週末高速1000円。
私は津山に往復2000円で行きたくて20,000円でETCを買った。
車で行けるようになれば、津山がうんと身近になる。嬉しい事だ。
さらに、カーナビ替わりに携帯電話をiPhoneに機種変更してiPhone用のカー
ナビアプリもダウンロードした。これで後は津山に向けて走るのみとなった。
津山では毎年春に文化財調査報告会があって、私も津山の
ゆっきいさんから聴講のお誘いがかかったので、今がその時と、ETC搭載の車に乗りこんだ。(^O^)
今回の旅のお供はお城好きのケイさんである。
『津山城のとてつもない素晴らしさを城好きのケイさんにも見せたい。』かつ『私の運転を手伝ってね。』ということで一緒に津山に向かった。
早朝から福岡を出発する。
津山へ行く人でごった返すと思われた中国自動車道は、他に車がほとんどなくて爽快な走りだった。ただし路肩の雪が解けてなくていまだ積っており、道沿いの民家も雪化粧なので驚きつつ、『福岡は暖かいけど、冬の格好で厚着してきて良かった…。津山は激しく冷え込むに違いないから。』と安堵しつつ、SAで早くも自分土産に「津山名物ホルモンうどんのたれ」を購入しつつ、5時間半かけて念願
の津山にたどり着いた。(^O^)/
ちなみに、せっかく購入したiPhoneアプリのカーナビは、電波が圏外づくしで現在地すらつかめずに全体の一割もまともに作動してくれなかったけどね!
しかしながらマイカーで憧れの森家の領土に踏み込んだこの喜び。森忠政の領土に乗り入れているのだというこの感動。
しかし、津山はポカポカ陽気で、一人厚着している私だけとても浮いてしまった。(-_-;)
津山到着後、文化財調査報告会が始まる前に、いつもお世話になっている
ゆっきぃさんが朝鮮出兵関係の史跡に案内してくださった。これは森家よりもむしろ宇喜多時代のものだけど、ちと、去年は私も森可政(忠政の叔父)の足跡を追って韓国まで唐入りした(しかも2度)ので大いに関心があった。
まずは一宮構大庄屋邸跡へ。森家時代に大庄屋となった中島氏の邸宅があった敷地だ。
※構(かまえ)というのはこちらの地方の平城の呼び名。
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一宮構大庄屋邸跡
森家・松平家のもとで大庄屋となった中島家の
屋敷跡。 |
中島氏は戦国末期の中島孫左衛門雄政の代には宇喜多氏に従って朝鮮の役に出陣した。その時に討ち取った朝鮮兵の耳を弔う耳塚がここ津山の地にあり、今は「耳地蔵」と呼ばれ、元来の弔いの意味も変わって今では”ここにお参りすると耳通りがよくなる。”ということになってしまっていた。
余談ながら長久手にも同じように「耳の病にご利益のある耳塚」がある。長久手町によれば耳塚の詳しい由来はわからないということだけど、きっと、元々は長久手の合戦の時の耳・鼻が埋まった塚じゃないかと私は思っている。津山の耳地蔵へ来て、何か納得するものがあった。菅原道真公の怨霊を鎮める天満宮で合格祈願をする日本人らしい発想の転換だ。
続いて案内していただいたのは、中島孫左衛門が朝鮮より連れ帰った人の墓・唐人墓だ。説明の看板によれば、墓の主は故国の郷里の地名・松村(あるいは松県城)をとって「松村弥三郎」と名乗っていたそうで、一宮村の荒地の開墾・治水に実績があった人とのこと。松村家の子孫も大いに栄えたそうで、中には森家家中に仕えた方もあるようだ(私自身でその詳細は調べてませんが)。
※その他参考文献:『四百年の長い道』尹達世
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耳地蔵(元々は耳塚)
耳の病が癒えた人のお礼参りなのか、耳の形
をした石に紐を通したものが沢山吊るされてお
供えしてあった。 |
唐人墓
この墓石はもとは道路の反対側の小高い場所
にあったのを、工事の関係でこの場所に移した
とのこと。 |
近くにある中山神社にもお参りした。
一宮という地名はこの中山神社が「美作一宮」であることに由来する。さらに、ご神門はもともと津山城の城門だったもの。
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中山神社神門
もと津山城の二の丸の四脚門だったのが、明
治7(1874)年に廃城後の払い下げで移築され
た。 |
さらに境内には、森長継(二代目森家津山藩主)寄進の石灯籠が二基ある。
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森長継寄進の石灯籠その1 |
森長継寄進の石灯籠その2 |
さて、午後になって、いよいよ津山市文化財報告会(in
グリーンヒルズ津山リージョンセンター)だ。
今回の報告会は『院庄館跡と構城跡』で、三部構成だった。
あ、ちなみに院庄館跡と構城は森家も大いに関係がある。
より大きな地図で 院庄・構城 を表示
森忠政が津山城を築く以前は、この院庄が美作の中心地だった。忠政も入部当初は院庄の地に入り、構城に落ち着いてこの地に居城を築こうとしたという話もある。しかし、家臣の井戸宇右衛門と名古屋九右衛門(山三郎)のいがみ合いによる院庄での刃傷沙汰のせいで縁起が悪くて断念したとか、そもそも院庄には水害が多い事がわかっていたので忠政は元よりここにに築城する気はなかったとか、院庄と森家にまつわるいくつかの話が残っている。(『森家先代実録』など)。
「時間が無いので」「時間が無いので」と講師の皆さんがおっしゃる中で聴講した内容を気の毒なくらいに要約してみる。しかも、私が興味の強い部分の抜き出しなのでかなり偏っている。
■講演1・『院庄』は何か〜中世院庄の歴史・地理学的分析
by 前原茂雄さん
・「院庄」の地名の意味→「院」=上皇。「庄」=庄園・荘園。つまり、上皇が保有していた領地。
・地名の元になった「院(つまり上皇)」とは誰のことを指すのか→従来は「後鳥羽上皇」とされているが、後白河上皇とするのが最も妥当。つまり、院庄は後白河院荘園領だった。
・歴史地理学的にみても、院庄館は鎌倉幕府には美作守護所であったと考えられる。
・構城は中世を通じて守護所的機能を保持していたという積極的理由はない。永正6(1509)年前までは、寺院(清眼寺)であったのではないか。
■講演2・文献資料からみた院庄館・構城
by 森俊弘さん
・院庄館とは、津山市神戸の土塁を伴う方形居館。
・院庄構城とは、津山市院庄の平城。天正末年には片山氏が在城。慶長8(1603)年の森忠政入部にあたって同地は賢旨に適わず、津山城に移るまでの仮居所となる。寛永15(1638)年に破却、耕作地となり堀跡のみ残ると『作陽誌』にある。さらに大正時代に鉄道敷設の土取りで元の形を失っている。
・南北朝の守護館と想定される院庄館から、構城へと守護(代)所としての機能が移ったのは、応仁元(1467)年に画期が求められる。
■講演3・城郭史からみた院庄館・構城
by中西義昌さん[URL]
・「構」とは→美作国東部から播磨国に分布する土塁・堀の防衛施設を備えた居館跡。平城。
・院庄館跡は津山盆地一帯の「構」と比べるとぬきんでて大きい。しかし、現存土塁については当時の遺構とは言えない可能性がある。中世以降の造成、近世の史蹟整備の可能性はないか検討する必要あり(たとえば、"森忠政が院庄館跡に築城しようとして普請したのではないか"とか、"森家家老・長尾勝明が院庄に後醍醐天皇と児島高徳の故事顕彰のために居館イメージで復元してみたのではないか"とか)。
・構城は戦国期から宇喜多氏時代に機能したとされ、森忠政が院庄入部の際に腰かけの城とした。主郭は100m四方で周囲を空堀で囲んだ典型的な「構」の縄張り。でも、森忠政のような国持ち大名の居城としては小さすぎる。森忠政が構城に改修を加えた痕跡に乏しい。
・森忠政が院庄に城を築こうとした可能性もありえなくはない。前の居城の松代(海津)城との類似性が見受けられる。
・森忠政にとって院庄は最初から腰かけの城だったのでは。
・あるいは忠政は、院庄築城の下準備の段階数か月の以内の家中紛争で津山城に築城の場を変更したか。
・またあるいは院庄に城を築こうとしていたけど、半年の間に条件の悪さから断念したのでは。
まぁ、一言でまとめると、森家はすごいということである。
報告会が終わっていったんホテルにチェックインして宿泊部屋に入ると、窓から津山城跡の備中櫓が見えて大いに興奮、ケイさんと交互に窓からデジカメをつきだしての撮影会となった。
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津山城備中櫓
宿泊部屋から撮影。 |
間もなくして宿泊ホテルにハナちゃんが来てくださった。森家を抜きにしても、私の人生にはなくてはならない大事なかた。ご無理を申して私と会う時間を作っていただいたのだ。(*^。^*)
ゆっきいさんより宴にお誘いいただき、津山文化調査報告会の講師陣やスタッフの皆さまも交えて楽しく飲んだ。津山の地酒を飲みつつ、圧倒的な知識を持つ方々と森家を語る。嬉しすぎる。楽しすぎる。
現在は私と同じ福岡県民の前原さんに「うききさんの森家サイト、チェックしてますよ。」とふられて驚いた。リップサービスかと思いきや、過去のRANMARU!サイトのクリスマスネタに到る詳細までご存知だし、「今日は、しまちゃんは?」とのお尋ねもあり…うぁわあああ!偉い先生にまでサイトを見られてるぅううう!入る穴を掘れ!
ジモティーの森俊弘さんは、名字が「森」さんだけど、森忠政の家とは関係ないと教わる。「関係があるのか知りたくて歴史を調べるようになったのだけど、関係なかったです((笑))。」とのこと。でも、今や歴史の専門家。
大分県竹田市職員の中西さんとは不思議なご縁で、2008年1月に私が竹田市に行って「森家のことで教えていただきたいことがあるんですぅ!!!」と乗りこんでいった施設で中西さんがご対応くださったのが出会い。その時に中西さんに「家内が津山市出身なもので。」と伺った時も『ええっ?!なぜ、ピンポイントで津山?!Σ(゜□゜;』とその奇遇さに驚いたけど、津山でお世話になっている
ゆっきいさんと竹田市の中西さんがお知り合いだと1年後に分かってさらに驚いた。そして今、私自身が、こうして中西さんと津山で一緒に飲んでいる。
森家が関わると、本当に日本とは狭い国だと本当に感じる。やはり森家で日本を統一すべきた。
講師陣の皆さまから倉敷について「倉敷地とは荷物を一時保管する場所だから地名としては珍しくない。」と一斉に教わる。
倉敷っていうから、私は一瞬あっち(倉敷市)の倉敷と思ってしまった。あれぇ?倉敷市も森家の領地だったっけ?と驚いてしまった(違!)んだよ。
と、いうわけで話題に出した森可政のお城、倉敷山(美作市林野)の林野城にも行きたい。
宴の席には、コリコリした郷土料理も出てきた。福岡では見たことがないので、肉かキノコかも分からず、ハナちゃんに「このプニプニした食べ物は何ですか?」と尋ねてみる。
ハナちゃん:「嫁いらず。」
私:「は?」
ハナちゃん:「嫁いらず。」
私:「は?」
ハナちゃん:「嫁いらず。」
私:「は?」
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「嫁いらず」だそうです。
ホルモン料理らしい。食べかけの皿を撮影。 |
皆さま、楽しい一日をどうもありがとうございました。
ゆぅさん、わざわざ合流くださりありがとうございました!ビバ!ホルモンうどん!
Hさん、津山城の切手門の発掘現場の石段は、ばっちり押えました!
ケイさん、私がいない間に、すっ転んだのか!
Iさん、古文書解読のチェック、お世話になりました!
夜の闇にも圧倒させるほどの雄大さを失わない津山城跡を眺めながら宿へ帰る。
今宵会う人みなうつくしき (^O^)
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