開 『妙心寺・玉鳳院公開』期間に合わせて久々の森家ストーキングの旅に出た。

 いつものように、仕事から帰ってすみやかーに食事とお風呂をすませ、博多駅から夜行バスに乗って目覚めれば翌朝には京都到着である。

 まずは朝イチに琵琶湖の東南にある滋賀県守山市の少林寺に行く予定だったのですぐにJR東海道線に乗るところが、夜行バスが予定よりもかなり早く京都駅に到着したため、むくむくと野心が芽生えて(琵琶湖的に)逆方面の湖西線に乗車した。
予定にはない森可成(蘭丸の父)のお墓のある来迎寺に行きたくてたまらなくなったのだ。

来迎寺の山門(旧・坂本城城門)
修復工事も無事に終わっていた。

 比叡山坂本駅を下車してからは通い慣れた道、迷うことなく来迎寺へ向かう。というか、簡単な経路なんで迷いようが無い。万が一迷っても、行きつく先は坂本城跡だ。こちらは皮肉すぎる明智光秀史跡だが…。もっと逆方向に迷ってみると比叡山。ああ、滋賀県はどこに転んでも歴史の宝庫、羨ましかのすけ。

 来迎寺に到着。
長い期間行われていた山門(旧・坂本城城門)の修復工事も終わってキレイになっていた。
 津山藩によって建立された現在の森可成の墓石も相変わらず清浄に保ってもらえている。
またここに来させてもらえたお礼もこめて墓前に手を合わせた。
 ここ最近、原因不明の激しい頭痛に悩まされていたのに森家のことを目の前にすると、自分の心の核の部分に炎が再燃して元気になってゆくのがすごくよくわかる。
と、言う訳で森家がないと私は死んでしまうことがよくわかった。

来迎寺の森可成の墓
せっかくなので色々な方向から撮影。

 その後、比叡山坂本駅から京都方面に戻るが山科駅で乗り換えて守山駅に到着する。
当初の最初の目的地の少林寺へ向かうことにする。
 森可秀という、森可行の父にして、森可成の祖父にして森蘭丸の曾祖父である人がこの寺に埋葬されていると『森家先代実録』は伝える。その足跡がまだ何か残っていないのかを確認したくてやってきた。
一方、森可秀のご位牌は京都大徳寺の真珠庵にあるとする(同じく『森家先代実録』)。

 さて、下調べでは少林寺(滋賀県守山市矢島町1228)は駅からバス「矢島バス停」で降りて徒歩、ということであったので、駅の案内所でバスを確認すると、
「バスはありますが、次のバスは2時間後ですヨ。」
とのこと。

「は?」(゜O゜)???

そして、切ないほど本数の少ないバスの時刻表を渡される。
「それともレンタサイクルで行きますか?」
と尋ねられた。
駅からチャリで片道30分くらいこげば少林寺に着くとのこと。
後の日程に時間を確保しておくことも考えれば、時間をお金で買うほうがいいのかも知れない。結局、駅からタクシーに乗って行くことにする。後で思えばここでひとつ判断を誤った。

なんと、タクシーの運転手さんは少林寺がわからない。そんなオチである。
地図を渡しても自信なさそう…。
さらに地図で場所は把握できたものの
「細い道が嫌なので大きな道から行っていいですか?」
と言われて20分くらいかけて少林寺へ到着した。
私が利用した夜行バス(福岡-京都)が往復8,300円であることを思えば、タクシー代片道2,090円という金額は、恐るべき巨額を投じたかの如くに感じられる。

 さて、少林寺は禅宗の名刹で、文明年中(1469〜1487)に一休宗純の嗣法である桐嶽和尚が興したもの。
少林寺(滋賀県守山市)
一休さんゆかりの禅寺
少林寺境内の一休さん像
おお、某アニメをほうふつとさせる…。
すきすきすきすきすきすき♪

 今回は『森家先代実録(岡山県史)』のコピーを持参していたので、それを少林寺ご住職にお見せしてお尋ねした。
一読していただき、少林寺に関することを色々と添削していただけた。

■■■『森家先代実録』の少林寺に関する記述ダイジェスト■■■
  • 森可秀。小太郎。従五位下越後守。京禄元(1528)年9月8日、近江国朽木、小谷で戦死、近江国矢島少林寺に葬る、法名「羽林院宗仙人」。
  • 文化4(1807)年秋に森可睦(赤穂藩主)が村瀬林左衛門に命じて森可秀の埋葬地江州少林寺に墳墓などあるか調査させた。
    禅宗の万松山少林寺で住僧・宗謙に尋ねたところ、寛永5(1628)年に寺が焼失して古い書き物も焼けてなくなったとのこと。
  • そのほかの書物で調べたところ、記録2冊の中に「宗仙居士」という法名のみがあって、それも可秀という確かなものでもなく、位牌も確かなお墓もない。
  • 開山の一休和尚より2代目の「桐嶽和尚」の墓の傍に誰のものともわからぬ高さ七尺あまりの梵字のみの五輪の墓があり、この墓という可能性もあるかも?美濃可成寺・真禅寺などの長可君のお墓と比べれば形は大きい。来迎寺の可成君のお墓と比べれば大きいとは思えない。しかし二百八十年以上の歳月が経っているので知る人もなくこの墓という可能性があるかな、というばかりで、確かな証拠があってこれを可秀の墓という結論に到ることはできない。
  • 森可秀が戦死した享禄元(1528)年には桐嶽和尚も77歳で存命中だった。
  • 少林寺の旦那である林惣左衛門、桜木次左衛門、渋江八右衛門などいうものなどが一緒に記録を吟味した。少林寺は佐々木家の菩提寺であるが、(あの五輪の墓は)佐々木家や足利家の墳墓でなない。可秀の墓という可能性が高いかというように少林寺の僧が語ったという。
  • 北川石之丞の蔵書に『昌林寺(←少林寺)宗富が取り次ぎ、大徳寺真珠庵にご位牌がありウンヌン』と書いてあった。
  • それで真珠庵にも確認したところ、真珠庵にある位牌の名は
    「享禄元戊子年九月八日(←裏) 
    前越州太守宗仙禅定門 (←位牌面) 」
    となっている。なお、位牌の中に俗名は書かれて無かったらしく、真珠庵過去帳にも俗名の記載はなかった。
  • 宗富は一休和尚の孫弟子で、真珠庵の僧で矢島少林寺の住持もしていた。
    そういうことを考え合わせれば少林寺が森可秀の埋葬地で確かだろうと思う。


 これが森可秀(蘭丸の曾祖父)と同時代の少林寺住持・桐嶽和尚のお墓。
桐嶽和尚のお墓)

 そして、森可秀のものかは謎だけど、『森家先代実録』で調査の際に語られているお墓と推定されるものがあった。
ご住職によれば、該当するとすればこのお墓とのこと(下画像)。
 あくまでも、江戸時代に”森家の墓かも”と推定された墓が、この墓だろうかと推定される墓(ややこしい)がこの墓です。

少林寺境内の墓(正面)
少林寺境内の墓(裏面)

 『森家先代実録』でも語られているお墓はこれなのか…
お寺においても、これが誰のお墓かは特定できていないとのこと。
 森蘭丸の曾祖父の時代からこんなに大きな墓が作られることがあったかどうか、私はその辺には詳しくないけど、『森家先代実録』の中で話題にのぼっているお墓(推定だけど)がまだ残っていてくれたことに感激。
 さらに『森家先代実録』に登場する檀家さんの名字が刻まれたお墓も少林寺にあり、資料の記述と実際とが色々と突合できて感慨深い。
 昔は少林寺の横にも大きなお堀が走り(今もその名残はあって溝が残っている)、城があったとのことで寺の近隣にはその石碑(石碑は矢嶋御所となってた)も建っていた。
矢島御所跡
あの、足利義昭も滞在したという。

堀や土塁があった。

 また、姉川の戦いの戦死者の数十名がこの少林寺で供養されたとのことだった。ああ、やっぱりここは滋賀県なんだなぁ。
 さらに深く納得したことには、この矢島の『少林寺』と田辺の『一休寺(酬恩庵)』と京都の『大徳寺真珠庵』は、『森家先代実録』の記録にもある通り、寺の住職を兼任する時代があったとのこと。
だから、森可秀のご位牌が住職兼任の真珠庵に置かれてあった事も不思議ではない。
その他ご住職にはたくさんお話をお聴かせいただき、本当に勉強になった。

 一方、つい話しこんで帰りのバスも逃してしまい、少林寺をあとにしてからはバス停を求めてさまよった。
大きな通りに出さえすれば、別の路線でもっと頻繁にバスが走っているのではないかと淡い期待を抱いてずっと歩き、途中に森家とは関係のない諏訪家屋敷跡に遭遇。なんかその水堀仕様がかっこいいのでつい見学し、お向かいにある織田信長の焼き討ちにあったという寺の跡も見た(今は寺の内容は現代的建物に保管されているっぽい)。

諏訪家屋敷跡(森家と関係ない)
大庄屋・諏訪氏の屋敷跡。
森家とは関係ないけどかっこいいからつい掲載。  
 
 そして再び大通りを目指したが、私が大通りと思って見ていたのは実は砂漠の蜃気楼で実際には細い道しかなかった。アスファルト道路なのに車が走ってない。
市街地と信じる方向に行けども行けどもバス停は見つからず。
タクシーがくればタクシーに乗ろうと思っていたのにそれすら拾えずに、結局は朝にお世話になった駅の案内所に電話して、タクシー会社を紹介してもらって何とかタクシーを呼びつけて駅に戻る。
そしてまた、巨額を支払う(チープな夜行バスにばかり乗ってる当社比)。
こんなことならレンタサイクルで行ったほうが時間が無駄にならんかった!!!!!

うがーーーーっ!!!!
■ようやく妙心寺の信長のお墓参り(撮影厳禁)

 次の目的地、京都妙心寺を目指す。
下調べが甘かったものだから、妙心寺の最寄りの駅にはJR花園駅もあると知らず、JR守山駅から京福電気鉄道・妙心寺駅を目指し、わざわざ時間をかけて遠回りしてしまい、ここでも時間を無駄にした。
予定よりも時間が大幅に下がっているが、とにかく妙心寺に到着することができた。
 
妙心寺
このお寺には森家や織田家に関わるミステリーも
沢山あるのだ。

 妙心寺の塔頭、玉鳳院には織田信長父子の供養墓がある。
妙心寺玉鳳院
織田信長父子の墓がある。
(お隣の墓は武田さん家)
妙心寺玉鳳院特別公開看板
『織田信長の墓あり』と書けばもっと拝観希望者が
あると思うんだ。

 玉鳳院は普段は拝観謝絶で見ることができないが、このたび京都冬の旅キャンペーンで期間限定で拝観できるのだ。
ようやく巡ってきたこのチャンス。
 残念ながら境内は一切撮影禁止なのでここに画像を掲載することはできないが、念願だった織田信長父子の墓にようやく手を合わせることが叶った。全国の信長の墓コンプリートまであと少し…。
 ちなみに織田家の隣には武田信玄父子らの墓が並んでいる。殺し合った者が同じ列に並ぶという切ない奇縁だ。
 撮影はダメだったが墓石に刻まれた文字は紙とペンでメモってきた。

総見院殿大相國泰厳大居士 天正十年六月二日 織田信長
大雲院殿羽林仙厳大禅定門 天正十年六月二日 織田信忠
「総」と「厳」は実際は異字体でしたが、PCだと文字化けするので簡単な文字で表記。

 妙心寺には他にも森家と織田家関係で興味深い寺院があるが、既に訪問済み。
時間の都合で今日はそれらはパスして、最終目的地である京都市内の仏陀寺に向かった。

 JR花園駅から京都駅まではスムーズに行けたものの、そこから市内バスに乗ったのが運の尽きだった。今回は乗り物の選択を間違ってばかりだ。
ひどい渋滞に巻き込まれてしまいやがてバスはめったなことでは動かなくなった。
最終目的地の仏陀寺(未確認だが森長可と関係あるかも?)の拝観時間は4時半までだったはずだが、バスの中でまもなくその時間を迎えつつあった。

チーン。(終了時間)

 さらに夕方は関西のお城仲間と待ち合わせをして大阪で食事することにしていた。
移動時間も含めればもはや待ち合わせ時間すら危うくなってきた。
仏陀寺は諦めて渋滞のままのバスを降りるより他なかった。
 京都市内の大通りでは原発反対のパレードが行われていた。これが世にいう一揆軍と言うやつであるか。今日の渋滞はこのせいもあるかもしれない。そして戸惑っているうちにパレードに巻き込まれてゆく我。

森家を探して〜伸ばした〜指先が〜
踊りの〜渦に巻かれてく
人ごみに押されて〜。
(中略)
ミ・アモーレー♪

背後から『原発反対』と書いたペンギンのぬいぐるみを突き付けられ、ハッと現実に戻る。
京都へ行けばいつも寄ることにしている手ぬぐい専門店『永楽屋』でお土産を買ってそのまま京阪電車に乗り込んでお城仲間ズの待つ大阪に向かった。
仏陀寺に行けずに無念なり。
次回またリベンジを兼ねて京都へ乗り込むぞ。

 大阪ではお城仲間から結婚祝いをしてもらい、一緒にイタリアンを堪能する。
このイタリアンというチョイスは私がぜひ大阪名物(推定)のニョッキを食べさせてくれとリクエストしたからだ。大阪は粉もんが美味しいねー。
ワインが入っていい感じに酔っ払い、夜行バスの中で熟睡してるうちに福岡に無事、到着。
あまりに熟睡しすぎて姿勢を変えないままでいたので、両手足に血が通わずにとんでもなく痛い。
バスから降りる時によろめいてバタッ!(臨終)といきそうだった。

 今回は新しい森家情報の収穫もあって有意義な旅であった、しかしやっぱりたどり着けなかった仏陀寺が心残り。
また次回、新たな森家ストーキングプランを組み込んであたしは京都へ行こうと決心。
森は終わらない。