信濃のソバより森家のそば紀行 

馬で城には入れません。
in牧之島城

           
 2011年4/8(金)-4/10(日) in 愛知・長野 
■4月8日 信州まで森家を追ってイナゴ食

 夜行バスで往復し、そして宿で2泊するという4泊5日の福岡から長野までの旅。
まわりは、それを「いや、実質2泊5日の旅でしょ?」と呼ぶ。
 予算は3万円程度…相変わらず、貧しいな、我。
今回は、お城仲間のケイさんがこの果敢な長野の旅に加わってくれ、4月7日(木)の夜行バスで天神から名古屋に向かった。
この日を振り返って、のちに、ケイさんはこう語る。「やっぱり…夜行バスはダメだ…」

本日の旅程
名古屋駅→名古屋城ピンポンダッシュ→武蔵塚→松本城→井川城→イナゴ煮

  夜行バスで朝、名古屋駅着。
同行のケイさんが、ケータイGPSゲーム「発見!ニッポン城めぐり」で「名古屋城を攻略したい。別に城の中には入らなくていいから。」と、言うので、形のないものに自己満足を得るためにわざわざお金を払って地下鉄で名古屋城前まで行って、ケータイ「城攻めボタン」をピコッと押して
「名古屋城を攻略しました。この地点は完全に平定されました。」
と画面が出たのを確認して名古屋城ピンポンダッシュ終了。

名古屋城のお堀
尾張の城はいま花盛りなり。

 その後は本日のメインイベントである長久手古戦場に行き、武蔵塚(森蘭丸の兄・森長可の死地にある塚)を1年ぶりくらいにお参りした。
 明日の4月9日が森武蔵守長可公のご命日。
明日は日本全国から森長可を慕う人々が大勢(推定60万人くらい)お参りに来ることだろう。
武蔵塚(画像奥) 
森長可の死地に建立された塚。
武蔵塚と桜
淡いピンクの海の下

 それから名古屋駅に戻り、しなの9号で一気に松本へ到着。
森長可もお泊りした松本!人質を返した松本!(^O^)/

 宿に荷物を預けて早速、松本城へ。
松本城の前身は「深志城」らしく、その深志城とは森長可も少々関係がある。
 信濃攻めの時に、鳥居峠で織田・木曽軍に敗れた武田方が深志城に撤退しているところを、長可が攻めているのだ(『森家先代実録』)。
 しかし、深志城はその後、バージョンアップしすぎていらんこと松本城に進化してしまい、その当時の面影なんて全く分からないじゃないか。
要らない。松本城は要らないから、戦国ロマンの深志城を見せて!!
 松本城 内堀バージョン
どんなに狙っても白鳥が水面から首を出してくれ
なかった。

 松本城 本丸御殿バージョン

 


 松本城を見終えたけど、松本でのその後の予定なし。いや、「その後の森家予定なし」、と言うべきだろう。 
 夕方にさしかかり時間が中途半端になっているので、その時間で他に見るものが思いつかない。城はないのか、城は。森家史跡があれば、からみついてゆくのに松本で思いつく森家史跡がない。
 松本に犬甘城(森家は関係ないと思う)というスイートな城があるらしいが、どうやって行けばいいか判らないので松本城の近くにある観光案内所に寄って相談すると、犬甘城まで行く公共の乗り物がないらしく断念。森家があまり関係ないと諦めも早くて潔い。
 かくなる上は中心街を散策するしかないか…でも、本当にどこ行けばいいのか分からない。森家が関わらないと松本の右も左も分からないか弱い人間となる。
思い余って案内所の人に「この辺に何かいい城ありませんか?」と聴いたら
「松本城。」と回答いただいた。

 結局、お城仲間さんが地図で見つけた中世の「井川城」とかいう森家に関係ないものに向かって延々と歩いた。強風で歩くのも大変な状態。
井川城跡
森家は関係ない昔の城跡みたいです。
 
 夜は郷土料理も出してくれるお店を見つけて入ってみる。
なんか野鳥ぽいのをいくつか食べたけど、ジューシーさがなく肉が固い。
ついには、ケイさんが「イナゴ煮ください。」
イナゴの煮たやつ
5匹くらいの命

 イナゴ煮は以前、北陸に行った会社の人が、みんなのお土産にと量り売りで買ってきてくれたことがあるので私は食べ慣れている。最初はビビっていたが、食べ慣れると「あ、イナゴの足が歯に挟まった。」と余裕である。
今日のイナゴも一緒にポリポリと食べた。
〆は信濃の本場のお蕎麦。(^O^)/
でも、信州信濃の新そばよりも、わたしゃ森家のそばがいい
■ 4月9日 真田の六連銭…「むつれんせん」と読むのだそうです。

本日の旅程 (森家に関係あるのは太字で表現)
牧ノ島城→川中島古戦場→典厩寺→山本勘助の墓→槍研ぎの池供養塔鳥打峠松代城真田宝物館→松代象山地下壕→荒砥城→板垣信方墓→丸子城伊勢崎城→真田氏発祥の地→信綱禅寺→信綱禅寺歴史の丘→真田氏本城跡→真田幸村公像

 松本の宿で朝&森長可公ご命日を迎え、早朝6:30より行動開始。
 長野在住のお城仲間Tさんが車に乗せてくださり、一路、北上!私は後部座席でゆったり~。
朝はあいにくの雨模様ながらも、それゆえに長野の山々の霧がかる様が美しい。

 朝一番は、森家が信州に入って家臣を置いた牧之島城へ。
そもそもは武田信玄が馬場信房に築かせた城で、特徴的な三日月堀と丸馬出が迎えてくれる。堀切や土塁も残っていて、城好き2人+城好き(森家関係に限る)1人がバラバラに思い思いの場所を散策して、朝から「いいお城を見た」感を満喫。
なんか森家も手を加えてくれているような予感がする。
牧之島城
三日月堀。丸馬出から橋を渡って城の中に入った。
牧之島城
三日月堀。現地で見るとその形がとてもよく判る。

 今回、初めて長野を訪問するケイさんのリクエストで武田・真田関係も回ることになっている。まぁ、両者とも森家が華麗に戦ったことのある相手なので森家関係と言えなくもない。
まずは川中島の合戦で名高い八幡原古戦場で武田信玄と上杉謙信が戦う姿をウォッチ。
信玄と謙信の一騎打ち
信玄:「これ、飲み代の請求書です。」
謙信:「ビール1本で6万円も払えるかぁ!」
古戦場で燃えあがるプラ板の炎
二人は一晩で恋に落ちた。
メラメラ~ッ!!!!

 川中島の戦いで戦死した武田信繁の菩提を弔う典厩寺にもお参り。いつぞやの大河の影響でPR看板の激しい山本勘助の巨大な墓をお参りして、ようやく森家史跡に返り咲く。

典厩寺の武田信繁の墓 山本勘助の墓

 今回、特に私が希望して訪問したのは森忠政(蘭丸の末弟)の関係する槍研ぎの池鳥打峠(刑場跡含む)だ。
 森忠政が川中島を領していた時分、その圧政に反抗した百姓ら300余りの人々(出典によって人数がバラバラ)を”鳥打山より寺尾のはずれまでにおいて”磔にかけたという場所と、その時に忠政が使っていた槍を研いだという池だ。
 その槍研ぎの池は今は田畑と化して跡形もなく、水分もなく、看板も何もなかった。
 続いて登った鳥打峠の入り口には、供養碑も兼ねているらしい道しるべがあって、この石があるところが松代藩時代の刑場があったあたりと教わった。なお、森忠政以前からここは刑場であったそうだ。

槍研ぎの池があった場所
畑になってた。
ちなみに振り返れば葬儀場。
 鳥打峠に至る道と供養塔(左の石)
忠政以前から松代藩時代まで刑場だった場所。
道しるべ(兼 供養塔)
文化10年に造られたもので、供養塔を兼ねた道しるべらしい。
「右川田駅道/中柴弥陀道/左善光寺道」
「武田典厩墓杵淵村典厩寺在/山本道鬼墓柴村阿弥陀堂在」

森忠政じゃなく、川中島合戦関係の供養塔ぽい。
鳥打峠(刑場跡)
峠の道の途中には、『文政八年乙酉年十一月十三日』『南無妙法蓮華経』という文字の刻まれたお題目の碑が建つ。


  松代から取り寄せていた資料にはこうあった。

 『関ケ原合戦の直前に海津城に入った森忠政は、右近竿と呼ばれた厳しい検地で法外な課税をするなど仮借ない圧政を行って農民一揆を誘発。中心人物三人をこの鳥打峠で磔の刑にし、その他にも数百人の首をはねたといわれる。また、信長の家臣として海津城にいた兄の長可が、信長急死で引き上げる際に土豪の一揆に追われており、その復讐のための磔だったともいわれる。蓮乗寺の住職によって建てられた、このお題目の碑は、それら犠牲者たちの菩提を今も弔い続けている。』(『ボランティアガイドのすすめる松代みて歩き』より引用)

 こう書かれると、「お題目の碑」は森忠政が処刑した人の霊を弔うために特化して建てられたと読みとれるよね?私だけじゃないよね?
けれど石に刻まれた漢文を読んでみても、森家の文字はなく、森忠政の事とか年代とか、一向にそんな内容は読みとれない。真田時代にも刑場だった場所なので、どっちかというとそっち関係の慰霊碑じゃないのか(後でじっくり読もうとして彫られた文字を撮影してたのに写りが悪くて文字に起こせませんでした。どなたかご存知でしたらご教示ください。)とか考えたりしている。
広義では、森忠政の処刑も含まれているのかもしれないけど…。
 本について「忠政だけ悪者に書いてひどい!」と言う私の横で「長野の人が森忠政のせいにしたがる気持ちはよくわかる。」「森忠政は評判よくないので。」とおっしゃるTさん(長野県民)、このあと同じ発言を数回繰り返される。
Σ(T□T;ガフ!!!
 確かに兄・森長可の統治時代の因縁から、信州の領民と忠政は”お前も俺を嫌っているだろうが、俺もお前が嫌いだ”という関係が続いて、忠政が美作に所領をもらって出て行く時ですら、領民に命を狙われている。

 そしていよいよ次は森長可・森忠政が主な城主だった(当社比)松代城へ向かった。
曇りで遠くの雪山が見えないのが残念ながら、また機会を設けてこうして訪問できて嬉しい限り。
DSCF8459.jpg
松代城
海津城を忠政が「待城」と改めて今の「松代」の元になった。
松代城・戊亥隅櫓
ここに登れば信州の山々を障害なく眺める事ができる。
松代城・埋門
土塁と一体化した埋門は、有事には埋められて敵の通行を遮断する。
松代城・戊亥隅櫓から撮影
北不明門方面。

平城は撮影しにくい…
松代城、「海津城址之碑」
松代城の前身である海津城の址を示す石碑なわけですが、写りが悪くてスミマセン(汗)

 続いて、また森家に関係ない場所になるが、松代象山地下壕に行った。せっかくなのでこれも掲載しておくなり。
 ここは太平洋戦争末期に、極秘に掘られた地下壕(大本営を松代に移す計画で本土決戦最後の拠点として造られた)で、山の中を碁盤のように掘り抜いている。
 現在はその一部を見る事ができ、ヘルメットをかぶって中に入った。地下壕は閉所恐怖症の人と面堂終太郎にはたまらない場所だろう。縦横無尽という表現を使いたくなるほどの地下壕のすごさに圧倒される。

松代象山地下壕
コウモリにも遭遇した。
松代象山地下壕
こんな横穴が延々と続く。

 その後、また森家に直接関係ない荒砥城を、Tさんのお薦めで見学。
ここは戦国風味の櫓などの様子が再現され、大河『江』のロケにも使われたものらしい。「戦国ぐるぐる」と命名したくなるような直線のない城内だった。明日登る予定の葛尾城が遠望できる。

荒砥城
昔のままを再現したよな、あんまり金持ちじゃなさそうな雰囲気が嬉しい。
荒砥城
ここ、なんかドラマで見覚えが!!!

荒砥城
戦国ぐるぐる。
あの櫓も『江』で浅井夫妻が登ってたなぁ。
葛尾城荒砥城より撮影)のある山
明日、登る予定にしている城跡があの山にある。


その後、迷いながら武田信玄の家臣、板垣信方墓をお参り。
板垣信方墓
墓よりもなおでかい賽銭箱が何気に気になる。

そして再び森家史跡にカムバーック!!
『森家先代実録』の森忠政の部分にも載っているので行きたかった真田の城を2城続けて登った。丸子城伊勢崎城だ。

■『(慶長五年)然て真田安房守插逆臣、従上州犬伏之町引返シ、信濃国小県郡、伊勢崎之城楯籠之由、達上聞之条火急可討果旨被立検使、是則不捨両葉用斧柯謂歟、御供衆 森右近大夫、真田伊豆守、仙石越前守、榊原式部大夫、大久保相模守、酒井右兵衛大夫、日根野筑後守、石川玄蕃頭、本多佐渡守 都合三万八千七拾騎』
(『森家先代実録』
※上田城を「伊勢崎城」とも言うようで、この場合は上田城を指すのかも知れない。

■『同年(慶長五年)八月十九日、信州上田鞠子城真田安房守昌幸、息左衛門昌尚、石田三成組し天下対し野心ヲ插ミ楯籠るの由上聞達し、新将軍黄門源秀忠公信州表へ御進発、御供衆中ハ、森忠政(信州川中島城主)、石川玄蕃頭三長(同国松本城主)、仙石越前守秀久(同国古諸城主)、日根野織部正高吉(同国諏訪城主)、榊原式部太輔康政(上野館林城主)、大久保相模守忠隣(相州小田原城主)、本多佐渡守正信、真田伊豆守信之、酒井兵衛大夫等、都合三万八千七拾騎也』
(『森家先代実録』※上田城のことと思える部分を「鞠子城」とか「鞠子の町」と書いているので解釈に疑問が残る。
 

 上田市の山城・丸子城(鞠子城)へ登る。
看板の説明によれば天正13(1585)年にも真田軍と徳川軍が戦ったことがあるらしい。なお、森家がらみで言えば慶長5(1600)年の関ケ原の合戦の折も、徳川軍は真田の上田城攻めがうまくいかなかった腹いせ(笑?)に真田方の丸子城も攻めているらしい。それもうまくいかなかったようだが…。
 丸子城へ登ろうと登山道にさしかかると、犬の散歩している人が道もないガケを犬ごと直登していて驚かされる。実際の合戦の折も直登人間がたくさんいたことだろう。

丸子城(鞠子城)
天正13(1585)年の真田VS徳川軍の丸子表の戦いの舞台。二の郭から主郭へ至る道を見下ろす。
丸子城の縄張図
堀切などものこっていて、わかりやすかった。

 続いて、上田市内の伊勢崎城へ登る。
この城のある山は虚空蔵山というので、別名で「虚空蔵山城」とも他のサイトで呼ばれていた。今回、伊勢崎城は資料不足で私も不勉強なまま現地に来てしまった…。
 『森家先代実録』に「伊勢崎城」と書いてあったから、伊勢崎城を探すと見事ここにヒットして登ってみてしまった訳だが、実際にきてみると、その山の山頂に立っても城らしき遺構もよく分からない。城跡なんかない…。看板も何もない。石積みのようなものがあったので、他のメンバーに尋ねても、「時代が新しい石のような気がする。」とのことで、ここの城らしさがどこにあるかよく分からない。敢えて言うなら山頂は郭のようではあるが、実は登る山を間違ったんじゃないのかと不安になる。偶然に出会ったジモティに「伊勢崎城はここ。」とうなづいてもらえたので「ここでいいんだ。」と納得した次第。
 徳川軍の上田城攻めの時は、真田幸村がここに籠ったという言い伝えもあるようだが、上田城そのものを「伊勢崎城」と称することもあるらしいので、『森家先代実録』にあった「伊勢崎城」は素直に「上田城」のことなのだろう。

伊勢崎城(別名:虚空蔵山城
ここも真田の支城で画像が主郭あたりのはずだ
けど、看板も石碑も見当たらなかった。

 そして再び森家じゃない史跡を見て回る。
真田氏発祥の地信綱禅寺信綱禅寺歴史の丘真田氏本城跡

真田氏発祥の地
真田ファンウェルカムのミニコーナーあり。
信綱禅寺
真田信綱夫妻と信綱の弟の墓
信綱禅寺歴史の丘
どう感想を述べてよいのかわからないゾーンが広
がっていた。
真田氏本城跡


 夕食にはしゃぶしゃぶ食べ放題で肉を食べまくり、明日の最終日への活力を養う。
「なにせ明日は朝早くから90分かけて体力勝負の山城・葛尾城跡に登るのだ!」と、いうことで明日の詳細を再チェックしていると、葛尾城の山頂付近まで車で行ける林道発見。国土地理院の地図に山道が伸びていた。
「じゃ、車で行こう。」と、あっさり明日の日程が楽になる。

 本日最後は、夜の上田駅前に行き、真田幸村公像を高感度で激写。背後にあった時計付きの軍旗は便利そうだ。

上田駅の真田幸村の銅像
高感度撮影でブレた!でも真田だから問題ない!

■ 4月10日 森家を追えば真田がついてくる。
 
本日の旅程 (森家に関係あるのは太字で表現)
村上義清公墓所→葛尾城→鼠宿→上田城→真田氏居館跡→長谷寺(真田昌幸墓)→小諸城→龍岡城→高遠城→名古屋→夜行バス
 本日、旅の最終日。
 朝イチでお城好きさんズ2名と一緒に葛尾城に向かう。標高805mのところにある山城だ。真田の押さえに森忠政がこの城に兵を置いていたというので登ってみることにしたのだ。
葛尾城のある山
山の左側の尾根の平たいのが姫城、次の頂きにあるのが葛尾城。
村上義清の墓
江戸時代に建立された供養塔。


 ケイさんのリクエストで元・葛尾城主の村上義清の墓参りもし、林道を使って葛尾城へ向かって車を走らせる。林道は舗装も無く、5キロほどの長くて狭くて石のゴロゴロした横がガケの不安な道のり。Tさんの運転する車の底にガコン!と石の打ちつける音がするたびに、後部座席で手に汗握る私は「(私が行きたいと言ったばかりに)すみません!どうしよう!」と言葉が出そうになる。
 ようやくたどりついた葛尾城。石垣もあり、デジカメを持つ手も震える険しい堀切あり、切岸あり、本丸あり、村上義清の旗あり。そういう山頂のさまざまな技巧よりもそもそも高度が高すぎて実に攻める気の失せそうな城であった。城の遺構には森家の改修もあるのかな。
期待以上のお城だった。
葛尾城の石積み 葛尾城の石積み
葛尾城の主郭
森家も真田の押えに兵を置いたという葛尾城。
葛尾城のニの郭
山の各所で村上義清ののぼりがはためく。

 続いて、森忠政も従軍した徳川秀忠の上田城攻めの舞台の中心地へ向かう。
 森忠政が関ケ原の後に真田の上田城を見張って軍を出していた「鼠宿」の地(『信州上田軍記』)を通過して「ネズミだ!ネズミ!」騒ぎつつも(車で走っている時に「鼠橋」という橋を見つけて偶然この地がそうだと気付いた)、そのまま車は走り上田城へ。ネズミ~!!!!
善光寺街道の鼠宿があったあたり

 上田城ではちょうど桜祭りをやっていて人が多かった。しかし、桜は咲いていないのであった。(^_^;)100名城スタンプ、ポン♪ 
 慶長5(1600)年の8月の上田城攻めにおいては、森忠政は老臣・各務兵庫元正が病床で子息らに語った真田攻略アドバイス「真田軍が弱弱しく軍を退いても、味方の先手の備えを崩して敵を包囲して討とうとしてはなりませぬ。敵が横に回りこませていた兵から不意に味方が討たれてしまうこともありますから。(セリフが長いので要約)」を聴き入れて、真田が横に兵を回しつつ、前方は弱弱しく退いても、森軍は備えを乱さずに敵をあしらう鉄砲を放ったという。真田の演技を無視して鉄砲パーン♪
上田城
撮影には桜が邪魔かも(^_^;)。
上田城の鬼門除け
角が凹んでいる。
上田城の空堀

 上田城散策の後、(また軸が森家から真田にズレてしまうが)真田氏居館跡を訪問し、長谷寺(真田昌幸のお墓参り)を経て、お次は小諸城に移動。
真田氏居館跡

長谷寺
真田幸隆夫妻と真田昌幸の墓

 徳川秀忠は関ケ原に向かう時に、上田の押さえとして森忠政を小諸城に残してきた。

森忠政、関ケ原の合戦には参加できず。Σ(  ̄ロ ̄lll) ガビーン

 「森さんは残って、真田を封じておいてね。俺ら関ケ原に行ってくる。」と、言われた忠政は大ショックだったろう…天下分け目の関ケ原イベント、それを逃せば自分はどうなるのだろうか。置いてけぼりになった忠政は他の大名達に後れを取るのが心配で心配でたまらなかったうようで、徳川秀忠に「父上にもちゃんと説明しておくので絶対に大丈夫だから。」と言わせるほどにしつこく不安を訴える書状を出している。あるいは、これは徳川の計略で、元は石田三成と仲のよかった森忠政を信州に隔離し、ワザと関ケ原に行かせなかったともいう。

 仙石秀久が築いた小諸城に「穴城」と書いてあったので、また地下壕みたいな体験をするのか、とすさまじく期待したが、穴城というのは「小諸城はお城が城下町より低い場所にあるから。」という、ことだった。ちぇ。
城内の空掘は二度と這いあがれないほど深い絶壁ぶりで、忠政の悔しさがこだましそうだった。

小諸城の看板「仙石秀久が築いた穴城」
現在の小諸城の姿は仙石秀久の改修によるものという。
小諸城大手門
小諸城のチケット売り場からは駐車場や店の建物などで隔たっているせいで、つい見落としがちになるという、大手門。中に入れた。
小諸城の石垣 小諸城空堀

 また森家とも戦国とも仙石とも違う史跡となるが、その後は日本に2つだけある五稜郭のうちの1つ、龍岡五稜郭を見学した。しかし、画像では縄張りのお星様ぶりがわかりづらいかも。
龍岡五稜郭
説明看板にある全体像。
龍岡五稜郭
お星様の先っぽ部分。

 名古屋での夜行バス出発までの時間に少々なりと余裕がある。
そこから賭けに近い状態に転じて「高遠城に行こう!」と車を走らせてもらう。
わざと車のいない道を選んで白樺高原杖突峠を爽快に走り、九州人にはめずらしき雪景色の山越えの連続で高遠城へ着くことができた。停めてもらった駐車場(700円)が、偶然にも「森軍三千」の鉄の のぼりの立つ場所!!この のぼりは織田信忠を総大将とした信州攻めの折に森長可が攻めこんできた場所と言いたいのだと勝手に推定。
本当かよく分からないが、森軍だ!!!(^O^)/
 高遠城も「さくらまつり」があっていた。でも、まだ桜はまるで咲いていないのであった。なのに、「さくらまつり期間につき入城料はいただきます。」とのこと(普段は無料)。
 桜の花もないのにお金を払いたがる人がいないようで、入口から覗きこむ城内はガラガラだった。
「お金がいるなら、別にいい。」と、お城好きさんズも言うので100名城スタンプだけもらって、中には入らなかった。何のための山越え走行劇だったのだろう。(^_^;)
 その替わりに城の外回りをぐるりと散歩した。
「このガケから直登すれば、無料で高藤城内にもぐりこめるかも!」と期待できる場所もあったが、備えの堅い警備員たちに槍で刺されるかも知れないのでやめておく。
高遠城有料駐車場
のぼりには「森軍三千」とある。
森軍三千
信州攻めの頃の森長可は輝いていた。
 高遠城の空堀
有料期間だったので城内には入らず、周囲の空堀だけ満喫。
高遠城の空堀



 長野のお城好きさんが親切に岐阜県の中津川駅まで送ってくださり、ドライブスルーで買ったハンバーガーを列車で食べながら名古屋へ向かう。
そうして無事に夜行バスに乗ったのだった。

やはり地元の方が一緒だと、他所の人間が知らない事も判り、旅程もスムーズで時間配分も正確でたいそう心強かった。
なんというありがたい日々。(^O^)/
と、言う訳でこのたびも無事に森家の旅を終えたのだった。

 よくよく見直すと、森忠政、真田にからみまくってるじゃないか
真田を押えて、からんで、睨んで、乗りこめなかった関ケ原。
でも、その後、美作国の国主になれた。
信州の美しき山々

 また森長可と森忠政を追って信州を旅することができ、新しい史跡もたくさんめぐれて、充実した旅となった。ひとえに車を出してくださり、各所をご案内くださった長野県民Tさんに感謝。
ご一緒くださったケイさんに感謝。
森家がらみの史跡は、私がまだ知らぬものも含めてまだまだ多いだろう。
また森家目的で信州の地を踏む日が待ち遠しい。
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