蘭丸山がそこにあるから2010

       
飛騨牛炭火焼が戦国料理なのね
in岩村城

2010年6月5日(土)-6日(日) in 美濃〜 

 2010年6月5日 ついに登った、蘭丸山


 毎年6月になると本能寺の変を思い出す。
6月にならなくても本能寺の変を思い出す人は森家欠損症という病気である。
織田信長に殉じた森蘭丸・坊丸・力丸。
ああ、本能寺の大過なかりせば…イマゴロアイツハ422歳(゜e゜)。
モチのロン、考えるまでもなく6月には私としては森家の故郷である兼山に行く事になっている。
恒例の蘭丸供養祭に私も参加させていただくのだ。

 今日は、去年の倭城めぐりにご一緒した、お城仲間のくうくうさんが車を出してくださり、一緒に森家関係史跡をめぐってくださるとのこと。
「行きたいところがあれば、なんでも言ってくださいねー。」との言葉につけこんで、もぅ今しかない、と打ち明ける。
「蘭丸山に登りたいんです!」

      ◆◆旅程◆◆

苗木城跡(森長可が奪った)
蘭丸山(なんでか知らないけど蘭丸の名がつく山)
岩村城跡(短期間・森家のものにもなった城)
大将陣跡(岩村城攻めの織田信忠本陣跡)
桜堂観音(森長可が焼き討ち)
田中泥薬師(森長可の焼き討ちを逃れた薬師像)
味噌煮込みうどん

 朝、恵那駅で待ち合わせ。列車の中でコンビニ朝ごはんを食べるつもりが、ご飯を食べられない系の雰囲気が車内だったので、くうくうさんの車に乗せてもらって、再会の次の瞬間には車内でコンビニご飯を食べさせてもらった。
 
 まずは苗木城跡へ。今回で二度目である。
この岩山の要塞は他の城と違う。
この城は鎌倉幕府より遠山氏の拠点だったが、遠山さんは戦国時代に勢力を伸ばしてきた森家のことが気に食わず、私はそんな遠山さんが気に食わず、それもともかく本能寺の変後の混乱に乗じて遠山さんは森長可の殺害を企てた。
でも、長可に逆襲されて苗木城を攻め落とされてしまったのである。
 その後、関ケ原合戦後に遠山氏が返り咲くまで(以後、「遠山リターンズ」と称す)、苗木城には森家家老の林為忠が入り、森氏の東美濃統治の要の城にされてしまっていた。
 
 苗木城の麓から車を降りて歩き出すと、はや特徴だらけの天然の岩盤、岩石と人工の石垣のコラボが続々と登場する。
中には何故ここまでムキになって隙間に石垣を詰め込もうとするのか、どうやって石をこんな風にしてしまうのか、不思議でしょうがない場所もあったりして、他の城とは一線を画して見て回るのが非常に楽しい。くうくうさんと、門跡や各所の石積み跡なども含めて細かく見て行った。

苗木城大矢倉跡
大石と融合合体、メカジェッターになります。

 現在の遺構は遠山氏リターンズ以降の手によるものだけど、大矢倉跡などは、まるで、日本のマチュピチュである。なんかどっかで聞いたようなキャッチフレーズだがマチュピチュなのである。

苗木城の石垣
ここでは大石のほうが上にきます。
苗木城の石垣
この石たちの役割についての謎。

 腰廓を回って、その無理矢理なような、頑張っているような、視覚的にどうなん、というような石造りぶりに目を奪われながら天守まで登りつめた。
 そこには先客の男性がいて、リュックからヌイグルミを出して天守台に並べていた。彼が苗木城関係者の生まれ変わりだったらいけないので、ちょっと遠慮して私たちは先に周辺の石を見学。その後、2人だけで悠々と天守からの景色を楽しんだ。
 メインの天守台の基礎こそが圧巻だ。先が尖がった岩盤に穴を穿って無理矢理に建物を乗せていたのだから、見るとしみじみ「頑張ったんだね。」と、泣けてくる。江戸時代のいつだかに、地震で大崩壊したけど。

苗木城天守
ここも必死さのこもった技術が冴え渡ります。
苗木城天守
骨組みは天守建物跡の表現。
苗木城天守からの風景
眼下に木曽川を見降ろす。
苗木城天守
地震大国日本なれど、遠山氏は何が何でも岩
の上に建てます。

本丸の石碑には森長可の名前もちゃんと刻まれておりました。

苗木城址碑
苗木城の歴史を刻む碑には、
『豊臣氏将森長可』
という文字も刻まれてます。

 城の麓にある苗木城遠山資料館を見学。岩石の上に建てられた苗木城ジオラマは圧巻(撮影禁止)。
展示内容には森長可に関わるものもあるので楽しかった。

苗木城遠山資料館


 続いては、中津川市手賀野にある待望の蘭丸山。
なんでここが蘭丸山なのかは、よくわかっていないけど、森家と関係あるんじゃないか、でもよくわかんね説で落ち着いているようである。
 この蘭丸山は以前に一人で登ろうとして登り口がまったくわからずに泣く泣く引きかえした山だったので、それ以後ずっと「蘭丸山に登りたい!」と思っていたのだった。

蘭丸山
山の中には「阿寺城」という土盛りの城の遺構
がある。


 しかし、今日はくうくうさんという強い味方がいるのだ!登れ〜!!!(^O^)/
…って、登山口までは手賀野配水地というでっかい水場があるので、唯一延ばされた狭い鉄板橋を伝っていかねばならず、落ちると小魚につつかれるのであり、伝説のテッシーにバクー!!と食べられちゃうのであり、勢いよく突っこめないのである。慎重に、慎重に。

登山口までのトタン橋
落ちるとここでゲームオーバー。

 前回わからなかった登山口は結局、今回も見いだせずに、くうくうさんと一緒に斜面をかけのぼる。いわゆる直登である。
 途中から運よく登山道らしきものを発見し、山頂付近からはじまる城の遺構を見学した。
阿寺城の縄張り図をチェックしながらつぶさに見ていったけど、くうくうさんのみが「あ、虎口だ。」と、理解でき、私は、くうくうさんに教えられれば、なんとなくそんなこともあるような気がしてくる。

蘭丸山阿寺城の虎口
正直者にしか見えない遺構。
蘭丸山阿寺城の主郭
御岳神社の祠がありました。
 
蘭丸山阿寺城の堀切
これは私でもよくわかった(ホッ)。
 

 階段状になっているちっこい郭(段郭)の部分も見に斜面を降りたら、先陣を切るくうくうさんが何か獣をご覧になったようで騒ぎ始め、後ろからついてきた私も意味が判らず騒ぐ。

 古い文献によれば、阿寺城の城主は「森某(ソレガシ)」さん。この城が私の好きな森家とはどう関係するか謎を残すところですが、土盛りのよいお城だった。

 そして帰りはやっぱり登山口付近で道が判らなくなり、スキーヤーみたいにズサァァーッ!と坂を滑走した。しかし、麓には小川が流れているのですかさず減速せねばならない。

…実は行きに直登するにあたり、片手をふさいでいたヘ●シア緑茶ペットを山中に置いて登った。帰りにそれを回収して山を降りるつもりが、別の斜面を滑走したので回収できないまま。蘭丸山、ごめんなさい。
またいつの日にか回収に行きます。


 で、次はジャーン!

岩村城マンホール
ここでだけ鋼の城。

 100名城スタンプを押すという目的もあり、おなじみの岩村城跡に登った。
戦国の動乱では織田と武田が奪い合ったこの岩村城、戦国末期には森家三代(蘭丸-長可-忠政)を城主とする森家の支城として機能する。←私が好きなのはこの辺。
関ケ原以降は松平家や丹羽氏の城となり、ガッツリ石垣の近世城郭となる。

岩村城大手道
ここにもありました。
熊に注意看板が。

 いつ見に来ても、圧倒される石垣だ。

岩村城
岩村城六段壁
まるでマチュピチュだ!
岩村城
本丸の一角にある城址看板。
岩村城
美しすぎる岩村城跡の桝形

武田攻めの時には、織田信長もお泊りしているこの城。その証拠がこの看板だ!

いきなり立ってる『織田信長宿泊地』看板
本能寺の八十日前に信長が泊る。

なお、信長がこの地に寄ったことは『信長公記』にも記述がある。
お城を降りる時に、野生のカモシカと遭遇して感激(シャッター切る暇なし)!

 続いて岩村城攻めの織田信忠の本陣だった「大将陣公園」を訪問、ちょっとした丘陵になっている。
さらには、丘の上には近代の色々な石碑などが一緒に並んでいた。
ここで、武田方の城主秋山信友とその妻(信長の叔母さん)ら五人を逆さ磔にした。
秋山信友とは、武田二十四将の一人であり、『センゴク』マンガでベレー帽かぶってた人だ。

大将陣
天正三(1575)年、織田信忠が岩村城攻めのた
めにここに本陣を置いた。
大将塚
秋山ら5人を葬った塚。

 岩村城を去ってから車で瑞浪市に入り桜薬師瑞桜山法妙寺)を参拝する。
 新しい看板にある寺伝によれば、この寺は弘仁3(812)年の開山の名刹だが、天台宗系の寺院のため、織田信長の比叡山焼き討ちに続いて、森長可によって焼かれてしまった寺院とのこと。寛文3(1667)年に再建されているらしい。

 で、本堂に掲載してあった古い寺伝によれば、弘仁3(812)年の開山の名刹だが、元亀2年10月18日に織田信長の臣・森武牧、と土岐友信の逆臣・石原善四郎に攻められて兵火にかかったとのこと。森武牧が仏間を焼いたことの非を悟って堂宇を再建したそうだ。 
なに、そのコラボ。そして、森武牧って誰よ。

桜薬師山門
現在の門は寛延3(1750)年のもの。
桜薬師本堂
森武牧の謎を追え。

 夕方にさしかかって、本日最後の訪問先の田中泥薬師を参拝。すでに薄暗い。
由緒を書いた看板によれば、
『武田信玄の勢力を駆逐するため織田信長の命を受けた美濃兼山城主 森長可が東濃各地に兵を進め神社、仏閣の焼き払いを命じた(誰に?)』
とのことだ。看板の『森長可』の文字は修正テープの上に書かれている。これをめくりたくなる衝動をこらえながら(まさか、めくれば「森武牧」の文字?)、続きを読むに
『村人たちは、お薬師様を難から守ろうと土中に穴を掘り隠して置き、世の平和を見定め田中の里にお祭りすると、お薬師様の安泰を喜び、それ以来村人たちは香華を供え、病のあるところに泥をつけてお祈りするようになった。』
 うん、福岡県民の私には瑞浪語がよくわからないけど、森長可の目につかないよう土の中に隠されて難を逃れたお薬師様が祀られているのだ。
 

田中泥薬師
現実は薄暗い中、高感度撮影しました。

 とりあえず、土中から救い出された薬師さまは地上に出ても泥の中に埋もれる運命にある。せっかくなので、くうくうさんと一緒にお薬師さんに泥を追加。
私は、頭がよくなりますように…と。

泥。
塗りつけ用の泥ストック。
泥薬師
この泥のコア部分に薬師さん
の石像があります。

旅の〆は、可児市の行きつけのお店で味噌煮込みうどんを食べた。
くうくうさん、お世話になりました。
お蔭で蘭丸山に登れました!(^O^)/

■ 6月6日 供養祭、ついでに光秀
兼山ゾーンへの入り口
今日は『蘭丸祭』バージョン。

 年に一度の森蘭丸供養祭
この日は全国各地から森蘭丸好きさんたちが森家の故郷の可児市兼山に集まる。
そして森家菩提寺の可成寺で催される法要に立ち会うのだ。この兼山では誰にも「森家って誰?何?」という顔をされずに森家を語れる。森家を語って当然な世界なのだ。森家を知らない人は「人ニアラズ。」と、つまはじきにされる世界なのだ!
それは、私にとって何という幸いなのだろうか___。

 朝は、可成寺と常照寺にお参りした後、兼山生き生きプラザで開催中の「蘭丸絵はがき展」を観覧。
 

蘭丸絵はがき展
 今年も力作ぞろいです。

 今年も2枚参加させていただいた。

森長可公御室 階庭玉蘭

 そうして、供養祭に列席する。
いつものメンバー、繭さん[URL]と団地猫さん、Kijokazuさん[URL]とやっさんさんに加え、初参加の城仲間、志麻さんとそのお友達とも合流。志麻さんはいきなり寺で転んで服を破きつつエロく登場。(^O^)

可成寺
供養祭バージョン


 読経・焼香に続き、筑前琵琶「本能寺」と「森蘭丸」の奉納演奏。
そして歴史講話「江戸時代における森氏の伝承」を聴講した。
これは、江戸時代において森家がどのように認識されていたかというお話。森家が転封をしてこの地域を去った後に、森家はどう語り継がれたのかなど、これは知らない話も含まれていて、大変勉強になった。まだまだ、調べる事は沢山あるのだ。

◆◆近世文書にみる森氏(レジュメまる写し)◆◆

・寛永20年(1643)「万蔵院境内除地につき平岡頼資黒印状」(『市史』5巻2 No.18)
 森長可が支配した特代のように境内を除地とする。

・明暦3年(1657)「今渡町御年貢御断願書」(『町史』史料編165号)
 今渡新町は森右近(忠政)の知行する特に立てられ、年貢が免除された。

・貞享元年(1684)下切村と大薮村の山論資料(『市史』5巻2 No.13)
 大薮村の山年貢は森右近(忠政)の時代から払われていた。

・貞享3年(1686)「大森・羽崎山論につき羽崎二野両村訴状」(『町史』史料編128号)
 大森村と羽崎・二野村(全て尾張藩領)の草刈場をめぐる争い。
 草刈場‥・兼山森武蔵様御知行以来の入会草刈揚(羽崎・二野村の主張)

・「土田村万書留」(『町史』史料編274号)
 元文3年(1738)に作成した様々な事柄の来歴‥・作成理由は不明
 内容:土田村内の神社、検地、御鉢、橋など以外に、他村についての記述もみられる。
・「土田白髪神社縁起」(『町史』史料編419号)
 明和元年(1764)に尾張藩書物奉行で松平秀雲によって書かれた。
 阿弥陀堂に鐘があった。
しかし森武蔵守が烏峰城の時を報せる鐘として奪った。

・丈化6年(1809)「帷子郷諸由緒書」(『町史』史料編145号)
 天正11年(1583)真禅寺に森武蔵守様の御黒印がある。
 森武蔵守知行高6万石

 
 しかも、今回、金山城の発掘品を手にとることができてことさらに感激した。
足みたいのを、足みたいな焼き物に触った!
すり鉢のカケラにも触った!森家のためにグゥリグゥリされたすり鉢に!!(^O^)

金山城の発掘品

 供養祭でお声をかけてくださった皆様、どうもありがとうございました。
整備された金山城跡の麓の石垣を、志麻さんたちにご紹介して解散。

金山城北側石垣

 供養祭が終わってから、団地猫さん、Kijokazuさんとやっさんさんとで残る時間を明智光秀の関係史跡に行ってしまった。私が言いだしたものの、森家のあとに明智光秀なんて、なんと恐ろしいことだ。
 兼山と同じ可児市内、”日本一大きな明智光秀の位牌のある”天龍寺を訪問すると、Kijokazuさんの叫び声。振り返ればヤツがいた。

天龍寺山門の反対側

モリ男(仮名)とキッ子ロ(仮名)じゃないか!!!

 と、いう訳で天龍寺にお願いして、日本一大きな明智光秀の位牌をお参りさせっていただいた。
どうして大きな位牌が残っているのか、その謎に迫ってみようと思いきや、これは平成に入って作られたご位牌のでピカピカだった。

天龍寺
明智一族の菩提寺
天龍寺・明智氏歴代墓所
どれがどれだかわからなかった。


 続いて、天龍寺のそばに偶然あった明智城跡へ登ってみる。
「桔梗坂」と名付けられた坂がもう怪しいな、と思ったのだが、そこには「明智氏発祥地」と書かれた水色ののぼりがはためき、大手門という表札のかかった大手門をくぐって山を登れば、すれ違った女性に「上にはお城なんてなかったんです。」とアドバイスを受ける。

「お城がない」の意味について、4つの仮説が成り立つ。
その1:一般人によくある”天守閣みたいな建物がない”ので「お城がない」。遺構はあるが、”天守閣みたいな建物がない”ので「お城がない」。(例:福岡城)
その2:開発などの破壊により、プロの目で見ても、ここには城の遺構が残存していない。(例:一宮城)
その3:彼女たちが城を攻め落としてきたので、もう落城して城はない。
その4:彼女たちが道に迷って城の領域にたどり着けてない。
 
まぁ、いずれにしろ上まで登りきった。
そこには本丸跡、出丸跡、馬場跡、七ツ塚などの石碑があったが、なんだかすべてがフラットなのでイマイチ城だと納得できるものがなく、やはり明智光秀は嫌いだということでモヤッとしたまま山を降りた。下山途中の道しるべはおかしな方角を示してあったので、私一人で行ったなら必ずそれに導かれて道を間違えて光秀を呪っていただろう。
「そうじゃなくて、こっちだろ。」と言える方向感覚のある人たちと一緒でよかった。
明智城はなかった___。
すれ違った女性たちの言いたかったことが、私、今になって、わかるような気がするんです。

明智城のコンクリ土台 大手門と書かれた明智城の大手門
 
明智城の本丸跡  


 
明智城跡の麓でKijokazuさんとやっさんさんとはお別れ。

そしてラストは森長可が本能寺の変後に攻め落とした大森城跡に団地猫さんと訪問。
遺構もちゃんと残っているらしい土の城跡だ。今回は、外側から見ただけ。
もう一度時間がある時に再訪問して、中まで踏み込みたい。

大森城遠景
あの小高い小山が大森城。


 今回も旅先でお会いした皆さま、大変お世話になりました。