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2011年10月14日(金)-16日(日) in 北陸・岐阜 |
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■ 2011年10月14日(金)森家濃度が薄い旅 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この秋も有給消化を兼ねた森家ストーキングの旅に出る。 今回の旅のお伴は、同じ福岡市民であり、お城仲間のケイさん。 ケイさんにとっては初めての北陸なので、ケイさんのリクエストを受け入れて森家好きにとってはどうでもいい名城などの訪問も織り交ぜながら旅をする。 両方の要望を取り入れると、なんとなく不思議な味付けの城めぐりとなった。 まずは、「夜行バスは無理!」のケイさんに屈して始発の新幹線で博多駅を出発した。 新大阪駅からはサンダーバードに乗り換えて福井入り。 私にとっては2度目の福井であるが、今回は前回と違い、大河『江』の影響で「浅井三姉妹」の名がお土産屋などにもチラホラ。 やっと到着した福井は果たして雨だった。 まだ小雨程度だったので、何かが天から落ちているのは気のせいだという事にしてキャリーバッグをゴロゴロと引っ張りながら、福井駅周辺の史跡を軽く見た。 まずは県庁になっている福井城。
お堀も天守台の石垣もよく残っているけどなにせ県庁。 そして城内には結城秀康のむごい石像があるけど、なにせ県庁。 地図を持った人が「この地図、どうぞ〜!」と庁舎から駆けて出てきた。さすが県庁。 福井城といえば、結城秀康の息子・松平忠直が乱心のため、「森忠政」にも越前に赴く命令がくだった(越前之陣の沙汰有之)らしい。 それは『森家先代実録』によれば寛永元(1624)年春。 実際にはもう既にこの年までには松平忠直は蟄居させられて豊後(大分県)にいたので、文章になんか誤解があるが、内容をそのまま紹介すれば、その出陣に際して 森忠政は沼・上河原(津山の地名)において白・赤・黄色の3色の柄絃(えづる)を馬上に指させ、それを津山城の北の櫓から自らチェックした上で、それ以後、森家家臣たちの差物を5本の赤地の柄絃(えづる)に決定、幟(のぼり)も赤地に白の十字紋にし、小姓の差物も金の切割にした、 とのこと。 でも、結局、森忠政が福井城に行った話は出ていない。 そもそも忠直のご乱心云々は元和年間の話であるが、忠直も反抗せずに幕府の蟄居命令に応じているので森忠政らが合戦の準備をして福井に行くまでの事件にはならなかったのだろう。 と、言う訳で微妙に森家史跡になり損ねたこの福井城。 その後は徒歩で北ノ庄城へ。 もはやこの界隈は福井城と北の庄城の遺構が混在しているが、北ノ庄城といえば柴田勝家築城の城。 ここで織田信長の妹・お市の方も勝家とともに北ノ庄城で自害して果てているが、今は、城跡はそんな事が忍べないような整備ぶりになっている。 柴田神社もあるよ。 勝家とお市の方の銅像に加え、あの三姉妹の銅像もあるよ。
この頃には雨が本降りになってきた。 福井駅近くのマツダレンタカーで車を借りて、トランクにキャリーバッグを押し込めて福井市内を離れる。 次の目的地は朝倉義景のいた愛と幻の一乗谷である。 行けば、朝倉義景よりも 『ここは(ソフトバンコの)おとうさん犬の故郷です。』 というPRが目についた。 観光案内地図にまで、おとうさんのイラストが入っていた。 ソフトバンコCM撮影の模様の写真パネル(お父さん犬やウルトラマンww)もあったので、私のソフトバンコiPhoneで写メ投稿しようとしたら、『圏外』。 ソフトバンコおとうさん犬の故郷では、ソフトバンコが圏外!! 足利義昭も来た事があるのに、圏外!!!
朝倉サイドの情報によれば、森蘭丸の父・可成は近江国坂本での最期の戦いにおいて、朝倉義景家臣の「斎藤新三郎」という人に首を討たれたらしく、義景より斎藤新三郎宛てに感状が発行されている。 今も当時の暮らしの様子がよく分かる一乗谷城下町の遺跡は、朝倉氏家臣の誰がどこに住んでいたまでわかるというすごい状態なのだが、そこに「斎藤」さんの家というのがあるんだな。 それが、森可成の首を討った斎藤新三郎と関係あるかどうかまではわからないが、気になるところではある。 朝倉軍はその後、可成の首をどこに葬ったのだろう。それが一番気になる。 朝倉氏居館跡を含め、一乗谷城下町をひととおり見学していった。 福井県ではお約束のように「熊に注意」の看板もあるので、山の上にある城跡までは登らなかった。 おとうさん犬が熊と戦ってくれ。
それからまた車に乗り、今度は丸岡城へ。 目的としては100名城スタンプを押しにいったのであり、私は二度目の訪問であり、柴田勝家の甥・勝豊の築城であり、森家度数は低いが、天守はともすれば安土桃山時代に造られたものといわれているそうだ。 そんな丸岡城の天守の小粒ぶりにケイさんが驚いていた。 天守入口から入り、ホップ・ステップ・ジャーンプで壁にぶつかるような小規模天守。(^_^;)、
森家度数が低い旅は、まだまだ続く。 ケイさんリクエストで丸岡城の近くにある称念寺の新田義貞の墓に行けば、 寺の由緒にこともあろうか、明智光秀の名があるのが目にとまった。 なぜに光秀がここにいる? どうやら、この寺の門前で寺子屋を開いて子供たちに教えていたらしい。 ケイさんについてたまたま訪問したお寺なのに、こんなピンポイントな場所でなんで明智光秀が登場するんだ!!!!Σ(゜□゜; まさか、引き寄せられてしまったのだろうか…我…。 お寺発行の『明智光秀と称念寺』を買ってしまった。 く…。
それから急にケイさんが思いつきでハンドル切って、東尋坊へ行く。 と、東尋坊なんて、普通の観光地じゃないか(動揺)!!!!!Σ(゜□゜; 普通の観光客としてはどうふるまってよいのかわからず、とりあえず東尋坊の地名の由来を探してまわった。
そしてまたケイさんの思いつきで近所の幕末史跡の丸岡藩台場跡へ。 時代すら森家とからまない〜
そしてまたケイさんのいきなりのリクエストで吉崎御坊へ。ハンドル握らせたらやりたい放題である。 延暦寺から本願寺を壊されて流浪していた蓮如上人が建立して布教の拠点となった吉崎御坊。 森家と無理矢理接点を見出せば、蘭丸母・妙向尼がこの浄土真宗の熱心な信者である。 そして後に蓮如は大坂に石山御坊(石山本願寺)を建立することになり、織田信長や森家にも大きくかかわってゆくことになる。
下道を選んで車を走らせつつ、夕方には前田家加賀百万石の金沢に到着した。 残念ながら予定していた金沢市内の探検はタイムオーバー。 森可成と仲良しだった前田利家のお宅(金沢城)には翌日赴くことにした。 ホテルに車と荷物を置いた後は、金沢市街地のお店で金沢名物の「治部煮」を賞味。 ふすま麩の存在を知らずに「なにこのタケノコ」といいながら食べる。 醤油アイスも食べた〜(^O^)/ 結論:アイスには醤油をかけないほうが美味しい。
食後はホテルの大浴場を一人占めで使い、就寝。 明日からは、森度UPの旅になる!!!!! |
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■ 2011年10月15日(土)北陸とやまんぼう | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今日は森度が昨日よりあがる旅程なのでテンションもあがる! 金沢市内のホテルに宿泊したので、目覚めればそこは金沢である。 でも、朝からあいにくの雨模様。 まずは朝一番に前田利家やお松さまの眠る野田山の前田家墓園にお墓参りをした。 予想外の神式の鳥居つき墓である。
引き続いては民家に紛れて迷いながらも祇陀寺(大智和尚)へ。 これは菊池家スキーでキクチニストなケイさんのリクエストによるもので、驚くべきことになんと森度がゼロである。 祇陀寺(のちに肥後へ行って菊池氏に保護を受ける大智和尚が開山)という寺院は、お寺の石碑は見つけたまではよかったが、本堂らしきものは普通の住宅っぽい外見の建物なので認識するまでに時間がかかり、仏像はシャッターつきのガレージのような感じになっていたのでしばらく仏像が安置されていることに気づかずにスルーしてしまっていた。 お寺にはどなたもいらっしゃらないようなので、詳細は不明のまま。大智和尚のお墓を探すも見つからず、そもそもお墓があるのかもわからず、とりあえず私の 「お手洗いに行きたい。」 で祇陀寺を強制終了とあいなったのである。 しとしと雨が降り続く中、続いては傘をさして金沢城を散策した。 北陸の空が全体的にワントーン暗い気がするのは、この雨のせいだけなのだろうか。 しかし、それとは対照的な金沢城の石垣のピンクぶりに目が覚めた。本当に石垣がピンクなのである。でも、その画像は掲載しない。 城内の駐車場から城の中心部に向かう道から、金沢城の石垣があまりにも見事で目が釘付けになっていた。さすがは森家と知り合いだった前田利家の城である。 広い城内を近道しようと石垣をよじ登ったが、先に登ったケイさんに「つかまって。」と差し出された手にすがろうとしたのに、いきなり手をひっこめてそっぽを向いて歩きだされ、私はそのまま濡れた石垣の草の上にグシャッと転倒。 大人になってからこんな目に遭いたくなかった。 金沢城の本丸は草むらというか、あまり保存状態がよくなくて残念な感じであった。 更に眼下に恐ろしい現代的な横穴が無遠慮にあいていた。 それでも、空堀とかはすごくて前田家の力がよくわかった。 再建された金沢城菱櫓・五十間長屋・橋爪門櫓などの内部もお金を払って見学した。 ズザーッ!!⊂(゚ー゚,,⊂⌒`つ〜≡≡≡ ができそうな廊下もあった。 雨じゃなければ、金沢城の画像も映えたであろうに残念。
加賀百万石の金沢城主であった前田利家。 昔、若き前田利家が信長に出仕していた時に、針阿弥なる信長のお気に入りを斬ったことで織田信長に処分(コロス!)されそうになった時には、森可成と柴田勝家が割って入ってこれを制止して利家の命を助けた。 さらにその後、利家が一時期、織田家を離れ浪人生活を送って皆がそっぽを向いていた時も、可成や勝家は変わらぬ友情を示して利家の元に遊びに行ったりしたので、前田利家は森可成をべた褒めで回顧している(『亜相公御夜話』)。 それが、どうしてその後、戦国リレー後に森家と前田家と柴田家はこんな格差のある結果になったのだ。 いつの間にか、百万石の前田家と、十九万石くらいの森家と、もう影も形もなくなった柴田家と。 世の中、つくづくわからないものなのである。 森家はやはり可成が途中で亡くなったのが大きい。 織田信長が可成の恩に報いて充分に子供たちを保護してくれたが、それでも、可成がずっと生きていたのといなかったのとでは森家もまったく違ったものになっていただろう。 江戸時代に入って、加賀前田家(前田利常の娘を徳川将軍家の養女とした上で)から森忠政の息子・忠広へのお輿入れもあったのだが、忠政存命中に、この前田家の姫君も病没し、3年後には森忠広も亡くなってしまった。 せっかくの森家&前田家&徳川家との喜ばしいご縁なのに、悲話を含む物語となってしまった。 つづいて、森家とは関係ない七尾城を目指す。 七尾市に向かう車の車窓から見えるTHE日本海も、景色はよいのにお天気が曇りなので空も海もどんよりとして非常に残念だった。 七尾城は100名城スタンプの城。 麓の資料館でスタンプを押し、車で登れるとことまで七尾城に登った。 歴史本などで目にはしていた「七尾城」の文字。実際にこの城まで来る日が来ようとは(しかも森家じゃない)。しかし、たいそう高い場所に感じるところにある山城で、もし、麓から足で登っていたら一日仕事になるところだった。
その次に訪問したのは氷見市の阿尾城跡。 これまたケイさんリクエストの菊池の城であり、前田利家と佐々成政のバトルに巻きこまれた城である。 お魚で有名な氷見まで来たのに、魚には見向きもせずに城跡の神社に登った。神社がすべてハードプラスチックで囲ってあったので『神社が蒸れそうだ』と、気になりつつ、城をあとにする。 が、車で走り去りつつ阿尾城跡を振り返ると、城跡は富山湾に面して、すごい断崖絶壁の立地なのである。
「わっ!すごっ!」という私の叫びΣ(゜□゜で急遽、路肩に車を停めて撮影会と化した。 再び車に乗って100mくらいすると道の駅があった。通過。 『狭い路肩に停めなくてもここに停めればゆっくり撮影できたのに…。』というオチだった。 せっかくお魚の美味しい氷見市にきたので、と、いいつつお昼ご飯はローソンでいくらこぼしおにぎり(北海道産いくら)を買おうとするが、売り切れていた。運が無い。 地元のご馳走を口にせずに、それが自分の旅らしいといえばそれまでだが、なんで氷見に来て結局は肉まん食べた。 そして思うに、さっきあった「道の駅」に寄ってたらもっと素敵なもん食べれたんじゃないのか!!!! その後はいよいよ私のリクエスト、高岡市の瑞龍寺に参拝した。 ここは前田家利長の菩提を弔うために建立された寺院だけど、前田利長、さらには前田利家、織田信長、信長側室・正覚院、織田信忠の墓があるので、いつかは必ずに訪問したい場所だったのだ。 瑞龍寺境内に入れば目に飛びこんでくる鮮やかな青い芝生とシンメトリーな美しい伽藍にうっとりする。
さて、目的の織田信長のお墓参りをすれば、居並ぶお墓は、みんな建て売り住宅のような石廟のお墓になっているのだった。 うう、こんなにも…こんなにも家の形をしていながら入口にチャイムがない…。 いや、たとえ信長公の石廟にチャイムがついていても畏れ多くて押せない!チャイムを押したらカブトムシ小姓とかが中から出てきて「上様に何か御用ですか?」と問うてそうな雰囲気だが押せない! 石廟の中を覗けば中には一基ずつ供養塔が建ち、日本人の癖であるのか小銭が散らしてある。
すでにこの時点で夕方だったのでスケジュールが完全におしている。 これでは最終目的地に着くのはいつもの如く夜になるぞと、焦って移動。 次は、同じ高岡市内の高岡城(100名城スタンプの城)に行った。ここは広大で逆にちょっと歩いただけでは城としての造りがよくわからず、そのまま広場で走って土塁っぽいのに登ってみるに留まる。
最後は私のリクエストの富山城に向かうも、道中バケツをひっくり返すような大雨が降り、車の中にも雨を打ちつける強い音がポンポン反響する。 富山城に到着した時にはさいわいにも雨は傘をささずともよいくらいの小雨になっていたが、あたりは完全に夜と化していた。 なお富山城は、かつて佐々成政が富山城主だった時代の天正13(1585)年に豊臣秀吉が佐々を征伐せんということで多くの武将とともに森忠政も出陣した。 これが忠政の初陣である。 重要なのでもう一度書くと、これが忠政の初陣である。 結局、佐々成政は剃髪して秀吉に降伏することになる。その後、彼は肥後に移封になったが、一揆が勃発してしまい秀吉に再び所領没収された上、摂津で切腹を命じられる運命となる。 その後の富山城は富山前田家の藩政の中心地として栄えてゆく。 そういうことで富山城も森家関係史跡と呼んで差し支えないだろう。 今回はタイムオーバーで富山城復興天守の中にはもう入れないので、城内にあるかも知れない森家資料の数々を見れないのは非常に無念だが、これは再訪の機会を狙うとして、とりあえずはライトアップされてお堀の水面にきらめく復興天守を眺めた。 富山ではお堀に泳ぐ魚も美味しいのだろうか(空腹)。
ところで富山県のローソン率の高さは何?驚いた。 帰りの高速は、雨の夜道で、しかも運転する私は眠いという恐るべき状況下であり、さらに驚いたことには、360度霧がかって夢幻世界が広がっているところがあった。 こりゃ、注意を怠るとまさしく死ぬるΣ(゜□゜; 沿道の緑のライトで描かれる線を頼りに霧の中を走る。 SAで食事をして、夜遅くにようやく可児市の常宿に到着した。天気が悪いと、慣れない場所での運転も怖いが無事に到着できて何より。 明日はいよいよ最終日。 兼山での森家濃度100%の喜びに備えて就寝する。 |
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■ 2011年10月16日(日)ゆるキャラ密度の濃い祭り | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今日は嬉しくも森家100%の日となる。 朝から森一族の故郷である可児市兼山へでかけた。 いつもは麓から登る金山城だけど、今日はズルをしてレンタカーで金山城の出丸まで一気に登った。 朝一番の兼山の空気をお腹いっぱいに吸い込み、体内にあったどす黒いものを吐き出して全身を換気。
下山後、まずはいつも通りに森家の菩提寺である可成寺にお参りをして、今回もここへ来れたことに感謝。 その後、蘭丸らの母の眠る常照寺にもお参りをした。
森一族のお墓お参りが終わってから本日のイベント蘭丸武者行列の参加者の皆さんが着付け準備している会場に顔を出してみた。 するとすでに着付け会場の表玄関のところに安土城のキャラ「らんまる君」がいた。 私にとっては初めての「らんまる君」である。 わーっ!と、歓喜もあらわに近づいていくと、らんまる君は両手を広げて受け止めてくれた。 高さ的に私は、らんまる君の頭部をぎゅっと抱きしめることになる。 かわいい。 実際に会うとものすごく可愛いじゃないか。 本能的に、らんまる君の中の人が外界を見る目の穴がどこについているのか探す。 わからないので「どこから見てるの?」と、らんまる君に質問すれば、ここ、と、可愛らしく目の部分を指さされた。
今回、武者行列の森可成役には私がいつもお世話になっているお城仲間の「しん様さん[URL]」が任命された。 石田三成を宇宙一愛する男(仮称)しん様さんだが、知り合って以来、みんなで一緒に各地の多くの森家史跡に足を運んだ。それできっとしん様さんも森家に魅了されての応募であったのだろう。 地球上の全生命体の憧れである森可成役に輝けるとは何という幸運だろうか。 さらに、しん様さんの勇姿を撮影するということで、共通の知り合いのお城仲間さんズもやって来ていた。 …そしてなぜか、らんまる君としん様さんが並んで報道陣?にインタビューされていた。 Σ(*゜□゜* そこへ、また新たな不思議な影が一つ。 可児市のゆるキャラ「バラんまるくん」である。 バラ+ライオンキャラでありながら、森蘭丸を尊敬してやまない設定のキャラという。特技は九九。 正午に至って蘭丸亭(食事処)前からいよいよ武者行列の出陣である。 いつも兼山のイベントごとに再会するメンバー達とも再会。
出陣式待ちの時に蘭丸亭のトタン屋根の下で森家ファミリーが腰かけていた。 非常に長くトンがった前立つきの釘形(くぎなり)兜(イカ形兜じゃないよ)をかぶった可成役のしん様さんが、そのまま立ち上がってトタン屋根にブスーッ!ズブズブ!!とやって、前立に請求書を貼られないか皆で心配していた。 トタン屋根は無事にクリアしたが、 木曽馬の鞍(毛布つき)の位置調整で、出発はしん様さんの出待ちとなった。 今年も天気がよく、着物と甲冑を着込んだ参加者の皆様にとっては炎天下の大変な行軍となった。 ※若獅子蘭丸武者行列の詳細は、鶴丸様のサイト若獅子蘭丸2011をご覧ください。
行列途中に開催されるいつもの寸劇から岐阜のゆるきゃら「のぶさま。」も参加。 兼山の町にゆるキャラ3匹。 ゆるキャラ界でも兼山は有名な場所なのか? 果たして、ゆるキャラ界に一体何が起こっているのだろうか?!
一方、私は森家スキーの友達の子どもに「ポケモン」ごっこをしろと翻弄されていたのであった。 知って驚いたが、『ピカチュウ』というのはいまだ健在だったのか。 ピカチュウはもう10年前ぐらいからいるだろう。 あいつも、もはやいい歳になって、ほうれい線もできているだろううに、いまだお子さま世代のヒーローなのか。 さらに友達の子供からお土産にポケモン新キャラ「ママンボウ」のぬいぐるみとフリカケをもらった。 話を武者行列に戻そう。 途中、貴船神社のところで教育委員会の方とも再会でき、金山城の明日について語る。 森家ファミリー同様、もっともっと注目を集めて良いはずの金山城。 私の中では世界遺産になっていいんだけど、世界中から観光客があふれて私がゆっくり登りにくくなるのも困る。 目の前では、"のぶさま。"と"らんまる君"と"バラんまる"がくっついている。 寸劇ではゆるキャラ達が迫真に迫らない演技をみんなに披露してくれた。 一方背後では、友達の子供がポケモンカプセルを見るようにと私をグイグイひっぱってくる…。 兼山の皆様、蘭丸プロジェクツの皆様、兼山を愛してこの地にやってくるいつもの皆様、今年も素敵なお祭りをありがとうございました。 さて、後ろ髪引かれる思いでまたケイさんと2人に戻って兼山を去り、可児市郷土資料館で開催中の特別展「まるわかり金山城」を観に行く。 ケイさんの分も横取りすることにより、特製しおり全2種をコンプリートすることができた。 展示には金山城跡からでてきた瀬戸茶碗をはじめ欲しくなるような発掘品が並ぶ。 近年続けて行われていた発掘調査の成果だ。
その後はレンタカーを返却しに岐阜駅に向かう。 途中で 「いきなりだけど、勝山城(織田信長が美濃攻めの時に攻めた旧・猿喰城)に行きたい!!!」 と私がリクエストして道を逸れるも勝山城跡の下調べもしていないので勝山城のある山も登山口も分からずに道に迷い、夕方を迎えてきたので、やっぱり岐阜駅に向かう。 でもやっぱり途中、携帯GPSゲーム「発見!にっぽんの城めぐり」で田代城(森家の初期の居城・蓮台城のことらしい)を攻略したくなり、そのためだけに岐阜県羽島郡の田代へ車を走らせた。データ城で田代城を攻略したのちに渋滞に巻き込まれつつ岐阜駅に戻り、その上さらに岐阜城をデータ上で攻略するためだけに岐阜城にも車を走らせ、攻略できずに(もしや岐阜城内にまで入らねば攻略できないのか!!!)また岐阜駅に向かう。 無事に駅前でレンタカーを返却して岐阜タワーで夕食をとり、名古屋駅までの移動のために岐阜駅に向かう。 そんな岐阜駅前には新たに黄金の織田信長像が出来ている。 おお、ジパング…黄金の国の光の人よ…。
名古屋駅から新幹線に乗り、今日の旅が終わる。 みなさま、この度の旅もお世話になりました。m(_ _)m |