大阪で1日限定森家の旅

       

箕面の滝マンホール
優雅な着色バージョン。
でもこの下に流れるのは汚水。

2010年10月24日(日) in 大阪 

■ 信長史跡の「みのを滝」

 

 夜行バスで「どうして首が動かないの!!どぉぉぉして!Σ(T□T;」
という悪夢にうなされた上、隣の人に寄りかかられて大阪に行ってきた。

 目的は、大阪府豊中市にある今西氏屋敷一般公開(10/24のみ)である。
森家とも関係の深い家である今西氏のお屋敷が1日限定公開の日だったので、先週は岐阜に行ったくせに、今週も色々と無理して大阪に行ってしまった。世の中、いつそれがラストチャンスになるのかわからないからな。
 春日大社南郷目代・今西氏はすごい。鎌倉時代から荘園を支配しつつ現在まで同じ土地で頑張ってるのだから(時代時代に領地を削られたけど)。

 今日は地元のお城仲間・NACKさんが朝7時から一緒に回ってくだすった。
 朝7:20到着予定の私が朝6:40に「着きました(^O^)/。」と連絡したものだから、色々と慌てさせてしまった。(^O^)/

 行動開始があまりに早朝なので、開館時間の無い場所を選んで箕面市の箕面の滝に登った。これは織田信長が天正7(1579)年3月晦日に見物した滝なので、行きたいと思っていたのだ。
箕面の滝は山の上のほうにあり、時間の都合で登りはタクシー。(^_^;)

「三月晦日、御鷹野、みのをの滝御見物 『信長公記』」

 荒木村重が立て籠る有岡城攻めは息子や家臣ども(森長可も含む)に任せて、織田信長は鷹狩りをしたり、滝見物に興じていた。この有岡城攻めの時には森蘭丸も信長に随行していたので、蘭丸が信長と一緒にこの箕面の滝を見た可能性もなきにしもあらず。(^_^;)

 しかし、鷹狩りには地元の生の情報を探る意図もあったのだろうが、鷹狩りの後に、この山に登ってくる信長の元気のよさが…やはり…なんかこの人は違う。
 凡人ならたとえ大丈夫な戦でも、あれこれ考えて他のことが手につかなくなって、朝ごはんの時に思わずパンと間違えて鷹にバターを塗ってうっかり食べてしまうだろうに、毎日のように鷹狩りをして「滝を見に行くミャ!」と言う信長のバイタリティーと心の余裕はすごい。もしかすると、村重を攻めているという当初の目的すら忘れているのかも知れない。

 朝の箕面の滝。
さすがに誰もいないかと思ったら、人がいっぱいいた(笑)。
犬までいた(笑)。
魚まで泳いでいた(笑)。
さらに猿も出るらしく、看板に厳重注意書きがあった。
滝の周囲は何とも清涼な雰囲気。ここで私たちも「みのをの滝見物」をしながら爽やかに朝食をとる。

  箕面の滝
織田信長も見物した。
同じものを見ていると思うと感動も
ひとしお。

 その後は池田城跡(池田市)に再訪。
信長の「みのをの滝御見物」レクレーションをさかのぼること永録11(1568)年、信長が摂津に侵攻した時に攻めた城だ。摂津へは森可成も従軍していた。
 この時、池田城城主の池田勝正は抗戦したものの、信長から城下を焼き打ちされたことでやる気をなくして降伏したという由緒ある史跡だ。
 以前、池田城へ来た時にはうっかり空堀を歩くのを忘れていたので、今回は、空堀ウォークに徹した。

池田城跡
礎石軍団。
池田城空堀
「空堀散策路」という名称がついていた。

そしていよいよ今西氏のお宅訪問だ。

■ そして今西氏お宅訪問。  

 ようやく いい時間になったので、本日最大の目標である今西氏屋敷に訪問する。
服部駅下車のち徒歩。
服部駅にあった臨時看板
新聞文字切り抜きの脅迫状ぽい
素敵なレイアウト。

 荘園制の時代から同地に春日大社の南郷目代として住んでいる今西氏は、えげつない戦国時代においては大名達と結びつくことによりその地位を死守し、結果、森家とも関係が深くなった。
 今西家の「大蔵姫」は、中川家の仲介による森忠政の内室であったとし、立派な肖像画も残っている。
 残念なことに私の確認している限りでは森家側の記録にはこの大蔵姫に関する記述はないけど、今西家の名字は森家の資料にも多く見かけ、関係の深さをうかがわせる。

 森家と関わりがある(っぽい)今西家の人物(今西家の系図に基づく。)

今西春主(社家三十一代):「婦 関小十郎左衛門尉之女」
今西春一(社家三十四代):式部少輔。天文13年(9月6日)卒。「婦 森武蔵守之女」 
この妻なる人は森武蔵守長可の娘ではないようです。年代的に長可すら生まれてないので無理。
今西春房(社家三十六代):左京亮。宮内少輔。文禄5年8月16日卒。「婦 美津、明智日向守之女」
大蔵卿:今西春房の娘。初め、多田四家の山問氏へ嫁ぐ(その時の娘に妙喜と智保がいる)。後に、中川修理太夫秀成の養女として森忠政に再嫁。元和9年9月13日没。
今西宗英:春房の子息。浅田内蔵允。浅田家の養子となる。後、森忠政に2700石で仕える。寛永6年2月13日卒。
今西道春:春房の子息。今西掃部介。森忠政に1500石で仕える。慶長の役で森忠政のために先陣の将をつとめる。元和3年8月13日卒。
今西春住:社家三十八代である春賀の兄弟。桜井三太夫。森忠政に従い慶長の役で戦死。
今西春勝:社家三十八代である春賀の兄弟。次右衛門。森忠政に200石で仕える。
それ以降の子孫も引き続き森家にも仕えています。

 いつもはしっかりと閉ざされた門をくぐる。表札には『今西』の文字が。
私はてっきり今日は屋敷の中まであがれるのだと思いこんでいたけど、今なお屋敷に今西さんがお住まいなので、そこのところは無理のようで屋敷を外側から眺めるのみだった。屋敷の内部の詳細についてはビデオで鑑賞できたのだし、お住まいなのに撮影OKだけでもありがたいと思わねば。
ただ、森度をもうちょっとあげて欲しかった…。
ただ、森度をもうちょっとあげて欲しかった…(※あと3回くりかえし)。

 そして敷地の中には春日神社もあった。
さすが春日大社の南郷目代。さらにここを鹿や せんとくんも走っていればパーフェクトだったが、残念ながらさすがにそれはいない。

今西氏屋敷の長屋門
屋敷は昔は内堀・外堀で囲まれていた。
現在の門は明治40年までに建てられたもの。
南郷春日神社
もともと屋敷地北側の最も高い場所にあったの
が明治に移動(現在は主屋に近い場所にある)。

 今西家のお宅訪問(外から熱い視線で見つめるだけ)。
敷地の中の一角の土が盛りあがりもあって、もらったパンフの説明にも「土塁跡の可能性があります」とあったけどそこは立ち入り禁止で入れず。
 

今西氏主屋
宝永6(1709)年の火災ののちの再建。
近年では、阪神淡路大震災の被害に遭った。
今西氏主屋の一室
赤い土壁がステキ。
鑓をかけた部屋もあった。

 建物そのものは再建だけど、しかしこの構造そのものが昔の名残を伝える貴重なものらしい。
とは言っても、まだまだ見どころのある今西氏屋敷。戦国のなごりを求めてさらに屋敷の周辺を散策した。

 15世紀後半に屋敷の周囲にめぐらされた内堀跡は、発掘調査では推定幅10m、深さ2m。
思いっきり防衛しているじゃないか。

今西氏屋敷内堀跡
草がきれい。

 向かいの土地も昔は今西氏の敷地だった場所で、なにかちょこまかと見るべきものがある。

政所跡とされる水田
奥に見える大木には末社の一つがある。
南郷春日神社末社
ここにある祠は神のお使いの鹿や百狐の墓と
の伝承もある。


 しばらく歩いて出くわすのが、今西氏屋敷の外堀跡
216m四方を二重の堀で囲んでいたと説明にあったから、戦国時代には大名の城並みの防御力を見せていたのだろう。
 今西氏に限らず、戦国時代は自衛のために農村までにも門扉や堀があったりして、夜はちゃんと門を閉め、さらに堀にかけた橋は非常時に外されて村に入ってこれないようになっていた。武士に限らず誰しも危険な目に遭わない保証はないので、昔はみんな自己防衛していた。

外堀跡
緑の屋根の「南郷の家」には説明板と発掘品
などがある。

 今西氏ゆかりの地をあとにし、その後は、森家とも親戚関係である茨木城主・中川清秀関連の史跡を見て回る事にした。
戦国武将の中川清秀の娘「チボ」は、森忠政の前室だった。
父の清秀は娘が嫁ぐ前に賤ケ岳の戦いで亡くなってしまったのでそのことを知らないだろうけどね。

 曽根駅を降りる頃にはポツポツと雨が降り始める。
駅から歩いて原田城跡へ。これはもともとは土豪・原田氏のお城だったらしい。有岡城攻めの折に織田軍(中川清秀・古田織部)らが付城として利用した時には、ここを補強してかっこよくしたらしく、巨大なお堀もあったそうだが、今は土塁が現存するのみ。『原田城』と表札のかかった玄関をくぐって土塁に飛びついた。

 一説には中川清秀(当初は荒木村重の配下)の家臣が米を石山本願寺に横流ししてしまったことが荒木村重の謀反の原因をつくったそうだ。信長に釈明に行こうとした荒木村重だったが、そこを清秀が「信長に一度疑われたらもうムリです(キッパリ!)」と押しとどめて、荒木村重が正式に信長に反旗を翻したところで清秀自身は信長に寝返って荒木村重を攻撃しましたとさ。
この逸話が事実なら、村重にも同情の余地がある戦国哀愁ラプソデー。
 

原田城跡の土塁
敷地には今は「旧羽室家住宅」が建っている。


 茨木駅に移動。中川家が三木城に移るまでの本拠地だった茨木城がある。本当はここでレンタルサイクルの予定だったが、雨になりそうなので徒歩で散策する。
まずは中川清秀のお墓もある梅林寺にお参り。
思いっきり「中川清秀公墓」と標識が示してあったのでお墓そのものはすぐにわかったが、ひしめき合う墓所で通路も狭くて背後に別の墓石の存在を感じながらのお参り。

中川清秀・淵之助(長男)公墓
清秀の墓石に横ヒビが…。
墓石の文字の刻みもよくわからなかった。

 つづいて茨木小学校と化して侵入禁止の茨木城跡(中川清秀の居城)だ。
大人になるまで茨木城はてっきり茨城県にあるものと思っていたので、「どうだ。大阪府で茨木城が見れたじゃないか。」という私のみにしか理解できないだろう感慨深さがあった。
しかし、櫓門になってる小学校正門の左横に飛び出し坊やの看板があり、ナナメ方向からかっこよく写真を撮ろうとすると、坊やが邪魔をするのだった。

 さらに徒歩で茨木神社(茨木城の搦手門と言われる門がある)にもお参りして門の横が緑色のトイレで写真に入り込むことにショックを受けた。 

茨木小学校正門(茨木城本丸跡)
小学校創立120周年で原寸大に復元された
おしゃれな櫓門。
城に通学か。いいなぁ。
茨木神社
東門は茨木城の搦め手門であったとされる。

 その頃からまた小雨が降ってきたが、たとえダイソーの前を通過しようが断じて傘は買わずに茨木市立文化財資料館に行き、特別展『茨木城』を観覧した。茨木城廃城の折に、お堀めがけて不要品を捨てまくったのだろうか、欄間や障子なんかでもそのままの形で発掘されて出てきたらしく、今でも色あせぬそれらがドンと展示してあった。(^_^;)

 レンタルサイクルで行く予定だった白井河原合戦場などの遠征は諦めて、急遽、思いつきで総持寺駅に移動して織田信長もやってきた総持寺に参拝。そしてさらに雨に濡れた。
 
 一日中歩いた疲れもあり、もう暗くなるのを待つ一方なので「とりあえず大阪駅に戻ろう。」と、話していたのに、大阪へ向かう電車の中で、
「もしやこの感触では、大阪城に行く時間があるんじゃないの?
という話になり、環状線に乗り替える。
 それでも大阪城の最寄りの大阪城公園駅に着いた頃には最終入館時間10分くらい前。
またこんなオチですか!!ぎゃふ!Σ(゜□゜;

はげネズミでぬれネズミ
 
 大阪城公園駅からは、もう、あまりあれこれ考えずに「うぉーーー!」と雨の中を駆け出し、天守閣までダッシュした。
もちろん、大阪城公園は広い。青春を馬鹿にするな!というくらいに広い。そのため、途中で根をあげてあきらめそうになったり、やっぱりここまで来たのだからと再度意気込んで走りだしたり。

「あかんわ!もう最終入館時間になった!」
とNACKさんが言うけど「それでも、何とかなる!」と、2人あきらめずに濡れそぼって天守閣まで走った。もはや公園のなかでどちらが斃れても『俺の屍を越えて行け!』ノリ状態だ。
疲れて足をとられそうになりながら石段をかけのぼり、やっとの思いでたどり着いたチケット売り場はもうシャッターが閉まっていた。

 それでも奥から優しいお姉さんが出てきて、「入館なさいますか?」と、ビショビショの私達を通してくだすった。

 とはいえど、許されたタイムリミットは20分少々。
なので、大阪城特別展『秀吉への挑戦』のみにターゲットを絞って観覧することにした。
私は、「森家さえあればあとはいい!」と、森家臭がする展示のみに狙いを定めてピンポイントで見ていく。会場はすでに人は無く、階段を降りるのも時間を惜しんでNACK隊長とドカドカと駆け足。大阪城で何の避難訓練だとういう感じだ。

 しかし頑張ったお陰で、初めて知る森家登場の史料に出会えた。
九州征伐関係の秀吉の書状(現物)に森忠政の名があったのだ。(^O^)/
しかし、閉館時間は迫り、慶びの舞を舞う暇もない。
至九州御動座次第
一、正月廿五日 壱万五千    羽柴備前少将殿
一、二月一日  四千        宮部中務法印
           ー         南条勘兵衛尉
           ー         亀井武蔵守
           ー         木下平大夫
           ー         垣屋平右衛門尉
一、二月五日  二千        前野但馬守
           八百        明石左近
           八百        赤松左兵衛尉
           四百         別所主水頭
           千二百       福嶋左衛門大夫
           三千        中川右衛門大夫
           千三百       高山大蔵少輔
           三千         羽柴丹後侍従殿
一、二月十日   壱万五千五百  羽柴中納言殿
           千五百       羽柴伊賀侍従殿
一、二月十五日 五千         羽柴丹波少将殿
           千五百       羽柴若狭侍従殿
           八百         生駒雅楽頭
一、二月廿日   三千         羽柴越中侍従殿
           千七百       羽柴東郷侍従殿
           三千         羽柴北庄侍従殿
           千          木村常陸介
           三百        青山助兵衛尉
           千          村上次郎右衛門尉
           七百        溝□金右衛門尉
           百三十       山田喜左衛門尉
           百          大田小源五
一、二月廿五日 千七百       羽柴松嶋侍従殿
           千三百       織田三郎殿
        舟にて人数あり次第  九鬼大隅守
           百五十       岡本下野守
           干 羽        柴岐阜侍従殿

       千     森右近 林長兵衛人数つけ候て
           五百         羽柴曽祢侍従殿
一、三月一日 関白殿
                      御馬廻衆
                      御小性衆
           千         尾州大納言殿
           五百       羽柴敦賀侍従殿
           五百       羽柴陸奥侍従殿
           弐百       水野惣兵衛尉
           五百       石川出雲守
               前備
           四百       羽柴左衛門尉侍従殿
           五百       羽柴河内侍従殿
           三百五十    蜂屋大膳大大
           百五十     市橋下総守
           百五十     生駒主殿頭
           百五十     有馬刊部卿法印
           百        大部善七郎
           弐百       稲葉兵庫頭
           百        上田左太郎
           五百       津田隼人正
           百五十      松下加兵衛尉
           三百五十    瀧川義大夫
           五百       牧村兵部大夫
           百二十      勢田掃部頭
           九十       池田久左衛門尉
           百三十      古田織部頭
           百二十      柘植左京亮
               脇備
           千二百     浅野弾正少弼
           千        木下式部太輔
           千        山崎志摩守
           百六十     戸田半右衛門尉
           七十      長谷河甚兵衛尉
           七百五十   戸田民部少輔
              後備
           五百      冨田左近将監
           百五十    早川主馬首
           百二十    津田大炊頭
           弐百      寺西次郎介
           百五十    大塩与一郎
           百二十    片桐西市正
           百五十    加須屋内膳
           四百     池田備中守
           百二十    川尻肥前守
           百七十    加藤主計頭
           百五十    古田兵部少輔
           百       間嶋彦太郎
           百       丸毛三郎兵衛尉
           百五十    佐藤才次郎
           百八十    生駒仙
           百五十    青木所右衛門尉
           五百      奥山佐渡守

         天正十五年正月一日(朱印)
          羽柴北庄侍従殿

森(右近)忠政、まだ羽柴姓じゃないww
忠政は九州征伐には自ら参加せずに、林(長兵衛)為忠が陣代として森軍を率いて出陣した。

この書状が掲載されている図録も無事に手に入れた。
最後の思わぬ収穫にホクホク。

大阪城のライトアップ
日本中の電力を吸い取るような明
るさだ。高感度撮影すると城の輪郭
が飛ぶので、普通モードで撮影。


 しかし、その後、閉館のタイムリミットのせいでもはや中身を見ずに真田本をドカ買い(森家の記述狙い)。
 
 こうしてものの20分でずっしりと重くなった荷物を抱え、自分を乾かしながら京橋駅そばのビルで晩ごはん(肉まんの蓬莱がやってるレストランがあったの!)を食べ、新幹線に乗って帰途についた。大阪にはしょっちゅう来ているのに、新幹線なんて実に何年ぶりだろうか(夜行バス専門)。
現代の乗り物のあまりの速さに驚いてしまった。

 疲れて新幹線の中で眠るはずが、iPhoneでGPSゲーム「ニッポンの城めぐり」をして、沿線の城盗りに従事することに夢中になった。
 しかし、トンネルの連続でiPhoneは圏外ばっかりでゲームに「データが取得できませんでした。」と、拒否され続け、終点の博多駅までイライラを募らせて爆発しそうになっていた我。

NACKさん、雨に濡れながらのご案内どうもありがとうございました♪m(_ _)m