*津山で美作学講座の旅

       

石垣からニョキニョキ生えてくる〜♪


           
 2010年8月20日(金)-22日(日) in 津山メイン 

■ 2010年8月20日(金):幕湯への果てしなき挑戦

 
 ミラクルで8月21日(土)に美作学講座で森家を語らせていただけることになった。
今回はそのために津山にでかけるのだ。 

 講座の前日に福岡を出発することにした。
福岡の城好きのケイさんにも津山へ同行してもらえることになり、車で朝からでかけた。
 九州自動車道の吉志(きし)パーキングエリア上り(北九州市門司区)でしか見れないという悲劇のPA城・寒竹城注:森家の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません)を見学した後、中国自動車道を快調に飛ばす。自分たち以外には車はほとんどいない。車間距離は10キロくらいあるかんじだ。

 運転はケイさんと交替だったが、運転しないほうは、助手席で2人分のケータイ(私のはiPhoneだけど)を2台手にして、「発見!ニッポンの城めぐり」の「城攻めボタン」を押して出かけた先々に存在する城を落としていくという、形のないものに必死で取り組む任務があった。
ただのお遊びかもしれないが、おかげで自分のいる周辺にどんな城攻めがあるのかが判って、これが多いに役立つこともある。

で、高速も真庭市に近づいたころに、ピコっと「城攻め」ボタンを押して

勝山城を攻略しました。

『勝山城(真庭市)を攻略しました。』ということになった。

勝山城___またの名を高田城。むしろ、私の間では高田城でおなじみの勝山城である。ここは、森家も大変関係の深い城なのにまだ行ったことがない。Σ(゜□゜;

真島郡古城
一、高田山 三浦駿河守貞連 高田村
(森家部分のみ抜粋↓)
同(慶長)八癸卯(1603)年より各務四朗兵衛、これを抱え、
同十四己酉(1609)春より大塚丹後より相続て五代これを抱える。
from『森家先代実録 巻第十八』原文をわかりやすく読み下し済み。

 中世に三浦氏によって築城され、以降、その時々の権力者の有力者が城主となってたまには落城していた高田城。森忠政の重臣の各務四郎兵衛そして大塚氏が城番を勤めたとかいうお城。

 私が「行く!行く!登る!」と、騒ぎ立てたので、急遽、本物の勝山城へ行くことになり、落合ICから高速を降りた。
ケイさん:「あ、勝山城なら湯郷温泉に行った時に寄ったことある。」
 森家しか追わぬ私が行ったことないのに、なんで城ならなんでもいいケイさんがピンポイントで勝山城に寄ったことがあるのだ!!Σ(゜□゜;

 と、いう訳で高田城に到着。
しかし、さすが、夏。
 城内にはどこもかしこも草が鬱蒼と生い茂り、よくわからない。
そこへ血に飢えた蚊が一斉に襲ってきた。
 蚊を両手で追い払いつつの城跡見学で、看板を読むのに立ち止まるのもはばかられる。
もう、デジカメで撮影中のスキにどんどん蚊がとまってくる。
 右手の甲をふと見れば、蚊が4匹止まって血を吸っていた。まるで、バーカウンターのごとくに人の手に4匹がきれいに一列に並んでいる。
パーン!!

高田城(勝山城)その1 二の丸〜本丸  
城山・太鼓山案内地図
竪堀や堀切などの見どころがたくさんで楽しそうだ。

グラウンドと化した二の丸
西隅には櫓台の石垣が現存するというのでし
ばらく探したけど、存在が判らなかった。

本丸
奥のもりあがり部分が本丸。
本丸跡
緑がキレイ!蚊が多い!

 続いて麓に下りていけば打って変わって美しく整備されている高田城三の丸遺跡
整備されすぎて「美しすぎる三の丸」という感じでびっくりだったが、発掘調査をした真庭市教育委員会の説明看板には『十五世紀の三浦氏から継続して十七世紀初頭の森氏の城番までの館跡の一部と推定される。』とあったので、ここも森家スポットかと、丁寧に見学した。

高田城その2 三の丸
高田城三の丸遺跡(一部)
随所随所で細かい説明が施されて
るけど、その説明看板が劣化してよ
く読めなかった(涙)

 
で、麓の三の丸において、「あれ?私達、高田城の出丸方面には行ってないよね?」と気づき、もう一回山に登る。先ほどの二の丸、本丸があった山とは隣り合った別の山にあった。
 そしてまた蚊に襲われる。ここにも伏兵がいたか!
こんどは両目につっこんでこられて、反射的に閉じた目のまつ毛に蚊がからまってモソモソして恐怖すぎる!…山城攻めにはゴーグルが必要だ。
 出丸を回っているうちに、もう汗も噴き出てぐだぐだ。
竪堀などをもっとじっくりと見極めたかったけど、蚊にさされまくってケイさんも私も腕がボコボコでひどい状態だし、私に至っては蚊の刺された跡にいちいち爪でバッテンを刻んでいったので腕がウロコ模様で気持ち悪い。ゆっくりしきれずに退散するように山を降りた。

高田城(勝山城)その3 出丸  
カンカン井戸
「井戸は抜け道で西側の町裏へ続くと言われ
ているがあり得ない。」という看板があった。
出丸跡 
なんか建ってる〜!!


 汗だくの状態で、同じ真庭市の真賀温泉(まがおんせん)に行った。
真賀温泉館にある「幕湯」というのが、森忠政が『幕を張って入った温泉』だと伝わる。
 こちらの温泉について、高速道路のサービスエリアからすでに問い合わせの電話を入れていた。そして「幕湯は混浴ですよ。」と念を押されていた。「森忠政はそんな人じゃなかとです!」
と、叫んでみたくなっても(意味不明)、現在の幕湯は混浴なのだ。
混浴であろうが、それでも私は森忠政が入った「幕湯」に入りたいのだ。

ようこそ真賀温泉
幕湯のあるのは、真賀温泉館

 真賀温泉館に到着し、幕湯を確認。

あこがれの幕湯
ただし
混浴

 神々に祈りつつ、のれんをめくって内部の様子をみれば、男の人たちが3人も湯に入っていたのである。しかも全員が裸だったのだ。きゃあ〜!!!
加えて、幕湯の風呂は予想外なほどの狭い空間だった。

 だめだ、いざ現実を目の前にするとあの人たちの前で全裸で入ってゆく勇気がない…。幕湯が東京ドーム2つ分くらいの大きさでの男3人入浴中なら私も何とか片隅で入る勇気も出ようが、現実は5人くらいで満員御礼な感じのお風呂だったので、私が入ったら絶対に存在を気づかれてしまうのではないだろうか…。気づかれずに入る方法はないものか。

 折角来たのだし、しばらくは彼らがあがるのを待って幕湯に入ろうとしていたところ、温泉館の方が心配して声をかけてくださり、「隣の家族風呂も、幕湯の源泉の湯と穴でつながっていますよ。」とのこと。
 私は、それでも幕湯に入りたいのです。と粘っていたが、次から次へとおじさんが幕湯に入りにくる。
Σ(T□T;神様!
私はふがいなくも隣りの家族風呂に入り、隣の忠政ゆかりの幕湯からやって来る湯を精一杯に吸収した。

真賀温泉の家族風呂
(忠政ゆかりの幕湯の隣)
幕湯の源泉と穴ポコ続きのいい湯
でした。

いつか幕湯リベンジしてやるんだ!

 津山市に入り、ホルモンうどんを食べて、津山城至近距離のホテルにチェックイン。
もちろん、iPhoneで津山城も攻略した。

津山城を攻略しました。
■ 2010年8月21日(土):美作学講座当日

 今日は、美作学講座の当日。
朝早くホテルを出て、美作市林野にある倉敷城(林野城)に向かう。
英田郡古城
一、倉敷山 建武の頃 倉敷村
(森家部分のみ抜粋↓)
慶長中頃より森対馬守可政同采女可春同宗兵衛三信、代々これを抱える。
from『森家先代実録 巻第十八』原文をわかりやすく読み下し済み。


 森忠政の偉大な叔父様・森可政が預かった城だ。
この山城の麓にある安養寺居館跡と伝わっている(こっちは以前に訪問済み)。
と、いう訳で、頑張って山に登る。さすがは森可政の城、蚊がいない。
と、山に入ったものの、ひっかき傷を作りながら草木をごわっとかきわけているうちに、ついに手ごわい植物たちに全力で押しやられて前進不可能となってしまった。

 諦めて引き返している時に、草に隠された秘密の階段を発見。登っていけば、城への道が開けてきた。当初、我々は何に向かって突き進んでいたのだろうか…。

 倉敷城中腹から見下ろす安養寺(居館跡)
下にチラリと見える建物がお寺とその敷地。

 山道を登って難なく城の中心部分に到着。
山頂をしばらく散策したけど、肝心の主郭の奥行き半分は草が深くて蛇でもいそうな雰囲気を醸し出していたので、足がすくんで進めなかった。

 しかし、クスコのインカ道のように歩幅の狭い道を伝って物見台と言われる場所に出たら、あまり草も茂ってなく遺構の形も判りやすくてホッとした。 

倉敷城主郭
説明看板によればもっと奥が「本丸」のようだ
けど「夏草や」状態で遺構もよく見えず。
説明看板によれば物見台
土を盛ってる盛ってる〜♪

 しょっぱなに間違った草むらに突っこんで腕にあちこち擦り傷を作ったものの、無事に山を降り、ホテルでシャワーを浴びてさっぱりして講座会場の美作大学へと行く。

美作大学
美作学講座会場。

 
 甲子園の決勝戦でみんなTVにかじりつきではないかと心配していたが、会場には県内外から多くの方々がお越しくださった。
 私のお世話になってる方々や、県外各地から集いしサクラの知人たちも並んでいる。

 「森家の城々〜宇佐山城から津山城まで〜」
と題して森家のお城についてお話しさせていただいた。
・蓮台城(岐阜県羽島市)
金山城(岐阜県可児市)
宇佐山城(滋賀県大津市)
海津城のち、待城(長野市)
・構城(津山市)
・津山城(津山市)。

 日本国には森家が城主だった城がこんなにもある。(^O^)

 …それなのに、緊張感たっぷりで話してしまった…。
”緊張感たっぷり”というのは、聴講者の皆さんが「かわいそうな森忠政はいったいどうなってしまうの?」と、私の話の展開にドキドキしてしまったというわけではなく、和やかな雰囲気の中で私が一人緊張して話してしまったという意味である。
 
 話が終わり、あれほどおびえていた質問コーナーに逆に救われた。
会場の方々が、次々に手をあげてくだすったのを見ているだけでものすごく感激してしまった。あいかわらず私はアドリブにも弱いので、変な回答ばかりしてしまったけど。

 講座が終わってからも皆さんが順番待ちで声をかけてくださって、まだまだ質問も続いたし、RANMARU!サイト自体を見知ってくださっているという方々ともお話できて、嬉しかった。胸の奥底から喜びがこみあげてくるという表現をしたらいいのだろうか、みなさん、こんな素敵な一日をありがとうございます。
 
 と、言いつつも、私は内心、うまく話せなかった自分にショックを受けており、宇佐山城の本丸と竪堀をつなぐというミスをし、そして自分では話している最中に気づいてなかったけど、私は話の中で三河を駿河に吸収合併し、織田信忠を森家に養子に出していたらしい。後からエレベーターの中で知人から次々とツッコまれて、エレベーターに穴を掘って入りたくなった。 

 夕方からは、4時ぐらいから講座関係者の皆さんと一緒に飲んだ。
 文化財で津山城を掘ってる方々もいらっしゃれば、前回の美作学講座の講師の方々もいらっしゃることもあり、濃い話が続く続く。
「待城は”たいじょう”ではなく、訓読みで”まつしろ”と読むべし。」
「津山の”津”の字は海津城にちなんでいるのでは。文献のように”鶴山(津山城を築いた山の名)”をとって”津山”にしたというには無理がある。」
「森長可の遺言は、否定的な意味で弟(忠政)の能力じゃ無理って言っているのかと思う。結果的に忠政は立派に森家を盛りたてたので、長可の判断は間違っていたわけだけど。」
「ノンアルコールビールはサントリーのオールフリーが一番ビールっぽい味がする。」
 と、私には気づけないことを、ちゃんと資料や根拠に裏打ちされた意見で話してもらい、色々と目からウロコだった。
 
 2次会には、各地から集まってくださったお城仲間とも合流。
 彼らの数名は『講座を聴きに行く前に医王山城神楽尾城美和山城に寄る予定が交通渋滞に巻き込まれたので神楽尾城しか行けず、でも講座が終わってからちょっと時間があったので美和山城鶴田陣屋構城に行き、さらに明日は常山城小串砲台乙子城外波崎台場御茶屋に行って、前島に渡って大坂城築城残石群A〜D地点前島のろし台を見るのだ。』という。

そして3次会までももつれこみ、濃い話は続く。
 お酒を飲みながら、お城の馬出(うまだし)について、美作学講座・前講師よりプチ講義を受ける。(^O^;)
 北条家の馬出と、武田家の馬出と…家別の馬出の図をお店のアンケート用紙の裏に書いていただき、お土産に持って帰る。
 馬出…城の出入口(虎口)の外側に築かれた曲輪のことだけど、私自身は信州に行ってから武田系のお城で丸い形の馬出、そしてそうするとお堀も自然と三日月の形になっているのを見てからその存在が気になり始めた。武田攻めに従事した森長可も丸馬出を見てさぞ「丸ッ!」と思ったことであろう。

 …しかし、1、2次回も濃いが、3次会も全国レベルでどんなマイナーな城が話題に出そうが、誰かが
「その城には行ったことありますけど、あの城の石垣、僕は好きです(ポッ)。」
と、言いだす恐ろしい世界だった。
どんなマイナーな城でも行って当たり前、私の知識では森家の部分しかカバーできない(^_^;)

宴の後は、津山城に登って森忠政公銅像にご挨拶。
夜に見るそのお姿は…

夜の森忠政公座像
なんだか威厳が増してる!
■ 2010年8月22日(日):森家に関係ないけどオマケの四国編

本日の日程は森家とはそれほど関係ない史跡めぐりです。)
 
 朝からハナちゃんを呼びたてて、神楽尾城(森家とは深い関係はない)の麓の神楽尾公園で落ち合う。
神楽尾城の麓・神楽尾公園
「かぐらお」と読めただけでよしとする。


「山頂まで1時間くらいかかるで。」の言葉にあっさり登山は諦め、公園でおしゃべり。

 津山を離れてからは高速に乗り、ケイさんのご所望で森家とは深い関係はない下津井城へ。
韓国で倭城(日本軍の築いた城)の登り石垣を見て以来、斜めになってる石の陳列はすべて登り石垣に見えてしまう病になったが、そう、この下津井城にもそんな石垣もあった。それ以外に石垣などがしっかり残っていた。しかし、それ以上に圧倒されたのがコンクリ階段の上に干からびたミミズが大量に足元にあったことだった。なぜ、そろいもそろってこんな炎天下に土の中から出てきたのだ!

下津井城(倉敷市)
この画像がどの石垣部分だったか忘れた。
池田氏の城。
下津井城

 さらに調子に乗って森家にはあまり関係ない四国に渡海した。

瀬戸大橋

 そして、森家にはあまり関係ない香川県の丸亀城を訪問した。いや、初期の丸亀城主の生駒氏はもとは森家と同郷美濃の出身で、森長可とは「憎しみ合うほど仲悪い」「森軍を通したくないので橋を落としてやれ(by生駒)」つながりなので、関係ないこともないか。

 この日も強烈な暑さだったので、麓から城を見上げて「今からあそこまで登るのか…」と気が遠くなったけど、登ってしまえば、山頂の天守までは結構早かった。

丸亀城(香川県丸亀市)
やる気をなくす
丸亀城の石垣
トウモロコシ粒のようでキレイです。
 
丸亀城の天守閣
ここで100名城スタンプを推した。
 

 続いて訪問したのは森家にはあまり関係ない海の城・高松城
秀吉が水攻めにしたほうではない高松城だ。
こっちももともとは生駒氏の城。

 訪問したこの日の天守台は工事中で石垣もグチャグチャになり、その上にショベルカーが乗っかっていて残念なことになっていたが、なんとお城を囲む水堀には海魚が泳いでいたのだ。
特に、鯛が群れをなしているのだ。お城に「鯛願城就」というダジャレなのぼりが並んでいた意味をようやく理解する。
しかし、海水100%のこの高松城。400年もの歴史の中で、マンボウが城内に迷いこんできたことだってあるかも知れない。殿さまの足元を蟹やフナムシがよぎったこともあったに違いない。
海の城って、なんか夢があって素敵だ。台風の時は夢も希望もなさそうだが。
 で、折角、水堀の中の生物たちの写真を撮ってみたけど、せっかくの鯛も上から撮影しては棒みたいになってワケ分からない。

高松城の月見櫓と水門 高松城の天守台(工事中)
 
高松城の艮櫓  

 夕方になり「せっかく讃岐国に来たんだ、うどんを食べよう!」と思ったのに、入ろうとした店はことごとく営業時間が午後16:00までとなっていて閉まっている。
どういうことなんだ香川県!!!

 うどんと思えば思うほどうどんを食べなくては気がすまなくなり、帰りの高速で府中SAに寄ってうどんを食べた。

眠気と戦いながら車を運転し、自宅に帰りついたのは午前様。


講座関係者の皆さま、聴講においでくださった皆様、津山では本当にお世話になりました。
改めて御礼申し上げます。
講座の失敗を含む思い出が脳内変換で美化された頃にまた津山に遊びに行きます。