「武士のもりぶん」ツアー 

津山城情報  ベビースター津山ホルモンうどん

           
 2011年3/19(土)-3/21(月) in 津山・鳥取 
■ 3月19日(土) 岩屋城に休憩しに登る

本日の旅程
美作岩屋城→飲み

 いくつかの野望を胸に秘め、マイカーに乗って気軽に津山に行ってみた。

 初日の今日は、お城仲間ケイさんの陰謀で遅い出発になったので、夕方に到着。それでも、美作岩屋城のみ登ってみた。
 「岩屋城夢の広場」というのをてっきり城の駐車場と勘違いしてゲートボール場に乗りこんで車を停めて近隣の別の山に登ってしまい、現代墓地にたどり着いて時間をロスした。ただでさえ、夕方というのに。(/_;)

 しばらくして本物の岩屋城を発見。夕方4時半くらいからストックを片手に登り始めた。
登るのだけで片道40分の坂道なり。
 序盤の石段200段ほどで心が折れそうになった。それでも、登り続けていけば山頂付近の岩屋城の遺構はすごくて、大堀切や畝リズムなどをはじめ、本丸にいたるまで目を見張るものがあって、『久々にお城を見た』、という清々しい気持ちになった。
 しかし、一方で日没は容赦無く近づく。ギリギリを見極めて暗くなりゆく岩屋城を下山した。

岩屋城の登山道
途中に寺院跡などいくつか見どころ
スポットがある。
岩屋城『発砲注意』
これは
再び乱世の予感!Σ(゜□゜;
岩屋城
詳細忘れた…。
岩屋城
詳細忘れたけど、城の遺構。
岩屋城本丸跡
山名氏築城の岩屋城は、赤松、浦上、
尼子と城主を替え、戦国時代には合戦の
舞台ともなった。
暮れゆく岩屋城の空
はよ下山せなヤバイ!

なぜ、岩屋城に登ったか___。

 ”森忠政が、ゲットした美作国内の検分の時に、この城にも来て岩屋城での合戦の話に耳を傾けたという逸話が残っている”というだけの理由でだけど、なんかこの城は自分が想像しているよりも広大だし、周囲も見どころ満載なのでまたじっくりと登りなおしてみたい。

( ゜□゜ゝ


*森忠政の逸話
 慶長8(1603)年、森忠政公が初めての国内巡視を行った際にこの地を訪れた。
地元では岩屋城の南方鶴坑というところに休憩小屋を設け、地元の豪士・福本助右衛門が忠政公をご案内した。
 小屋に腰を下ろした忠政公は「助右衛門」と声をかけた。助右衛門が佩刀を脱(?)しかけるところ、「そのまま、そのまま」とのご判断で、この度のもてなしを満足と褒め、岩屋城を見上げて「ずいぶん広大な城跡だ。目覚ましい戦はあったのであろうか。」とお尋ねがあった。その時、助右衛門は三十二士(毛利方家臣)の働きを申し上げ「なお当時の者、西尾与九郎、立石五郎右衛門の子がここに控えております。」と申し上げたところ、忠政公より「山城の夜討ちはずいぶん難儀であったか。」というお尋ね。
「山城の夜討ちは仕損じても、堀や溝などへ落ちて不覚をとること鬱キ■覚■しております。」と申し上げたところ、忠政公は面白い話なのでお笑いになった。
 
※管理人注:(↑昭和29年の『津山朝日新聞』に掲載してあった”津山の大庄屋さんの覚書に残る話”として紹介してあった内容・原文をまとめましたが、どうしても新聞の文字がかすれて読めないところは■で割愛。忠政が何に笑ったのか知りたいですね。(^_^;)情報求む!!!

 夕方は津山城近くの宿に車を置いて、津山の知人のゆっきぃさんと、ゆうさんに再会して乾杯した。
津山名物のホルモンを使ったモツ鍋や干し肉やお好み焼きを食べながら「加茂五葉」という地酒を飲んだ。もう、津山城と森家話ばかりしてた。

今日のメインディッシュ

 2次会は去年の夏に行った不思議なお店に再訪。
去年はそのお店に食べ物を持ちこみしてきてそれを食べる感じだったが、今回も不思議なシステム方式であって、テーブルにはお酒とジュースの缶が無造作に並べてあって「それ、飲んでもいーよ。」みたいな感じで食べ物も勝手に出てきて1000円分の飲み食い。(^_^;)。
 ここのところ、他の方々と同様に私も大震災の重いニュースに心を痛めて沈んだまま仕事漬けの毎日だったけど、津山に来て久々に気持ちを切り替えた。
津山城内にある宿で就寝(-".-)

3月20日(日) ピヨピヨ県&ケンケン鍋(゜e゜)

本日の旅程 (森家に関係あるのは太字で表現)
鳥取城→上月城→津山名物ケンケン鍋

 大変だ。
 宿のシャンプーを使って朝起きてみたら、手櫛すら通らぬほど髪がギシギシになってしまった。しかも髪全体がボワンと爆発して頭の上で盛りあがって、鳥の巣があり、どうしてもその形状を変えられない。暇さえあれば頭を押さえつけていた。こんな姿で旅に出るのか。

 旅に同行したケイさんが「津山から案外近い鳥取城に行きたい。」と言うので、今朝は津山から加茂町経由で6号線を抜けて物見峠越えで鳥取に出ようと車を走らせた。
 すると6号線を走る車の周囲の景色がどんどんどんどん田舎になり、雪化粧を始め、だんだん雪深くなり、最終的に道が通行不可能になった。
どうりで他の車は同じ道を走ってこなかった訳だ。途中から自分の車しか走行してなかったもんな…雪事情を知らぬはよそ者ばかりなり。
しかし、通行止めよりも自分の髪型のほうが気がかりである。

もはや自分がどこにいるのか分からないが、
「この先積雪のため 全車通行止」なんて看板が立ってた。

 華々しいタイムロスであったが、気を取り直して53号線との分岐点まで戻って、そこから53号線と無料高速道路を使って鳥取県へ入った。

 100名城スタンプも押せる鳥取城は、池田家(森家の親戚)の城ということもあって期待を膨らませて行った。
城内の売店で池田恒興表紙の池田家図録を発見した時には迷わずに購入!その重い図録をケイさんのカバンに詰めてもらい鳥取城に登った。

鳥取城跡
画像に見える久松山にも遺構がある。
鳥取城跡の石垣
麓のほうの遺構の石垣
鳥取城の石垣
何気なく石垣の中に手水鉢などもあり。


 鳥取城についてよく分かっていなかったけど、麓の遺構の石垣だけでもすごいのに、山頂にまで何かあるらしく(山上ノ丸遺構)、うっかり山城ゾーンにまで足を踏み込んで登ってしまった。これが、自分の足に階段の段差が合っておらず、足を振り上げて登らねばならぬ感じだったので、ものすごくきつかった…。

久松山へ登る登山道
くまに注意しつつ、山頂の遺構を目指す。
久松中坂大権現
池田家の家紋の揚羽蝶
鳥取城の山上ノ丸遺構


 石段が山頂まで延々と続く。今日ばかりは根をあげそうだった。
そんな中で、スタスタと裸足で下山してくる人とすれ違う。修行?!Σ(゜□゜;
どういうことなんだろう…。どうしてなんだろう…。

 その後、ケイさんが「ここから上月城にも案外近い。」というので(知らんがな!)、兵庫県まで行って森家に関係のない、雨の上月城に登って津山に帰った。

上月城
毛利攻めで織田信長もちょっとからんでる城。

 夜の津山では、いつもお世話になっているハナちゃんご夫妻と合流して一緒に「ケンケン鍋」を食べる。ケンケン鍋は私のリクエスト。
 一体誰がそう言ったのか、そしてどこからもたらされた話か謎だが、森忠政が好んだというケンケン鍋。ただ、その理由で食べようとしているケンケン鍋。
ケンケン鍋はなんだろうという疑問もあり、ケンケンというからには上杉謙信入りの鍋かとも予測したが、その正体は『キジ鍋』であった。

ケンケン鍋の具材の肉
キジ肉だそう。中央にある茶色いのは葉っぱ
ではなく粉砕した骨入りの「つみれ」。
ケンケン鍋
日本酒をクイッとやりながらみんなで鍋を
つついた。

 粉砕したキジの骨を混ぜたツミレ肉ダンゴを口にして、コリコリと音を立てながら皆で賞味。
コリコリコリコリコリコリコリコリ…。
コリコリコリコリコリコリコリコリ…。
〆は鍋にお蕎麦を入れて、美味しくいただいた。
よく考えると、キジ肉を口にしたのは初めてかもしれない。

 その後、2次会、3次会と場所を変えて、最終的にはバーに行く。
カプチーノを注文したところ、お店の方が「くまさん」を描いてくれて、ついホッコリ。かわいい♪
「鶴丸紋も作ってください♪」

とお願いしたけど却下された。

■ 3月21日(月) もりぶん!
 
本日の旅程 (森家に関係あるのは太字で表現)
津山城跡関勘解由屋敷(雨天で中止)」→もりぶん→福山城

 恐ろしいことに、ケイさんがデジカメで森忠政公銅像を撮影すると、デジカメが森忠政公の顔をを認証した上で「目をとじていました。」と、アラームを出すそうだ。すごい、しかし、どうしろというのだ。
雨の森忠政公テカテカ像
日本をお救いください、忠政様。

 またホテルのリンスインシャンプーで髪の毛が壮絶なことになっている~!!!
盛りあがって、盛りあがって、カツラと思われるほどのガッポガッポぶり!!!

 しかも、昨日以上に部屋が暑くて暑くて、昨日の夜中も壁じゅうをさぐってエアコンのスイッチを探したけど、セントラルヒーターで私を蒸しているのかとうとうスイッチはみつからず、暑苦しさに咽も渇くし眠れず、結局は部屋の窓を開けて冷風を呼びこみながら寝た。

 で、風邪をひいたのか、部屋の乾燥のせいなのか、のどがおかしい。
今朝は雨天。
でも、予定通りに津山城に詳しいゆっきいさんのご案内で津山城の石垣をつぶさに見てまわり、城内の石に刻まれた刻印の場所をチェックした。

津山城
津山城の宮川の流れるほう
木々がなくなり綺麗になっていた。


 天下普請で他の大名と一緒に普請作業する時には自分とこの石と判るように印をつけるのは意味もわかるが、津山城は珍しくも自城の石にまで刻印がいっぱいあるのだ。
森忠政が複数の石工集団を抱えてその集団ごとが刻印をつけて区別していたのだろう(と、請け売りで書いてみる)。
津山城にはお星様の一筆書き(セーマン)もあるけどこれは別の呪術的な意味合いで彫られたのだろうか。

津山城の石垣にある ☆の刻印

 それにしても、津山城はこのたび鬱蒼とした木々を取り除いて整備したお蔭で遠目にもその石垣の堅固な全容がはっきりとわかる。ますます惚れそうになった。

津山城遠景
石の要塞というにふさわしい。


 お昼は津山ラーメンをご馳走になり、冷えた身体を温めた。
ちなみに、津山ラーメンはとんこつ醤油味だ。
 そのあとは「関勘解由屋敷」と「もりぶん」という場所に出かける予定と話していて、”関勘解由屋敷は雨天に行くにはきつい”とのことで止められた。
 「もりぶん」については『美作国の山城』で知ったが、詳しい場所を知らないので、あてずっぽうに行って情熱で探しだそうとしていたら、結局は、わかりづらそうなので「もりぶん」にもお詳しいMさんに道を教えていただくためにお電話で呼びつけてしまう結果に…。恐縮(^_^;)
 Mさんに「もりぶん」へ行く詳しい地図を書いていただけたので、爆発した髪型でMさんに感謝しつつ、その地図を手がかりにしてそして真庭市久世に行ってきた。

真庭市久世の陣屋「もりぶん」
『美作国の山城』と同じアングルで
撮影してみる。

もりぶんだ!(^O^)/
私有地で立入禁止だから入れなかったけど、Mさんの地図であっさりと発見できた!(^O^)/

で、遅ればせながら「もりぶん」とは何かと言えば、

もりぶん:『久世町誌』は上ケ市の地に「もりぶん」と呼ぶ区画整然とした数枚の畑があり、森忠政の美作入国により遣わされた重臣が陣屋を構え、各地で城地を選定したと記す。(『美作国の山城』より引用)

 でも、現地には看板も何もないので、私はたぶん、なにも無い畑を撮影しまくる変な人である。

 その後は福岡に帰りながら、ケイさんリクエストで森家にはさして関係のない福山城(総社市)に寄って山陽道で帰国した。
 また津山に来ることができて(そして、きっとまたすぐに行くのだろうけど)、新しいことも知ることができました。津山の皆さま、本当にお世話になりました。m(_ _)m

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