青塚砦へモリッとタイムスリップの旅


青塚古墳ペーパークラフト
2つもノリ購入してしまった。

2011年12月17日(土)-18日(日) in 愛知・岐阜

■2011年12月16日(金)プロローグ 目指せ青塚砦!in 夜行バス
 
 終業時間になると即、会社を飛び出してお風呂やら化粧やらと慌ただしく準備して博多駅前から名古屋行き夜行バスに乗りこむ。
 今回も無事にバスの出発時間に間に合って、ホッとする。また、森家ストーキングの旅が始まった。
連日の寝不足でバスの中でもすぐに眠りに落ちたのはいいが、途中のトイレ休憩で
「広島の宮島SAに到着しましたが、雪が降っておりますので足元にお気をつけください。」
とのこと。雪?!Σ(゜□゜;
バスを降りれば確かに雪がチラついている。
 どうかこの雪が私の行く手を遮らないでと祈りつつ、宮島SAでさりげなく『ホルモンうどんのタレ』と『たまごかけごはん専用醤油』買い、再び夜行バスに乗りこむ。
バスに戻ると、貸与された毛布が座席から消えていた。車内は暖房も効いているし、自分のコートもかけているが、毛布がないと足元が少々冷えて寒いのだ。
でも、私が毛布のことに気づいた時にはすでにバスは消灯して走り出したので言いだせない。
どうしよう…私の毛布はどこへ行ったのだ。 隣の人が勘違いしてとってるかも知れないと思ったけど、小心者なので聞けない…。

 それでもまたウトウトと眠っていると、予定にない多賀SAでバスがトイレ休憩のための停車。
「本来は土山SAで休憩予定でしたが、雪による通行止めのために迂回走行しています。」
とのこと。
バスを降りればしっかり積もっているじゃないか!!!!Σ(゜□゜; 

多賀SA(滋賀県)
彦根猫も櫓で丸くなってしまう雪景色!


ああああああ!!
さすが滋賀県、はんぱない!


 それでもバスはこのまま走行して名古屋へ向かってくれるようでありがたい。
みんなが起きているこの折にバス乗務員に「私の毛布が無くなったんです。」と言えば
「毛布?なんですか?」と、考えこまれた。
「それは、もしかしてブランケットのことですか????」

違うんかい!!!Σ(゜□゜;
新たにブランケットを貸していただき、ようやく足元の暖をとる事が出来た。
バスは順調に走行し続けていたのに、しばらくして車内が点灯した。乗務員が間違って点けてしまったのだろうか。それともやっぱり無くなったブランケット1枚の一斉捜査に踏み込むわけか。
私自身は眠くて、アイマスクを取り出してまた眠ろうとした。

「申し訳ございません。
ただいま関ケ原付近を走行しておりますが、多賀SAでお客様を1人乗せ忘れましたので、今から多賀SAに引き返します。」


Σ(゜□゜;えええええ!!!
 こうしてバスが多賀SAに引き返したのと、雪による高速道路通行止めの迂回と、さらに事故による通行止めまで起こって名古屋到着予定時刻が大幅に遅れる宣言が出された。

 私の今回の旅の最大の目的の1つは愛知県でやってるシンポジウムで発表される『青塚砦』(森長可の作った砦)の20分の講演である。午前中のこのイベントに間に合うようにして!お願い冬将軍!!!と祈るばかり。

 のちに気づいたこと。隣の女性がブランケットを2枚重ねにして寝ていた。確信犯め。

■2011年12月17日(土) 青塚砦〜森長可オンステージ!!

***今日の旅程***
夜行バス→JR名古屋駅→名鉄名古屋駅→柏森駅(大口町コミュニティバス乗り換え)←大口町健康文化センター→(大口町コミュニティバス&徒歩)→青塚古墳→名鉄楽田駅→名鉄岐阜駅→円徳寺→ホテル→JR岐阜駅→夕食→ホテル

 「尾北の戦国時代へタイムスリップ」というイベントが尾張北部で開催されており、森長可関連の「青塚砦(小牧市)」についてもシンポジウムと特別展があり、行かない訳にはいかなかった。
しかし、運命のいたずらと言うべきか昨夜に乗った夜行バスで色々な悲劇が重なり、1時間遅れで名古屋駅に到着した。

 今日聴講する『尾北の戦国城郭シンポジウムin大口町健康文化センター』開始時刻10:00に間に合わせるために名鉄線に走った。
 本当は名古屋駅でお手洗いとか化粧直しとか、コンタクトはめるとか、色々としたかったのだが、夜行バスが遅れたせいでもう一刻の猶予も無い。そのまま、シンポジウムに間に合うための最後の名鉄電車に乗りこんだ。名鉄電車が柏森駅に9:37着で、柏森駅から出るコニュニティバスが9:38発と、走っては乗り、走っては乗り、を繰り返して何とかシンポジウムの最初の講話に間に合うことができた。

尾北の戦国時代へタイムスリップ
右にあるのがイベントポスター。
中央にあるのが消毒液で、
左の子供の正体はよくわからない。

 『尾北の戦国城郭シンポジウム』の私のお目当ては「青塚砦」の講話(20分間)だった。

今から青塚砦の講話 青塚砦の講話、はじまりはじまり〜

 かっこいい戦国武将・森長可が小牧長久手の戦いの時に青塚古墳を合戦の最前線基地砦としてリサイクル使用したのだが、その為だろうか、前方後円墳である青塚古墳の墳丘を削りこんで平坦面を広くしてあるのだ。
 講話では『砦の構造ははっきりとしないが、古墳の上段のテラス部分を利用して、墳丘を削りこむことで平坦面を広くする。墳丘からは小牧山を間近に望むことができ最前線の砦の一つであったと考えられる。』とのこと。
 そこは私も前より知っていた話ではあるが、整備前の青塚古墳の画像がスクリーンに提示されたのが嬉しかった。これは森軍の改変がわかりやすかった。
 しかし講師の先生におかれましては、調査で確認された青塚古墳の”作られた平坦面と溝”は、恐らく小牧長久手の戦いに関わると考えられるであろう遺構”と、いう言い回しをされ、必ずしも森軍、もしくはその時代の改変であるとは断定せず、一つの可能性として語るにとどまっていた。決定づける証拠がイマイチなのかも知れない。今後、森長可のサイン入りハニワなどが出土されることを祈る。
ちなみに、いつの時代かわからない井戸もこの青塚古墳に作られていたらしい。
整備前の青塚古墳
砦に利用するために削られただろう痕跡がわかり
やすい。森長可・オン・ステージ!
整備前の青塚古墳その2
講話のプロジェクター画面を撮影してきた。


 午前中の講話まで聴講し、下の階にある大口町歴史民俗資料館の展示を見てから会場をあとにする。
各地で記念スタンプ集めにチャレンジできるとのことでスタンプ台紙をもらった。

 そこからまたワゴン車のような大口町のコミュニティバスに乗って「外郷町」バス停で下車。
そのままキャリーバッグを引いて犬山市にある青塚古墳まで歩いた。
森軍が陣を張ったこの古墳の上は現在は青塚古墳として整備されて立入禁止になっている。

冬の青塚古墳(森長可の青塚砦)
なんか色が鮮やかでないが、夏に来るともっと
青々としていてキレイ。
わざと逆光で撮ってみた青塚古墳
このテッペンに長可が天上を指さし立っていたら

かっこいいことこの上なし。

 なのに、人がいた!!!
古墳の上に人が登って草刈りしていたのだ。Σ(゜□゜;
私が古墳の奥にある青塚古墳ガイダンス施設に向かっていると、そのうちの一人が古墳の上から駆けおりてきた。施設の方が草刈りされていたのだろう。むしろ私が古墳の上に駆けのぼりたいので「古墳の上で受付しますので登ってきてくださーい。」と手招きしてくれればよいものを。
そうすれば森長可も登っただろう青塚古墳に立てる!!!!くはーっ!私にも鎌で草刈りを手伝わせてほしい。刃物を持ってあの砦に立てるのならばいくらでも手伝う!

 青塚古墳ガイダンス施設では
『いざ!青塚砦〜小牧長久手の戦いにおける森長可の軌跡〜』
という特別展が開催されていた。
今回の私の旅の目的のひとつだ。
「尾北の戦国時代タイムスリップ」記念スタンプの「青塚砦 森長可」のとこも押してもらったが、森長可と書かれて十字紋の入ったかっこいいスペースに、鍵穴の形をした不思議な消しゴムハンコ(青塚古墳のことらしい)を押されたので、今思えば押してもらわないほうがよかった。(;一_一)

青塚砦スタンプ
かっこいい森家の十字紋の上に、消しゴムスタンプ!

 特別展の展示は、ほんの小さな一角(画像掲載許可がおりませんでした)。
ガラスケースには森軍の青塚砦ジオラマが作られていたのだが、前方後円墳の形どおりにまぁるく柵を設けて作られていて、なんとなくママゴトのような、動物園の見世物用の檻の中に森軍がおさまっているような気がしてくる。
 施設をあとにする前に自分用のお土産に青塚古墳の立体ペーパークラフトを購入。
「これを改造して青塚砦を作るぞ!」と、その時は張り切っていたわけだが、今、改めて思えば、私は具体的にはこれをどのように改造したかったのだろう。
保存用と工作用に2つも買ってしまったじゃないか。

 青塚古墳に別れを告げ、再びキャリーバッグをひいて徒歩で30分かけて最寄駅の名鉄楽田駅に向かう。
この徒歩コースは人生で2度目であり、またキャリーバッグ片手に同じ道を歩くハメになる日がこようとは思わなかった。

 この後、名鉄で岐阜市内に出たのだがどうも体調がよくない。
もともと風邪ひきだったので、無理がたたっているような、森がたたっているような。
もう、時刻も夕方近いし、その後の予定に入れていた目的地・岐阜県立図書館に行くバスがめちゃ少ないので、これはもう諦めろということで風邪の大事をとって岐阜市内のホテルに早めのチェックインにして、夜からの予定の時間まで一休みすることにした。
ただ、通り路に織田信長ゆかりの円徳寺があったので参拝した。

信長ゆかりの円徳寺
信長寄進の梵鐘や織田塚などがある。

円徳寺いもあらいの里
気になったので撮影。説明には”信長の本陣”と
あるけど私にはよく意味がわからない。。
円徳寺の織田信長公寄進の梵鐘
岐阜市指定文化財

円徳寺の織田塚(伝織田塚改葬地
上加納の戦い(織田信秀vs.斎藤道三)の戦死者を
葬った塚をここに改葬したと伝わる。

 なお、夜には岐阜に嫁いできた友達と久々に会ってごはんを食べることにしている。

 体調のこともあるし、ホテルにチェックインして友達からの連絡を待ちながら暖かな部屋でひと眠りすることに。
そう決めてベッドに飛びこんで何気なくiPhoneを見ると、約束している友達に送ったはずのメールが未送信になっていて、何度リトライしてもまったくの圏外で送信不能。Σ(゜□゜;
「市内の真ん中なのに!」と、部屋の窓をあければそこからは向かいの壁しか見えない、その手前には上から下まで鉄柵みたいなのが張りめぐらされて、どうやら私は通信のきかない流刑地に来たようである。
ホテルのフロントに「部屋に電波が届かず連絡がつけられない。」と相談すると、ロビーで電話するぶんには電波も入るとのこと。
暖房も入れてなくて冷え冷えとしたロビーに行き、コートも着ずに電話やメールをしていればさらに体調が悪化していく気がした…。

 友達とは無事に連絡がついたけど、どうせ部屋に戻ってもまた連絡がつかなくなるだけなのでひと眠りは諦めて約束時間前にコートを着て徒歩でJR岐阜駅に向かった。
途中で薬局に寄り、お店の人に相談して漢方薬入りのせきどめ薬を買う。
そうしているうちに友達から「今、私も岐阜駅に向かってる。」と連絡が来た。
私が新しくなった岐阜駅の勝手がよくわからないので、私が唯一わかる黄金の織田信長像前に迎えにきてもらった。

輝ける黄金の織田信長公像
黄金が輝いている!!!
場所が高すぎて触れない、削れない!
岐阜駅前のイルミネーション
ささやかである。


 私が夢中で信長像を撮影しているうちに背後に友達がいてじっと見守ってくれていた罠。

 「夜間にモーニングの出るお店に食べに行こう。」という友達の提案により大垣方面の店までドライブ。
確かにそのお店にはモーニングメニューがあったが、私に関してはこの風邪を吹き飛ばすためにもガッツリとステーキ定食を食べることにした。
友達がモーニングを注文したらアンコを乗せたトーストと味噌汁が出てきた。
九州人としては、抵抗のある組み合わせだ。Σ(゜□゜;

あんこのせトーストと味噌汁モーニング
なんという最強伝説!!!

 しばらく会えなかった時間を埋め合わせるように友達とたくさん駄べって閉店時間を迎える。
明日はまたこの友達に千代保稲荷(森家関連の神社)に連れて行ってもらえることになった。

2011年12月18日(日) 岐阜城を上からモリコ


本日の旅程
岐阜城→崇福寺→JR岐阜駅→名古屋中央郵便局→清洲城→万松寺→総見寺→日置神社→古渡城→名古屋(夜行バス)→福岡へ

朝は岐阜城へ行くことにした。
ここ数年、何度も前を通過していたが、久々に金崋山を登って岐阜城まで行くことにしたのだ!(^O^)/
昨日とはうってかわって本日はとても体調がよく、一番激しい馬の背コースを歩いて岐阜城に登れるくらいに気力があったが、昼からは友達との待ち合わせ時間なので諦めてJAF割引を使ってロープウェイ片道3分コースで岐阜城に登った。

岐阜城
その前身は斎藤氏の稲葉山城。
国盗り物語の舞台。
岐阜城下・織田信長居館跡
今後の発掘調査に期待大。

岐阜城再建天守

岐阜城からの展望
どこまでも蛇行する長良川と濃尾平野が美しい。
岐阜城信長居館発掘調査中
ロープウェイの中から撮影。



 久々の岐阜城だが、展示は昔の古くて古めかしい状態のままで驚いた。山が高いので面倒くさくて展示を変えられないのだろうか。
でも、岐阜城の真価はそこから見降ろす景色の素晴らしさにあると思う。
斎藤家の元で森可成(蘭丸父)が青春を過ごしただろう故地・稲葉山城(岐阜城の前身である斎藤の城)!どんどんどんパフパフー!
織田信長が手に入れ、山頂まで登りまくったという岐阜城!信長はひとつまみのぜい肉も許せなかったのだろうか、運動はかかさなかったその一生。

岐阜城からの下天の眺めは素晴らしい。
きっと斎藤道三や織田信長が武者震いしただろうこの鳥瞰図。
もしかして信長はこの景色を眺めるのが好きで岐阜城に登っていたのだろうか。
果てしなく長良川の蛇行する濃尾平野の風景を見れば、なんとも気分が高揚する。
ましてやあれが自分の領土だったら本当にこの風景に心酔し、その先にあるものをもっともっと求めてしまいたくなることだろう。

 信長のことを考えていると、急に岐阜城下の菩提寺の崇福寺にお参りしたくなってきたが、友達との約束の時間が迫っていたのでこれも諦めてホテルに荷物を取りに戻り、キャリーバッグを引いて名鉄岐阜駅に向かっていた。
そこで、友達から「体調悪くて会えなくなった。」のメールが入り、私はいっきにフリーになってしまった。
そういうことか_。
と、いうことで再び岐阜市内巡回バスに乗り、キャリーバッグを引いて崇福寺にお参りした。こちらも久々のお参りとなった。
崇福寺
織田信長公聖廟所のある菩提寺
崇福寺の庭園

織田信長・信忠父子の墓
縦に2分割で左右に父子の法名が並ぶ。
織田信長・信忠父子の位牌堂
中に2人のご位牌が安置されているという。

 織田信長・信忠父子のお墓に手を合わせてきた。このお寺には血天井もある。岐阜城落城の時の血のついた床板を天井に張ったもので、今でもその生々しさが容易に想像できる。
ちなみに、崇福寺の織田信長ゆかりの展示品もそのテープ説明もパンフも以前お参りした時と変わらず昔のままだった。
 それからJR岐阜駅に向かって、またしても駅前の黄金の織田信長像の撮影にいそしむ。
やっぱり夜景よりも昼のほうがはるかにきれいに撮影できた。羨ましい限りの小顔なり。

黄金の織田信長像昼バージョン
なかなかかっこいい信長ですね。

 JR名古屋駅に到着してから、名古屋中央郵便局愛知県ご当地フォルムカード「織田信長」を買いに行ったが、職員によれば
「今日は休日なので販売職員の管轄が違います。」
とかいう納得のいかない理由で買えなかった。
これも今回の旅の目的の1つであったのに!!!
販売可能な平日にご当地フォルムカードを買いに愛知県に出直してくるなんて福岡県民には並たいていの事ではない。なんでそこにあるものが、紙が、管轄が違うと販売できないんだ(泣)!!!なんとなく、今思えばサイトにある織田信長フォルムカード見本を印刷すればそれで気が済むような気がしないでもないが、わざわざ買い求めに来た身にはショック!!!

そうして郵便局で余計な時間と無駄足をくらった後、名古屋駅地下のコインロッカーに荷物を預けて、今度は清洲城へ行った。
一時期は織田信長も居城していた城だ。

清洲城跡の信長公を祀るお社へ 城跡にある信長公を祀るお社
清洲城ペーパークラフト
ふるさとのやかたで2つ購入。

清洲城の織田信長公像
やっぱりこの像が私にとっては一番理想に
近い信長。

 先年、リニューアルオープンしてから初めて行く清洲城だが、到着した時にはもう夕方近くになっていて見学時間も限られてきていた。足早に見て行くしかない。
城の前にある ふるさとのやかた では清洲城ペーパークラフトを購入。


清洲城
いつ来てもプラモに思える清洲城。

信長時代の清洲城は名古屋城に移築され、御深
井丸の西北櫓として現存する。
復元石垣
五条川の右岸で発見された石垣を復元したもの。



 清洲城に入ると、すべてが新しくなっていて、信長や郷土の偉人のことがわかりやすく解説されていた。信長時代の戦国期・清洲城のジオラマなどは昔の城の様子をイメージで再現していて特に面白かった。
 リニューアル前までこの城内にあってダンシング織田信長人形の傍に控えていた森蘭丸人形は、現在、城に隣接する芸能文化館に移動している。そのことは追跡捜索した知人に教わって知っていたので、芸能文化館に行ってみると閉館時間がPM5:00とパンフに案内されているのに、4:30の時点で館内のおじさんに「もう閉館です。」と言われた。
「えあぁああああああ?????」Σ(゜□゜
森蘭丸に一歩踏み込む手前の門前払いに納得いかず、
「そこの人形の写真だけ撮影させてください。」
と変態チックなお願いをすれば
「ああ、着物や甲冑の着付けは今日はもうませんけど人形の撮影だけならしばらく大丈夫ですよ。」
とのこと。逆に私だけ部屋に通してもらえ、邪魔者なしで一人で森蘭丸人形を撮影しほうだいになってしまい、折角の機会到来なのでいろんな角度から撮影してみた。
織田信長人形のいない場所に引っ越しして、身なりがどうでもよくなったのか、なんか髪もぼさぼさになっている。そういえば信長人形はどこへ…。
クリックしてください!→ありし日の織田信長、そして森蘭丸

森蘭丸人形
一人でバイト中の森蘭丸
床几に腰かけてツーショットも撮影できます。
森蘭丸人形
前髪の乱れが気になるが、直そうと
してもクセがついて無理だった。
上からモリコ

  清洲城を満喫してJR名古屋駅に戻るが、まだ帰りの夜行バスまでに時間があるので、思いつきで史跡めぐり夜の部に繰り出してみた。
 地下鉄で上前津駅に行き、商店街のど真ん中に位置する万松寺に詣で織田信長の父・信秀の墓参りをした。夜のお蔭で織田家の提灯が灯り、逆に昼間には味わえない風情がでている。

万松寺の織田家提
画像に収まりきれない数が並んでいてきれい。
織田信秀の墓
信長の父の墓。

 あの有名なシーン:万松寺の父の葬儀で織田信長が父の位牌に抹香を投げつけたのは、現在地である「大須」に移る前の万松寺での出来事だそう。
 信長が位牌に抹香を投げたというので参列者は「信長はやっぱりうつけじゃん!」とひそめきあったというが、信長が抹香をふるいにかけてトントンとケーキにふりかけて、生クリームを泡だてながら
「俺は戦国のパテシィエ・NOBUNAGAだ!」

とか言い放ち、スポンジを焼くので卵を産めと強要してきたというなら完全に信長をウツケ認定してOKだろうが、喝と抹香を投げつける信長は、かっこいい愛と感動の天才麒麟児戦国ドラマ以外の何者でもない。どう考えても、かっこよすぎじゃないか。尾崎豊じゃないか。この支配からの卒業じゃないか。
 筑紫から来た僧がただ一人だけ信長を認めたように、信長はただのウツケではないと思うのが自然じゃないのか。まぁ、どうせ葬式に出席していた半分は明日にも信長の命を狙うような参列者たちなので信長をウツケ認定したいわけかもね。

 そこから歩いて数分で織田信長の菩提寺・総見寺(次男・信雄が父の菩提を弔うために再興した寺)である。ここは拝観不可のお寺なので昼でも夜でも外から拝むしかない。幽体離脱できれば中にも入れたのだけど…。

総見寺
織田信長の菩提寺を高感度撮影。
総見寺の



 更に歩いて日置神社へ。
神社周辺とその境内は真っ暗でひと気もなくかなり怖かったのだが、織田信長が桶狭間の戦いに出陣する時に先勝祈願をし、勝利の暁にはお礼に千本の松を寄進した神社なので勇気をだして入ってみた。
本殿に近づくといきなりセンサーで電気がついてビビって「ヒャァアアア!!!」と叫びそうになる。
そこで見つけたスタンプラリーの台紙には「あいち戦国姫隊がナビゲート」と書いてある。
む。名古屋はまたなんか隊を作ったのか。
あと、残念ながら今は信長寄進の松は枯死して一本も残っていないという。
神社の由緒書きによれば、「信長ゆかりの松は現在はなく明治三十九年最後となった松樹の根を漆で塗り保存されている。」という。それはどこに保存してあるのだろうか。

日置神社
信長が戦勝祈願をした神社を高感度撮影。

 またテクテク歩いて最後に向かったのが古渡城跡
織田信秀の築いた城で、信長もこの城で元服したという。
跡地に行けば、半端なく大きな寺院が建っていた。あっけにとられて見上げるしかない山門。ここは現在は本願寺東別院とある。とっくに山門は閉ざされていて境内の中にあるという「古渡城趾」の石碑も拝めない。
 なお、隣接する下茶屋公園には古渡城の遺構と、さらには名古屋城の築城で集められた石の残石があるというので探し求めたが暗いし静かだし寒いし怖くて何もわからず、早々に立ち去った。

古渡城跡
今日は石碑が見れないので看板を記念撮影。
下茶屋公園
この辺も含めて古渡城跡だったそうだ。

 こうして今回の旅を無事に終え、名古屋駅に戻って夜行バスに乗り福岡市へ戻ったのだった。
とにかくも、森長可の青塚砦の世界を堪能できて何よりだった。私としては今後も発掘作業が進めばありがたい。
そしてまた、森長可で何か企画展をしてもらえないかな。