津山をめざしてアクセルを踏む
       
津山市のマンホール
津山城の石垣と「ごんご」がモチーフ。


           
 2010年3月13日(土)-14日(日) in 津山 附・備中松山城 

■ 「院庄館跡と構城跡」と森家と嫁いらず


 週末高速1000円

 私は津山に往復2000円で行きたくて20,000円でETCを買った。
車で行けるようになれば、津山がうんと身近になる。嬉しい事だ。
さらに、カーナビ替わりに携帯電話をiPhoneに機種変更してiPhone用のカー ナビアプリもダウンロードした。これで後は津山に向けて走るのみとなった。

 津山では毎年春に文化財調査報告会があって、私も津山の ゆっきいさんから聴講のお誘いがかかったので、今がその時と、ETC搭載の車に乗りこんだ。(^O^)
今回の旅のお供はお城好きのケイさんである。
 『津山城のとてつもない素晴らしさを城好きのケイさんにも見せたい。』かつ『私の運転を手伝ってね。』ということで一緒に津山に向かった。

 早朝から福岡を出発する。
津山へ行く人でごった返すと思われた中国自動車道は、他に車がほとんどなくて爽快な走りだった。ただし路肩の雪が解けてなくていまだ積っており、道沿いの民家も雪化粧なので驚きつつ、『福岡は暖かいけど、冬の格好で厚着してきて良かった…。津山は激しく冷え込むに違いないから。』と安堵しつつ、SAで早くも自分土産に「津山名物ホルモンうどんのたれ」を購入しつつ、5時間半かけて念願 の津山にたどり着いた。(^O^)/
 ちなみに、せっかく購入したiPhoneアプリのカーナビは、電波が圏外づくしで現在地すらつかめずに全体の一割もまともに作動してくれなかったけどね!

しかしながらマイカーで憧れの森家の領土に踏み込んだこの喜び。森忠政の領土に乗り入れているのだというこの感動。
しかし、津山はポカポカ陽気で、一人厚着している私だけとても浮いてしまった。(-_-;)

 津山到着後、文化財調査報告会が始まる前に、いつもお世話になっている ゆっきぃさんが朝鮮出兵関係の史跡に案内してくださった。これは森家よりもむしろ宇喜多時代のものだけど、ちと、去年は私も森可政(忠政の叔父)の足跡を追って韓国まで唐入りした(しかも2度)ので大いに関心があった。
 まずは一宮構大庄屋邸跡へ。森家時代に大庄屋となった中島氏の邸宅があった敷地だ。
構(かまえ)というのはこちらの地方の平城の呼び名。
 
一宮構大庄屋邸跡
森家・松平家のもとで大庄屋となった中島家の
屋敷跡。

 中島氏は戦国末期の中島孫左衛門雄政の代には宇喜多氏に従って朝鮮の役に出陣した。その時に討ち取った朝鮮兵の耳を弔う耳塚がここ津山の地にあり、今は「耳地蔵」と呼ばれ、元来の弔いの意味も変わって今では”ここにお参りすると耳通りがよくなる。”ということになってしまっていた。
余談ながら長久手にも同じように「耳の病にご利益のある耳塚」がある。長久手町によれば耳塚の詳しい由来はわからないということだけど、きっと、元々は長久手の合戦の時の耳・鼻が埋まった塚じゃないかと私は思っている。津山の耳地蔵へ来て、何か納得するものがあった。菅原道真公の怨霊を鎮める天満宮で合格祈願をする日本人らしい発想の転換だ。

 続いて案内していただいたのは、中島孫左衛門が朝鮮より連れ帰った人の墓・唐人墓だ。説明の看板によれば、墓の主は故国の郷里の地名・松村(あるいは松県城)をとって「松村弥三郎」と名乗っていたそうで、一宮村の荒地の開墾・治水に実績があった人とのこと。松村家の子孫も大いに栄えたそうで、中には森家家中に仕えた方もあるようだ(私自身でその詳細は調べてませんが)。
 
その他参考文献:『四百年の長い道』尹達世
 

耳地蔵(元々は耳塚)
耳の病が癒えた人のお礼参りなのか、耳の形
をした石に紐を通したものが沢山吊るされてお
供えしてあった。
唐人墓
この墓石はもとは道路の反対側の小高い場所
にあったのを、工事の関係でこの場所に移した
とのこと。

 近くにある中山神社にもお参りした。
一宮という地名はこの中山神社が「美作一宮」であることに由来する。さらに、ご神門はもともと津山城の城門だったもの。

中山神社神門
もと津山城の二の丸の四脚門だったのが、明
治7(1874)年に廃城後の払い下げで移築され
た。

 さらに境内には、森長継(二代目森家津山藩主)寄進の石灯籠が二基ある。

森長継寄進の石灯籠その1 森長継寄進の石灯籠その2


 さて、午後になって、いよいよ津山市文化財報告会(in グリーンヒルズ津山リージョンセンター)だ。
 今回の報告会は『院庄館跡と構城跡』で、三部構成だった。
あ、ちなみに院庄館跡構城は森家も大いに関係がある。

より大きな地図で 院庄・構城 を表示
 森忠政が津山城を築く以前は、この院庄が美作の中心地だった。忠政も入部当初は院庄の地に入り、構城に落ち着いてこの地に居城を築こうとしたという話もある。しかし、家臣の井戸宇右衛門と名古屋九右衛門(山三郎)のいがみ合いによる院庄での刃傷沙汰のせいで縁起が悪くて断念したとか、そもそも院庄には水害が多い事がわかっていたので忠政は元よりここにに築城する気はなかったとか、院庄と森家にまつわるいくつかの話が残っている。(『森家先代実録』など)。


 「時間が無いので」「時間が無いので」と講師の皆さんがおっしゃる中で聴講した内容を気の毒なくらいに要約してみる。しかも、私が興味の強い部分の抜き出しなのでかなり偏っている。

講演1・『院庄』は何か〜中世院庄の歴史・地理学的分析 by 前原茂雄さん
・「院庄」の地名の意味→「院」=上皇。「庄」=庄園・荘園。つまり、上皇が保有していた領地。
・地名の元になった「院(つまり上皇)」とは誰のことを指すのか→従来は「後鳥羽上皇」とされているが、後白河上皇とするのが最も妥当。つまり、院庄は後白河院荘園領だった。
・歴史地理学的にみても、院庄館は鎌倉幕府には美作守護所であったと考えられる。
・構城は中世を通じて守護所的機能を保持していたという積極的理由はない。永正6(1509)年前までは、寺院(清眼寺)であったのではないか。

講演2・文献資料からみた院庄館・構城 by 森俊弘さん
・院庄館とは、津山市神戸の土塁を伴う方形居館。
・院庄構城とは、津山市院庄の平城。天正末年には片山氏が在城。慶長8(1603)年の森忠政入部にあたって同地は賢旨に適わず、津山城に移るまでの仮居所となる。寛永15(1638)年に破却、耕作地となり堀跡のみ残ると『作陽誌』にある。さらに大正時代に鉄道敷設の土取りで元の形を失っている。
・南北朝の守護館と想定される院庄館から、構城へと守護(代)所としての機能が移ったのは、応仁元(1467)年に画期が求められる。


講演3・城郭史からみた院庄館・構城 by中西義昌さん[URL]
・「構」とは→美作国東部から播磨国に分布する土塁・堀の防衛施設を備えた居館跡。平城。
・院庄館跡は津山盆地一帯の「構」と比べるとぬきんでて大きい。しかし、現存土塁については当時の遺構とは言えない可能性がある。中世以降の造成、近世の史蹟整備の可能性はないか検討する必要あり(たとえば、"森忠政が院庄館跡に築城しようとして普請したのではないか"とか、"森家家老・長尾勝明が院庄に後醍醐天皇と児島高徳の故事顕彰のために居館イメージで復元してみたのではないか"とか)。
・構城は戦国期から宇喜多氏時代に機能したとされ、森忠政が院庄入部の際に腰かけの城とした。主郭は100m四方で周囲を空堀で囲んだ典型的な「構」の縄張り。でも、森忠政のような国持ち大名の居城としては小さすぎる。森忠政が構城に改修を加えた痕跡に乏しい。
・森忠政が院庄に城を築こうとした可能性もありえなくはない。前の居城の松代(海津)城との類似性が見受けられる。
・森忠政にとって院庄は最初から腰かけの城だったのでは。
・あるいは忠政は、院庄築城の下準備の段階数か月の以内の家中紛争で津山城に築城の場を変更したか。
・またあるいは院庄に城を築こうとしていたけど、半年の間に条件の悪さから断念したのでは。

まぁ、一言でまとめると、森家はすごいということである。

 報告会が終わっていったんホテルにチェックインして宿泊部屋に入ると、窓から津山城跡備中櫓が見えて大いに興奮、ケイさんと交互に窓からデジカメをつきだしての撮影会となった。

津山城備中櫓
宿泊部屋から撮影。

 間もなくして宿泊ホテルにハナちゃんが来てくださった。森家を抜きにしても、私の人生にはなくてはならない大事なかた。ご無理を申して私と会う時間を作っていただいたのだ。(*^。^*)
 ゆっきいさんより宴にお誘いいただき、津山文化調査報告会の講師陣やスタッフの皆さまも交えて楽しく飲んだ。津山の地酒を飲みつつ、圧倒的な知識を持つ方々と森家を語る。嬉しすぎる。楽しすぎる。
 現在は私と同じ福岡県民の前原さんに「うききさんの森家サイト、チェックしてますよ。」とふられて驚いた。リップサービスかと思いきや、過去のRANMARU!サイトのクリスマスネタに到る詳細までご存知だし、「今日は、しまちゃんは?」とのお尋ねもあり…うぁわあああ!偉い先生にまでサイトを見られてるぅううう!入る穴を掘れ!
 ジモティーの森俊弘さんは、名字が「森」さんだけど、森忠政の家とは関係ないと教わる。「関係があるのか知りたくて歴史を調べるようになったのだけど、関係なかったです((笑))。」とのこと。でも、今や歴史の専門家。
 大分県竹田市職員の中西さんとは不思議なご縁で、2008年1月に私が竹田市に行って「森家のことで教えていただきたいことがあるんですぅ!!!」と乗りこんでいった施設で中西さんがご対応くださったのが出会い。その時に中西さんに「家内が津山市出身なもので。」と伺った時も『ええっ?!なぜ、ピンポイントで津山?!Σ(゜□゜;』とその奇遇さに驚いたけど、津山でお世話になっている ゆっきいさんと竹田市の中西さんがお知り合いだと1年後に分かってさらに驚いた。そして今、私自身が、こうして中西さんと津山で一緒に飲んでいる。
 森家が関わると、本当に日本とは狭い国だと本当に感じる。やはり森家で日本を統一すべきた。

 講師陣の皆さまから倉敷について「倉敷地とは荷物を一時保管する場所だから地名としては珍しくない。」と一斉に教わる。
倉敷っていうから、私は一瞬あっち(倉敷市)の倉敷と思ってしまった。あれぇ?倉敷市も森家の領地だったっけ?と驚いてしまった(違!)んだよ。
と、いうわけで話題に出した森可政のお城、倉敷山(美作市林野)の林野城にも行きたい。
 

 宴の席には、コリコリした郷土料理も出てきた。福岡では見たことがないので、肉かキノコかも分からず、ハナちゃんに「このプニプニした食べ物は何ですか?」と尋ねてみる。

ハナちゃん:「嫁いらず。」
私:「は?」

ハナちゃん:「嫁いらず。」
私:「は?」

ハナちゃん:「嫁いらず。」

私:「は?」

「嫁いらず」だそうです。
ホルモン料理らしい。食べかけの皿を撮影。

皆さま、楽しい一日をどうもありがとうございました。

ゆぅさん、わざわざ合流くださりありがとうございました!ビバ!ホルモンうどん!
Hさん、津山城の切手門の発掘現場の石段は、ばっちり押えました!
ケイさん、私がいない間に、すっ転んだのか!
Iさん、古文書解読のチェック、お世話になりました!


夜の闇にも圧倒させるほどの雄大さを失わない津山城跡を眺めながら宿へ帰る。
今宵会う人みなうつくしき (^O^)

■ やっぱり基本の津山城

 朝一番に森忠政が築城せし津山城跡へ登る。
森忠政公像にもご対面! 
森忠政公像
かっこよすぎる。イケメンすぎる。硬すぎる。
強すぎる。

森忠政公像に次ぐ津山城のシンボルとなった備中櫓も青空に映えて美しい。

津山城備中櫓
「100名城スタンプ」もここにあった。
ようやく私のスタンプ帳にもペタン!

切手門のところはちょうど発掘中だった。
森忠政時代の階段が発掘されていた。石が現在活用されている階段よりも大きくて立派だ。

現在の石段(奥)と昔の石段(手前)
切手門付近。
昔の石段の石
切手門付近。こっちの石段を使って登りたいけ
ど立ち入り禁止。

 ケイさんに津山城内を2時間バージョンで案内しながら、石垣の刻印も探す。

城内の表玄関へ到る入口 本丸の石垣
天守台 腰巻櫓石垣

一度、城内すべての刻印をチェックしてみたい。

津山城の石垣刻印

 2時間だけのつもりが、津山城跡見学に結構な時間をとってしまった。改めて大きな城だ。かっこよすぎて手に負えない城だ。じっくり見ていけば時間がいくらあっても足りない。
 
 続いて、院庄へ。
昨日の講演に出てきた院庄館跡(現・作楽神社)を訪問した。
院庄館は森家の家老の長尾勝明の壮大なPR活動のおかげか、今では”後醍醐天皇が隠岐に流される途中にこの館にお泊まりになり、それを知った児島高徳が桜の木に「天莫空勾踐 時非無范蠡」と刻んで天皇を励ました”という故事が前に押し出されて有名となり、境内にはそれ関係の石碑や児島高徳の銅像があり、森家時代以降、今もなお続々とその関係の顕彰碑などが増えつつある。

院庄館跡にある作楽神社
正祀:後醍醐天皇
配祀:児島高徳公
院庄館のお堀
昭和に入って学生さん達の手で掘られたものと
聞く。

 
長尾隼人建立の石碑
森家の家老の長尾隼人勝明が、院庄に
残る後醍醐天皇と児島高徳の故事を顕
彰して石碑を建立した。更に出雲街道か
ら道を引っ張ってきたうえ、石碑が風化す
るのを恐れて内容を書面に残し、清眼寺
などに預けている。
 

 続いて近所の構城跡へ。
城跡の遺構は田んぼと化しているがここ数年、発掘調査も行われている。

院庄構城跡
森忠政が美作に入ってまずここに落ち着いた。
次男の森忠広もこの地で誕生した。
森忠政公本陣之跡石碑
個人宅前に建てられている個人
の方の建立の石碑。

 また、院庄には森忠政が城を津山に移す原因となったとされる家中紛争の話と伝説の「にらみ合いの松」が残る。
 反りの合わない井戸宇右衛門(森家重臣)と名古屋九右衛門(忠政の義兄)が院庄で刃傷事件を起こして両名とも亡くなり、それぞれの墓に植えられた松の一方が栄えればもう一方が衰えるということを繰り返して、「にらみあいの松」と呼ばれるようになったとのことじゃ。

にらみ合いの松(手前と奥)
当時の松は枯れてしまって、今は
何代目の松なのだろうか?

 その後に岩屋城跡に行くつもりがまったく時間が無くなったので、岩屋城跡は次回にまわして津山を去ることにした。
その前に、津山名物ホルモンうどんを食べる。
 テーブルのでっかい鉄板で焼いてくれるお店のおばちゃんが具を混ぜるたびに、豪快に切ったネギがコロコロと四方八方に転がってゆく!それをピ−ン!とはじき返す我。

ホルモンうどん
店によって本当に味が大きく違う。
 森家とはあんま関係ないけど、おまけ編

 
「100名城スタンプ」を押しに岐路、備中松山城へ寄った。
ちなみに私は城主が誰かも知りません〜♪
 ここはかなりの山城であり、一本道の渋滞を避けて土日祝は車で上まであがらせてもらえず、自家用車は強制的に中腹の駐車場に停めさせられて、そこから有料バスに乗せられて城の中心部の山頂まで行くことになる。
 駐車場に着くなり、そこにいた人に「君たち急げ!」と言われて、「え?え?」と、訳も分からぬままバスの往復料金を払ってバスに乗車。言いなりで一路、城の主要部分に向かってゆく。
備中松山城の現存天守
一言でいえば、ちっこくて可愛い。
で、この天守の石落とし部分は
石落とし:壁面の出っ張りが石落とし。建物
の中に居ながらにして、石垣を登ってくる外の
敵に向かって石を落としたり熱湯をかけたり、
鑓で突いたりマヨネーズをかけたりできる仕掛
けになっている。

地面と近すぎて、見ているこっちが
切なくなる。

…というツッコミを入れたくなるのは私だけ
なのか?

 と、やってたところで私のデジカメの充電が切れてしまった…。
ここが森家史跡であれば大騒ぎして石垣にコンセントがついてないか探し回っているところだけど、ま、自分の眼に焼きつけとけばいっか。
(以降、画像ナシでお送りします。)

 もういつこんな奥地に来るかもわからないので備中松山城の天守のさらに奥まった場所にある秘密のダンジョン、大松山城にも行こうと山を進んでみたものの、道を間違って違う奥行きに入りこんでしまう。
 帰りのバスの最終時間が午後4:40と聞いていたのでそれには乗り遅れられないと、大松山城は諦めて時間に余裕を持ってバス乗り場まで行った。
ところが、寒さに震えつつ待てど暮らせどバスは来ない。あと5分、あともう10分と待ってみて、城から降りてきた人に「もうバスないって言われましたよ。」と教わる。
Σ(゜皿゜;帰りのバス代も前払いだったのに!キーッ!

 バスは諦めて自分たちの足で山を下りてゆく。すると、道の両側から野生の猿がわらわらと何匹も出てくるわ、出てくるわ…。
 猿とは眼を合わせてはならない、撮影しようとしてもならない、交際も申し込んでもならない。戦ってもならない。
こちらもサルを気にしないフリをして山を下りていけば、サル達も何も手出ししてこなかった。と、いうか目の前で2匹がじゃれあってアスファルトで毛づくろいなどしている。ケイさんがビビっているのをサルに悟られて連れ去られるんじゃないかという心配だけをしつつ山を降りた。
バスが来ないおかげで貴重な生き物を見ることができてよかったよかった!ははは!ははは!
はっはっはっ!!!(゜□゜) ←復路・前払いが腑に落ちない。

 帰りには偶然に行き合わせた山中鹿之介の首塚胴塚のセットもお参りして帰った。
画像ないけど。
 夜の中国自動車道は真っ暗で誰もいなくて、寂しくて怖くて泣きたくなる気がしたし、天気が心配だったので、山陽自動車道を通って帰った。運転中は眠気予防にiPhoneで懐メロ大会。声を出して歌ったりしながら九州へ戻る。

「若サ!若サってなんだぁ!振り向カナイコトサ〜ぁ♪(゜□+;)」

 そして時計は翌日になったけど、無事にマイカーで津山に行って、また帰ってくることができた。
と、いうことで、味をしめたので、また車で津山にリーズナブルに行くことにする。よって民主党は高速道路に関してもう変な値上げするでない。

 最後にケイさん、マイカーでの津山までの長距離の旅にお付き合いくださり、たくさん運転もしてくださり、どうもありがとうございました。
今だから言える”!私、帰りは運転しながら、半分くらいは眠気で朦朧としておりました♪

車でめぐっても、森家サイコー!
津山がより身近に感じられる旅でした。(^O^)/