明智で森あがる旅 

前回行った時に入山禁止看板が立っ
ていた愛と哀しみの明知城

           
 2011年6月4日(土)-5(日) in 美濃 
■地名は「明智」だけど城は「明知城」になってるや… 

本日の旅程
夜行バスで名古屋→JR名古屋駅(ナイスホリデー木曽路)→恵那駅で明智鉄道に乗り換え→明智鉄道・明智駅→千畳敷公園・明智井戸→遠山氏下屋敷→お牧の方の墓→明知城→龍護寺→八王子神社(柿本人麻呂社)→日本大正村役場→バラソーダ飲んだ→明智鉄道・明智駅→JR恵那駅大井宿→JR多治見駅→JR可児駅→(ホテルで荷物置き)→新可児駅→名鉄・明智駅→可成寺→金山城→可児で焼肉
 
 今日は、かつて森家の属城となった岐阜県の明知城にトライする。
城名は何だか嫌だけどね。
 この城へはかつて二度に渡って訪問を試みたものの、初回は入山禁止、二回目は時間の都合でここまでたどり着けずで登城できなかった。
 三回目の今回こそは、リベンジでゆっくりと明知城を堪能するんだ(城名は嫌だけどね)。
そういう思いを胸に秘めて、朝、名古屋に到着してそのままJRナイスホリデー木曽路に乗りこんで恵那駅まで出て、明智鉄道に乗り換えて、終点の明智駅を目指した。しかしなんで、隣に座っているおばちゃんは顔をずっと私に真正面に顔を向けたまま笑顔で座っていたのだろう…。
明智鉄道ののどかな車窓で私にだけ緊張が走る。
恵那駅の明知鉄道
ちっこい車両。岩村城へ行く時もこの列車に乗る。

 たどり着いた明智駅は、思っていたよりはるかにこじんまりとしていている小さな駅だった。
なのに駅前には立派な「明智光秀生誕の地」の石碑があるのは何故なんだ。画像は掲載しない。明智光秀情報は森家を語る上では必要ない情報なので今日はスルーしよう。

 まずは、駅前のスーパーバロー(なんと、もやしが1袋19円)で水と朝ごはんを調達し、徒歩で千畳敷公園を目指した。ここは明智城に付随する落合砦があったらしい。
 千畳敷公園に登り、山頂から遠方に見える明知城跡を眺めた。よい景色ではあるが、公園内には明智光秀産湯の井戸はあるし、私が食事しようと思った木蔭の東屋では学生カップルが愛を語っているし、少々不便な砦である。
千畳敷公園から見た明智城(左)と仲深砦(右)
『岐阜の山城ベスト50を歩く』掲載写真と同じ
アングルで撮影してみた。

 本日は天気がよすぎて午前中もすでに汗だくになっている。
遠山氏下屋敷経由で明智の町を抜け、中馬街道を歩いてお牧の方の(光秀の母) 墓を目指してみる。ああ、地図で見るとお牧の方のお墓は町を抜けてすぐ先にあるように描かれているが、イラストマップ系の地図の描き方にだまされたようで、実際はかなり距離があるようで、不安になるくらいに長々と歩き続けている。そしてようやくたどり着いたお墓の入り口には「敵は本能寺にあり」という石碑が立っていた。む!む!む !聞きづてならぬその言葉!
中馬街道
これより明知城の麓へ延び、信州へ
続く街道
敵は本能寺にあり(お牧の方墓所)
そうなんですか。
お牧の方の墓
明智光秀の母のお墓とのこと。

 ちなみに、石碑の裏の解説をダイジェストで説明すれば「織田信長は光秀公の母親を死に至らしめたすっげー悪人だから、光秀が正義のイカヅチで謀叛したのだ」と書かれ、行間に「光秀は悪くないモン!」がにじみ出ていた。
一節を引用すれば、

「いかに主君といえども、母の仇は不倶戴天の仇」光秀公の心に重い澱の固まりが沈んだ。
光秀の母のこの一件は史実ではないはず。

 お牧の方の墓参りで、計らずもかなり北のほうまで歩いてきてしまった。横に見える山はまさしく明智城の後方にあたる部分。当初の予定では明知城へは大手道のほうから正々堂々と臆することなく登ろうと思っていたのに、今となっては地図にだまされた関係で、城の東側から城に登るほうが近い。
 「光秀学問所」とか書いてある看板に嫌々導かれて明知城へと登った。看板には「御手洗所」とも書いてあったので公衆トイレもあるのかと期待したら、神社のことだった。くぅ!

 明知城は現在きれいに整備されていて、木々をごっそりと切り倒して一目瞭然の風情を醸し出しているので地形がわかりやすい。 さらにその切った木を大量に空堀へ放りこんで埋めているので堀の深さがまったくわからない。この城の見どころって空堀だったと記憶しているのだが、その空堀に材木が入っている。。
 切れの深い道をたどると、その外周にはよくわからないモッコモッコな盛りあがりと溝の連続がある。これを何と呼んでいいのかわからないが、三段腹、四段腹、五段腹とも言うべきか、この城を築いた人は曲輪と畝のモッコモッコが大好きなことはよくわかった。
 明知城は古くは遠山氏の城であったが、戦国には遠山氏は信長の配下となって、天正2(1574)年の時点では坂井越中一族(坂井政尚の一族?)がこの明知城に在城していたことが伺える(『信長公記』)。そして、その坂井一族は近隣の勢力(飯羽間城)に謀叛を起こされて殺害されている。美濃とはいえど信州にも近くなりゆくこの地域は戦国においては武田と織田の勢力に挟まれて「武田につくか、織田につくか、やーん!どうしよう!!!!!」のグレーゾン地域であるので、生き延びることにおいては皆、慎重で狡猾で、それに伴う裏切りや悲劇もザラである。
話は逸れて金山城がそういった東美濃勢力を見張る城でもあったことを思えば、金山城に置かれた森家は織田信長に相当の信頼を誇っていたのである。

明知城跡
出丸、本丸へいたる道
空堀とか堀切がものすごかったのだけど、デジ
カメに収まりきれずにその規模をご紹介できな
い。
出丸の石垣跡
 石垣と言えるほどの石垣は残っていなかった
けど、「猿戻し」と紹介された周囲のガケはすご
かった。
本丸その1

本丸その2
その1を逆から撮影しただけ。

 その後、天正10(1582)年の本能寺の変後に至っては、明知城は東美濃を制圧した森長可の手に落ちた。と、いうことで森長可は当時の城主の遠山氏を明知城から追い出している。小牧長久手の戦いに乗じて遠山氏はいったんこの城を奪い返すも、豊臣秀吉の命で、遠山氏は森家(長可は死んだので後を継いだ森忠政に)明知城を返却している。
と、いうことで明知城は一時期森家の属城となっていたのだ。
江戸期に入って再び遠山氏の城となるまでは、森家のものだったのだのだ。ようやく訪問できて嬉しい。

 大手道から下山し、江戸期の遠山氏の明知陣屋跡を見学する。
帰りの電車までにまだまだ時間があるので(明知鉄道は電車の本数が少ない)、思いつきで遠山家の菩提寺である龍護寺に足を伸ばしてみた。
入口から進んで右手には、鳥居があり「明智光秀公御霊廟(←御霊廟には”おはか” の読みがな)」が存在した。しかも明智光秀公専用の賽銭箱つきである。
明智光秀公御霊廟
北斗の拳で「強敵」を「とも」と呼ぶように
御霊廟を「おはか」と読む。
明智光秀専用賽銭箱
テプラでGO!

 龍護寺では、森長可と同じ時代に生きて森家に翻弄された遠山利景のお墓参りを した。
遠山氏累代の墓所
森長可に明知城を奪われた遠山利景をはじめ
累代の墓が並ぶ。
遠山利景の墓
慶長19(1614)年没
森長可に明知城
を奪われて奪い返したのに森忠政に返
却させられたりした。

 それから隣接する八王子神社に抜けてゆくと、そこには「柿本人麻呂社」があり明智光秀建立とされていた。
八王子神社には明智光秀公手植えの楓もあった。
八王子神社には明智光秀が誕生した時からのめでたい伝統芸能という「明智太鼓」に使う太鼓も展示されていた。

森家の史跡めぐりにきたのに、明智光秀でお腹いっぱいである。
いわゆる私は森家ストーカーなので、森家を観にきたところで「光秀が、光秀が」と言われるのは、イチゴのショートケーキを食べたつもりが、生クリームの中にシャケの切り身が入っていた時のような気持ちになるのだ。

 まだ多少時間が残っているし、光秀マンセーに疲れたので戦国の世とは何も関係のない平和そうで駅にも近い日本大正村役場に飛び込んだら、「光秀公ゆかりの地をたずねて」特別展をやっていて、全国の光秀ゆかりの史跡をパネルで見る事ができて、自分の意志とはまったく裏腹にますます光秀に関する知識を深くした。

 こうして森家ムンムンの明智の地を去った私だが、帰りは恵那駅でJRに乗り換えの時間があったので、ほんの数分、中山道大井宿の街並みを散歩した。この大井も、一時期は森家の領地でもあったゆえ、何かとゆかりのある土地だ。森長可が本能寺の変後に川中島を放棄して帰途に着き、道中の長可暗殺計画をくぐりぬけた末にたどりついた自領であり、森忠政が家老・各務兵庫元政に蒲生氏郷を接待させたあの、大井である。

居酒屋・大井宿
本物の大井宿場跡に行くまでの時間はなかった
のでこれで

 JR恵那駅からJR可児駅まで乗って、その後、急いでホテルのフロントにキャリーバッグを預けて、いつもお世話になってる愛平さんとホテルフロントで合流して2人で名鉄・新可児駅から兼山に向かった。
兼山の入り口のプラ蘭丸
お花畑にいるみたい。

ああ、兼山は森家一色。(^O^)/
兼山の美しい山河を見るだけでたちどころにして明智光秀が洗い流されてゆくようだ。(^O^)/
 まずは森家の菩提寺・可成寺にお参りした。
そして蚊を払いながら懐かしの金山城跡へ登る。蘭丸プロジェクツ鶴丸さん[URL]とも再会して森家話に花が咲いた。明智光秀の入りこむ余地など微塵もないモリモリとした森家ばっかりな内容である。

 夜は愛平さんと可児で飲みながら焼き肉三昧で森家を語った。
卓上の炭火焼コンロの火力が強いと店の人に言えば、大将が焼き網にを乗せて「これで火がおさまります。」と斬新なことをしてくれた。
お腹いっぱいに肉を食べて、ほろ酔い気分でホテルに帰っると、フロントにその焼き肉屋の割引券があるのを私は見た。
■ あんなところに石垣発見、蘭丸供養祭
 
 九州では「ナフコ」と言えばホームセンターに決まっている。ナイスディ♪ナフコ♪(゜e゜)
 愛知県にも同じ鳥2羽のロゴのまさにナフコのお店があったのに、団地猫さんが「ナフコは生鮮スーパーだよ。」と言う。
材木が置いてあるのがナフコだろう?私はお風呂用品やトイレカバーもナフコで買ったぞ。なのに一体どういうことなのだろうか…。
 これから起こる出来事を、時系列も無視して語ってしまった。 
ナフコの謎はもはや誰にも解決できないので置いといて、今日は今回の旅の最大の目的の蘭丸供養祭の開催日である。
 
本日の旅程
兼山湊→金山城→可成寺→生き生きプラザ→インディアンスパゲッチー→犬山城→専念寺→鵜沼城→青塚砦
 
 愛平さんと早起きして始発列車で兼山に到着し、兼山湊で木曽川の流れに涼みつつ朝ごはんをすませ、金山城跡へ登る。

案内地図
断崖絶壁な図柄の金山城跡。

 さぁ、金山城本丸に登りつめれば、そこには早朝の爽やかな風が…と、言いたいところだが、早朝にしてはや沢山の蚊が寄ってくるのでデジカメを振り回して機敏な動きをして避けるしかない。
復路は、一昼夜にして築城されたばかりのクモの巣を破壊しながら下山した。

金山城本丸の石垣 金山城の虎口(手前)
金山城本丸跡
奥の建物は烏龍神社の拝殿。
金山城の搦手

 無事に麓まで下山し、供養祭の会場である可成寺に入っていったん森家の菩提に手を合わせてから、生き生きプラザに行く。
生き生きプラザでは蘭丸絵はがき展が開催中だったので鑑賞。私も2作品送らせていただいた。今年は地震のこともあって大々的なPRができずに作品数が少なかったそうだけれど、力作ぞろいで思わず微笑んでしまう。やっぱり森家は愛されている。(^_^)
同じ生き生きプラザ内では金山城の発掘情報と発掘品の展示(撮影禁止)もあったので、発掘品の瓦や皿を目を皿のようにして見学した。発掘作業をしていて森家が使っただろう物を掘りあてたら、どんなに幸せであろう。そんなことができる発掘作業員を羨ましいと思いつつ、私もこんな感動にめぐり会いたいと思いつつ、発掘品にかじりつく。
蘭丸絵はがき展
鶴丸様のサイトで全作品をご覧になれます。
蘭丸絵はがき展
今年はボールペン画にしてみた。

鑑賞が終わったところで、さりげなく汗をふいて化粧直しをして、再び可成寺へ赴く。

 毎回顔を合わせる団地猫さん、Kijokazuさん[URL]、やっさんさんともここで再会。
半年ぶりにあった皆との話題はやはり3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震になり、お互いの家族や周辺の無事などを確認した。こうして私たちがいつもの事として兼山の供養祭に参加できて、いつものメンバーと会える事も、本当に幸いな事なのだろう。今も東北では、とてもそのような状況でない方々もいらっしゃるのだから。

 蘭丸供養祭は兼山烏峰太鼓に始まり、読経・焼香、筑前琵琶の奉納演奏、可児市教育委員会文化振興課による歴史講話「第5次金山城跡発掘調査報告」があった。実際に発掘にあたり、当時の金山城の様相を探り当てようと、山中の水の手をくだり、道のつかぬ藪を散策なさった講師様のシビれる話は格別だった。
 
歴史講話「第5次金山城跡発掘調査報告ダイジェスト

三の丸:虎口部分は岩盤を加工している。精錬・鍛造に関する遺物の発掘あり。
東部曲輪:盛土から礎石が出てきた。森長可・忠政の時代に建物の建て替えがあったのか。また、赤く焼けた瓦や茶碗の出土があり、火災があったかも。
東部曲輪南:門があった痕跡といえる礎石や瓦が出土した。河原石が敷き詰められ、南腰曲輪から続く通路があったと思われる。
東部曲輪南東:小さな平坦面で瓦の破片が大量に出土した(何かの足と思える飾瓦もここから出土。)さらには五三桐紋が入った軒平瓦が出土した。五三桐は森忠政が秀吉から賜った紋なので、忠政が改修をしたといえる。
伝・左近屋敷跡:積極的に岩盤の加工をしていたのがわかる。土塁は斎藤正義の時代に造られたものではないか。福井県の一部でしかとれない笏谷石(しゃくだにいし)が出てきた。
出丸:小牧長久手あたりに造成されたのではないか。礎石を使った建物があり、細野左近屋敷とは作った時代が違う。

可児市のサイトには詳細な発掘調査報告書があります。
外部リンク 「国指定に向けた金山城跡の発掘調査報告(可児市サイト)」(

 さらに、講話で知った話によれば、私の知らなかった場所に金山城跡のものと思われる石垣が残っているらしい。
愛宕神社のところにそれがあるらしい。兼山の愛宕神社は小祠と表現していいような小さな社で、森家とは関係なさそうで私も訪問することはなかったが、やはり、一見関係ないと見えるものにでも興味をもって見てみねば、せっかくの貴重な発見ができなくなってしまうのだと思い知らされた。

可成寺の「蘭丸祭」のぼり 可成寺
可成寺の森家三兄弟の墓 金山城から発掘された五三桐紋瓦の断片
掲載許可をいただいております。

 生き生きプラザに戻って資料館勤めの師匠に再会しつつ
「愛宕神社どこですカッ?!愛宕神社ってあの階段のことですよね?ね?あそこですよね?」
と質問しまくり、「愛宕神社に行ってきます!」と、愛宕神社にいたる階段を登って行った。
その階段の途中、1UPキノコが住んでいるような狭いスペースにその石垣が顔をのぞかせていた。
階段の柵を越えて横移動して、カニ歩きで石垣を眺める。なるほど。刑事の勘であるが、これはまさしく金山城の石垣っぽい!!!!!いっぽう愛宕神社を造成する石垣はそれっぽくなかった。
愛宕神社へ続く階段
愛宕神社に登る階段途中にチラリ
ムッ!
石垣
恐らくこの石垣が教育委員会のおっしゃった金
山城のものと思われる石垣
 
 その時の私の大興奮は察してください…。
石垣にしがみついて残り時間を過ごしたいものの、お腹がすいたので兼山を抜けたところにある喫茶店にてみんなで昼ごはんにした。

午後はまた史跡めぐりに戻る。

 兼山をあとにして皆で久々に国宝・犬山城に登ることにした。
ここだけ切り取れば一般的な観光コースともいえるが犬山城には格別の思い入れがある。金山城の廃材をいかだに組んで木曽川に流して犬山城に使われたという話は、江戸時代の資料のいくつかに載っている。それは近年の調査で否定されたが、いにしえの人々が何の根拠もなしにいくつもの文献にそんな話を書く必要性もないだろう、と私は思う。必ず何かあるはずだ。よって犬山城は金山城の一部である。
 私たちが到着したのは、犬山城の閉城時間ギリギリだったので、流れ作業で内部を見学した。
『アナタ達ガ最後ノキャクデス。』というスタッフオーラをひしひしと感じて、そそくさと門外に出た。我々が城を出たそのとたんに門を閉じられたが、お蔭さまで門を閉めた犬山城の撮影ができた。
国宝・犬山城
誰も映りこんでいない犬山城画像。

犬山城からの風景
木曽川の流れを鳥瞰することができる。
画像の橋の左側の丘が鵜沼城のあった場所。
 
 犬山城を去り、そのまま徒歩で犬山城下の専念寺にお参りした。
犬山城が一時期、.池田恒興(森長可の岳父)のものになっていた関係で、城下には池田家の菩提寺があり、境内には池田恒興(信輝)の墓がある。池田恒興は森長可の岳父だから、お参りすべしとずっと思っていたので、それが実現して嬉しい。

 で、なぜなのか、よくわからないけど境内には 同じ文字が刻まれた石碑2つあった。どっちも新しい気がするが、これが池田恒興のお墓ということでよいのだろうか?石碑と呼びとどめておくべきものなのだろうか…。とりあえず、2つある。森家のことなら由来や根拠を徹底的に調べるが、池田家ということでそれなりに納得して拝観した。
なお、この専念寺の開山は池田恒興の叔父に当たる人とのこと。
一部山 専念寺
池田家の菩提寺

石碑(画像右のとがった感じの石)
「當山開基池田紀伊守勝入齊信輝公之碑」
と刻まれていた。
石碑
こちらにも「當山開基池田紀伊守勝入
齊信輝公之碑」と刻まれていた。
 
 そして、犬山といえば「鵜沼城」が話題に登った。
一時期、池田家も入った鵜沼城である。そういうことで鵜沼城に行きたいのだが、今はある事情があってその縄張りに足を踏み入れる事ができないという。とりあえず犬山城から鳥瞰図でその鵜沼城があったという岩山をチェックできたが、どうしても行きたくて 、Kijokazuさんの「鵜沼城に入るのは無理ですよ。」「車を停められそうな場所がないし。」というアドバイスにも「とにかく行ってみれば何とかなるかもしれない!」と車2台を発車させて鵜沼城のそばまで行ったが、背後は木曽川、で陸地と接する部分は私有地にとりこまれていて本当に何ともならなかった。
鵜沼城残念!!!
ここで、車上のままでKijokazuさん、やっさんさんチームとはあっさり解散。
おつき合いくださり、ありがとうございました~(^O^)/
 
 残る愛平さんと団地猫さんと私は、3人、青塚古墳(青塚砦)で今流行りの女子会をした
 ちなみに、小牧長久手の戦いの決戦にいたる前に、犬山から進軍した森長可はこの青塚古墳の上に砦を築いた。あのテッペンに森長可が仁王立ちしていたことを想像するにつけ、ああ、私たちも上に登りたくてたまらないのだが、麓にある看板『墳丘に登らないでください。ご先祖さまのお墓です。』が私たちの行く手を阻む。
 権力には負けられない。3人寄れば文殊の知恵で青塚古墳(青塚砦)に登る正統で華麗な方法を色々と考えた。
青塚古墳
一番上の盛り上がりは森長可の造成である。
青塚古墳
森家の陣がおかれた古墳である。

・ヘリコプターでバリバリと上空から古墳のテッペンに下りていけば「墳丘に登る」には当たらない。
・墓守として鎌を持って清掃しながら墳丘に登れば咎められまい。
・卑弥呼の格好をして「巫女です」と云い張って、ちょっと残念な人を演じながら墳丘に登ってテッペンで神聖な儀式を執り行う。

 しかし、どんなに作戦を練ろうが、みんな真面目な性格だし、ファラオの呪いが怖いので実際には古墳の上に登る事ができないのであった。
そうしているうちに、また、食事する時間もなくなって団地猫さんの運転でJR駅に急いでもらって慌てて名古屋に戻る。
でも、前回まではいつも重いキャリーバッグをかついで階段をダッシュで上り下りしていたJR勝川駅が、この度、最新化していてどうつき進めばよいのか対応できずに困惑。

また、今回も名古屋駅からバタバタと福岡行き夜行バスに飛び乗ることとあいなった。
皆さま、どうもお世話になりました。
やっぱり何はなくとも、森家ですよね。
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 おまけiPhoneアプリ「Photosynth」で挑んだ、金山城本丸でぐるんと一周パノラマ撮影。