ようやく いい時間になったので、本日最大の目標である今西氏屋敷に訪問する。
服部駅下車のち徒歩。
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服部駅にあった臨時看板
新聞文字切り抜きの脅迫状ぽい
素敵なレイアウト。 |
荘園制の時代から同地に春日大社の南郷目代として住んでいる今西氏は、えげつない戦国時代においては大名達と結びつくことによりその地位を死守し、結果、森家とも関係が深くなった。
今西家の「大蔵姫」は、中川家の仲介による森忠政の内室であったとし、立派な肖像画も残っている。
残念なことに私の確認している限りでは森家側の記録にはこの大蔵姫に関する記述はないけど、今西家の名字は森家の資料にも多く見かけ、関係の深さをうかがわせる。
■ 森家と関わりがある(っぽい)今西家の人物(※今西家の系図に基づく。)
■今西春主(社家三十一代):「婦 関小十郎左衛門尉之女」
■今西春一(社家三十四代):式部少輔。天文13年(9月6日)卒。「婦 森武蔵守之女」
※この妻なる人は森武蔵守長可の娘ではないようです。年代的に長可すら生まれてないので無理。
■今西春房(社家三十六代):左京亮。宮内少輔。文禄5年8月16日卒。「婦 美津、明智日向守之女」
■大蔵卿:今西春房の娘。初め、多田四家の山問氏へ嫁ぐ(その時の娘に妙喜と智保がいる)。後に、中川修理太夫秀成の養女として森忠政に再嫁。元和9年9月13日没。
■今西宗英:春房の子息。浅田内蔵允。浅田家の養子となる。後、森忠政に2700石で仕える。寛永6年2月13日卒。
■今西道春:春房の子息。今西掃部介。森忠政に1500石で仕える。慶長の役で森忠政のために先陣の将をつとめる。元和3年8月13日卒。
■今西春住:社家三十八代である春賀の兄弟。桜井三太夫。森忠政に従い慶長の役で戦死。
■今西春勝:社家三十八代である春賀の兄弟。次右衛門。森忠政に200石で仕える。
※それ以降の子孫も引き続き森家にも仕えています。 |
いつもはしっかりと閉ざされた門をくぐる。表札には『今西』の文字が。
私はてっきり今日は屋敷の中まであがれるのだと思いこんでいたけど、今なお屋敷に今西さんがお住まいなので、そこのところは無理のようで屋敷を外側から眺めるのみだった。屋敷の内部の詳細についてはビデオで鑑賞できたのだし、お住まいなのに撮影OKだけでもありがたいと思わねば。
ただ、森度をもうちょっとあげて欲しかった…。
ただ、森度をもうちょっとあげて欲しかった…(※あと3回くりかえし)。
そして敷地の中には春日神社もあった。
さすが春日大社の南郷目代。さらにここを鹿や
せんとくんも走っていればパーフェクトだったが、残念ながらさすがにそれはいない。
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今西氏屋敷の長屋門
屋敷は昔は内堀・外堀で囲まれていた。
現在の門は明治40年までに建てられたもの。 |
南郷春日神社
もともと屋敷地北側の最も高い場所にあったの
が明治に移動(現在は主屋に近い場所にある)。 |
今西家のお宅訪問(外から熱い視線で見つめるだけ)。
敷地の中の一角の土が盛りあがりもあって、もらったパンフの説明にも「土塁跡の可能性があります」とあったけどそこは立ち入り禁止で入れず。
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今西氏主屋
宝永6(1709)年の火災ののちの再建。
近年では、阪神淡路大震災の被害に遭った。 |
今西氏主屋の一室
赤い土壁がステキ。
鑓をかけた部屋もあった。 |
建物そのものは再建だけど、しかしこの構造そのものが昔の名残を伝える貴重なものらしい。
とは言っても、まだまだ見どころのある今西氏屋敷。戦国のなごりを求めてさらに屋敷の周辺を散策した。
15世紀後半に屋敷の周囲にめぐらされた内堀跡は、発掘調査では推定幅10m、深さ2m。
思いっきり防衛しているじゃないか。
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今西氏屋敷内堀跡
草がきれい。 |
向かいの土地も昔は今西氏の敷地だった場所で、なにかちょこまかと見るべきものがある。
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政所跡とされる水田
奥に見える大木には末社の一つがある。
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南郷春日神社末社
ここにある祠は神のお使いの鹿や百狐の墓と
の伝承もある。 |
しばらく歩いて出くわすのが、今西氏屋敷の外堀跡。
216m四方を二重の堀で囲んでいたと説明にあったから、戦国時代には大名の城並みの防御力を見せていたのだろう。
今西氏に限らず、戦国時代は自衛のために農村までにも門扉や堀があったりして、夜はちゃんと門を閉め、さらに堀にかけた橋は非常時に外されて村に入ってこれないようになっていた。武士に限らず誰しも危険な目に遭わない保証はないので、昔はみんな自己防衛していた。
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外堀跡
緑の屋根の「南郷の家」には説明板と発掘品
などがある。 |
今西氏ゆかりの地をあとにし、その後は、森家とも親戚関係である茨木城主・中川清秀関連の史跡を見て回る事にした。
戦国武将の中川清秀の娘「チボ」は、森忠政の前室だった。
父の清秀は娘が嫁ぐ前に賤ケ岳の戦いで亡くなってしまったのでそのことを知らないだろうけどね。
曽根駅を降りる頃にはポツポツと雨が降り始める。
駅から歩いて原田城跡へ。これはもともとは土豪・原田氏のお城だったらしい。有岡城攻めの折に織田軍(中川清秀・古田織部)らが付城として利用した時には、ここを補強してかっこよくしたらしく、巨大なお堀もあったそうだが、今は土塁が現存するのみ。『原田城』と表札のかかった玄関をくぐって土塁に飛びついた。
一説には中川清秀(当初は荒木村重の配下)の家臣が米を石山本願寺に横流ししてしまったことが荒木村重の謀反の原因をつくったそうだ。信長に釈明に行こうとした荒木村重だったが、そこを清秀が「信長に一度疑われたらもうムリです(キッパリ!)」と押しとどめて、荒木村重が正式に信長に反旗を翻したところで清秀自身は信長に寝返って荒木村重を攻撃しましたとさ。
この逸話が事実なら、村重にも同情の余地がある戦国哀愁ラプソデー。
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原田城跡の土塁
敷地には今は「旧羽室家住宅」が建っている。 |
茨木駅に移動。中川家が三木城に移るまでの本拠地だった茨木城がある。本当はここでレンタルサイクルの予定だったが、雨になりそうなので徒歩で散策する。
まずは中川清秀のお墓もある梅林寺にお参り。
思いっきり「中川清秀公墓」と標識が示してあったのでお墓そのものはすぐにわかったが、ひしめき合う墓所で通路も狭くて背後に別の墓石の存在を感じながらのお参り。
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中川清秀・淵之助(長男)公墓
清秀の墓石に横ヒビが…。
墓石の文字の刻みもよくわからなかった。 |
つづいて茨木小学校と化して侵入禁止の茨木城跡(中川清秀の居城)だ。
大人になるまで茨木城はてっきり茨城県にあるものと思っていたので、「どうだ。大阪府で茨木城が見れたじゃないか。」という私のみにしか理解できないだろう感慨深さがあった。
しかし、櫓門になってる小学校正門の左横に飛び出し坊やの看板があり、ナナメ方向からかっこよく写真を撮ろうとすると、坊やが邪魔をするのだった。
さらに徒歩で茨木神社(茨木城の搦手門と言われる門がある)にもお参りして門の横が緑色のトイレで写真に入り込むことにショックを受けた。
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茨木小学校正門(茨木城本丸跡)
小学校創立120周年で原寸大に復元された
おしゃれな櫓門。
城に通学か。いいなぁ。 |
茨木神社
東門は茨木城の搦め手門であったとされる。
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その頃からまた小雨が降ってきたが、たとえダイソーの前を通過しようが断じて傘は買わずに茨木市立文化財資料館に行き、特別展『茨木城』を観覧した。茨木城廃城の折に、お堀めがけて不要品を捨てまくったのだろうか、欄間や障子なんかでもそのままの形で発掘されて出てきたらしく、今でも色あせぬそれらがドンと展示してあった。(^_^;)
レンタルサイクルで行く予定だった白井河原合戦場などの遠征は諦めて、急遽、思いつきで総持寺駅に移動して織田信長もやってきた総持寺に参拝。そしてさらに雨に濡れた。
一日中歩いた疲れもあり、もう暗くなるのを待つ一方なので「とりあえず大阪駅に戻ろう。」と、話していたのに、大阪へ向かう電車の中で、
「もしやこの感触では、大阪城に行く時間があるんじゃないの?」
という話になり、環状線に乗り替える。
それでも大阪城の最寄りの大阪城公園駅に着いた頃には最終入館時間10分くらい前。
またこんなオチですか!!ぎゃふ!Σ(゜□゜;
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