宇佐山城はよいお城実感ツアー

                  
 2010年2月13日 in 滋賀 


旅程:龍華越え→堅田城跡→来迎寺→宇佐山城跡(今回の旅のメイン会場)

■ あなたと〜越えたい〜龍華越え〜♪ 

 
 
  元亀元年(1570年)5月
 敵である浅井・朝倉軍の南下を防ぐために森可成(蘭丸の父)は近江の西南に宇佐山城を築いた。京への入り口に当たる場所だ『信長公記』では5月だけども、『多聞院日記』では3月にはすでに宇佐山には要害があった)。
 その9月には可成は壮絶な戦死を遂げてしまうが、織豊系城郭で最も初期の石垣造りの城がこの宇佐山城であり、うさやマンボウであり、知り合いの城郭研究の先生の言葉をお借りすれば”現代の城郭研究において『安土城より宇佐山城』と言われるほどに貴重な”宇佐山城なのだ。

 今回、宇佐山城ツアーには、ラッキーなことに、違いが分かる漢の城好きさん達がご一緒してくださることになった。これぞ鬼武蔵に金棒、信玄にタケノコである。
色々と教わるところも大きいと期待を大にした。


 当日朝、京都駅で城好きさん達4名と激しく適当に待ち合わせした。
なので、電話で居場所を探しあってようやく集合できた。

 全員集合したところで、メンバーの車に乗っけてもらって龍華越えコースで滋賀県へ到る。

 この道は森家のご先祖である源(森)義隆が平治元年(1159年)、源義朝とともに京より落ちのびて行く時に進んだ道だ。『平治物語』に詳しい。
 「途中越え」とも呼ばれるこの道は、今は途中道路と言うのである。かっこいくない。龍華越えのが断然かっこいい。「龍華」と言っていただけたほうが、落ち武者になってしまって落ち延びる時でも、よりよい悲愴感&エクスタシーに浸るとができるというものである。

 そんな龍華越えではおもいッきり雪が降っていた。
車を路肩に停めてもらって外に出て龍華越えの道をデジカメでパシャパシャ撮影した。
心行くまで撮りためて車に戻ると、
「龍華越えの道を撮るんなら逆方向だよ。あっちを撮影しない と。」と言われてΣ(゜□゜;、また撮影しに出る。
龍華越えの道
森義隆の落ち延びロード。
この時に襲われて討死した義隆の
首は、源義朝の手で琵琶湖・堅田
の浦
に沈められた(『平治物語』)。

 車でそのまま堅田(大津市)へと出た(堅田は「かたた」と読むらしい)。
琵琶湖が見えてくる。
(まだ森家ご先祖モ−ド:)討たれた森義隆の首が義朝の手で沈められた堅田の浦の琵琶湖の水。
私にとっては、この広大な琵琶湖こそが森義隆の墓そのものだ。たとえ、ピラニアやブラックバスが生息していようが鳥人間コンテストが行われていようが、琵琶湖は森家ゆかりの美しくも悲しい湖なのである。堅田の浦から対岸に泳いでいけば安土城跡もあることだし、ブラボー。


 堅田では、メインとして戦国時代の堅田城跡を目指した。
とは言っても、当時の縄張りは、おおまかな場所が分かっているだけで発掘調査もしていないので遺構や領域が特定できていないらしい。

みよ、大津市の観光案内のこのアバウトさを!→地図

そして、そのアバウト地図を頼りに訪問してしまった我々を。
ここは●●タバコ屋前だぞ。堅田の城跡を示す石碑なんて皆無である。
しかし、確かに堅田城は琵琶湖に望む水城だった。
 

堅田城跡
とりあえず、堅田城跡の領域であったであろ
うと思われる付近を撮影。
堅田城は元は朝倉方の兵糧庫だった。

 これは、森可成が戦死した後の話になるが、浅井・朝倉軍は、この地域で唯一、信長に味方してきたこの堅田城にも襲いかかる。信長が八方ふさがりで本当に大変だってこの時に、なんて意地悪な人たちなのだろうかと思うが、その加勢をするために堅田城に入ったのが坂井政尚なのだ。

 坂井政尚と言えば、坂井政尚と森可成とは信長創業期における同期でもあり(仲悪いけど)、また、政尚の子息・久蔵と可成の娘(鴻野さま)は信長の介在による許嫁でもあった(久蔵が姉川で戦死したんでお流れになったけど)。
 なので、なんか坂井さんも私の中では気になる存在であり、森家の範疇に入ってしまっているので今日の堅田城である。そして、坂井政尚もここで戦死してしまったけど。
 
 この年、元亀元(1570)年の織田信長を”周りを見渡せばみんな敵”状態で、自身の生命の危機でもあり、信長を助けるために森可成や坂井政尚ら創業期の大事な功臣たちは命を落とした。
 織田信長がその遺臣の息子たち大事にして左右においたがために、息子(森蘭丸・森坊丸・森力丸・坂井越中)たちもまた本能寺で織田家のために命を落とすのだけど。

 

堅田城跡一帯
平安時代より存在した浮御堂(建物は昭和の
再建)のある琵琶湖の風景。

 近隣には江戸時代の堅田陣屋もある。
森家とは関係ないけど、城好きさん達が遺構を嗅ぎつけてしまったので、ついでに陣屋めぐりもした。

 続いては比叡辻で大軍を迎え撃って亡くなった森可成の眠る来迎寺へお参りした。
織田信長を恨む浅井・朝倉軍は、「打倒!織田信長」と蜂起した石山本願寺一揆軍とコラボ出陣し、三万にのぼる大軍で信長のいる大阪を目指した。
 その大軍の前に三千の兵で立ち塞がったのが宇佐山城から討って出てきた森可成だった。初めは朝倉軍に猛攻撃を加えて勢いづいていた森軍も、浅井軍との挟撃に遭い、さらに浅井長政本隊まで戦いに加わり、とうとう可成は討ち取られてしまったのだった。

 その可成を手厚く葬ってくれたのが来迎寺。
土地柄こちらの山門は坂本城の移築となっていて、城好きさん達はむしろそのほうに興味があったと思われるが、その門は平成24年まで解体修理が行なわれるらしく、丸ごと覆われていて、全く見ることが叶わぬ状態になっていた。

森可成の墓のある来迎寺
奥の白いのはコルテオのテントではなく、旧・坂
本城門の山門修理工事現場。

 それでも頭上にあるわずかな工事現場の覆いの隙間に一眼レフを突っ込んで解体修理中の門を無理矢理に撮影しようとする城好きさん達。
「むしろ、こうなっていたほうが嬉しい。」と発言する、城好きさん達。
 もしこれが あだち充漫画であったら、きっと覆いの中には入浴中の女の子がいて「きゃあ!エッチ!」と、お湯をぶっかけてきて、”これが彼女と僕との出会いでした。”となるのであるが、そういうこともなく、城好きさん達は解体中の門を撮影しまくり。

旧・坂本城門(来迎寺)
私もデジカメを工事現場につっこんで撮影。
一部の部分しか写ってないけど…。

 しかし!私にとって大事なのは、坂本城跡ではなく、森可成のお墓。私の人生を形づくってくれた人よ。またお参りすることが叶ってこの上なく幸せだった。

森可成公の墓 森可成公の墓(裏面)

 同じ境内には、織田秀信の母の墓もある。
 運が向けば織田家のファーストレディーともなれたはずのこの女性が、森可成の大きな墓の背後、寺の片隅で石塔を他の墓石と押し合うように並べられて眠る。

寿々の方の墓
織田信忠の側室。
摂津・塩川氏の娘という。

 来迎寺の目の前が「比叡辻」。森可成が戦死した比叡辻とは、この付近のことだったのか。

比叡辻の看板
 可成最期の時より、ずいぶんと様
変わりしただろうこの風景。
とりあえず、50キロで走ってください。

 その来迎寺や比叡辻とは目と鼻の先にある坂本城跡

 なんでもこの坂本城跡は明智光秀とかいう不思議な男の人が城主だったようだが、逸話(嘘か本当かは分からない)においては森蘭丸が父の旧領だからという理由で『近江坂本八万石』を欲しがっており、住人である光秀そっちのけで織田信長と交渉している。この話を障子越しに聞いていた光秀は信長に疑念を抱くようになったという。
たまたま障子越しに聴く___。学園ドラマのようなシチュエーションだ。

「森蘭丸の脳裏をよぎったかも知れない城」と、いうことで坂本城跡を訪問した。
 

坂本城跡石碑その1
この石碑の場所が二の丸・三の丸
の境付近。
どうでもいいけど、背後の赤い傘は
鋼鉄製だ。

 城跡の敷地の何箇所かに坂本城跡の石碑があり、また、明智塚と呼ばれるものもある。

明智塚
坂本城落城の際に光秀の宝物を埋めた跡で
あり明智一族の墓所であると伝わるのだそう
だ。
坂本城本丸跡
琵琶湖を巧みに利用した水城。安土城とは船
での行き来も可。

 続いて、なぜか、お城の専門書では画像挿入が避けられているような気がする坂本城を示す最大の石碑と、明智光秀石像。

坂本城址
この石碑の建つ坂本城跡公園には、明智光秀
石像もある。

 この公園に立ってる明智光秀石像は、中国武将の甲冑っぽい。しかも、背後を見ると、ウ●コぶりぶりに見えていたしかたない(失礼)。

明智光秀公石像
うまく撮影できたと思う。
現物はショックなものだから。
明智光秀公石像
みっちゃんみちみち。

 坂本城跡より見える琵琶湖の水。坂本城の石垣もこの水の中にあるという。
一度、全部汲みだして中を確認してみたいものだ、ピラニアぴちぴち。

坂本城跡より見る琵琶湖


 お昼ごはんは坂本のすき家161号店で、飲み物というべき勢いで丼物をかきこみ、一路、メイン会場の宇佐山城跡へ移動した。

■ 宇佐山城〜最古の織豊系城郭
 
 山の麓には、宇佐八幡宮がある。お参りしてからいよいよ城跡に入る。
宇佐八幡宮礎石
掘り出された創建当初の礎石とのこと。
宇佐八幡宮
境内にあった解説によれば、宇佐山城の戦火
により焼失したこともあったという。


 車内で宇佐山城に関する資料コピーをメンバーに配布したり、されたりしていたのに、いざ城跡に到着すると、縄張図や登り方の資料コピーを「もったいないから、持ち歩かずに保存。」「汚しちゃいけないから」と言うことで車内においてきたりで、万全に資料を整えておきながら
「えー、城の入り口ドコー?
(゜□゜)ノシ
と、しょっぱなから迷い道。
 資料コピーは、持ち歩き用と保存用とを用意していな いと、時には「ああっ!もう一部コピーさえしていたなら遭難することもなかったであろう!」と、命に関わることにもなりかねないのだと悟った。

で、でっかい看板のある所から山に入って行ったのだった。

宇佐山城入口
ここから大手にいたる道に入っていく。


 絶対に転ばぬために、杖スティックを両手に二本握りしめてガスガスと土に刺して山に登るメンバーもいて、なんだか宇佐山スキーしているみたいだ。

 山頂に向かって歩いて行くと、まとまった石垣が見え始める。穴生(あのう)積みと言われる石垣だ。森可成の形見ともいえる城の石垣は、落ち着きがあって美しい。
(怖いことに、一方では明智光秀が宇佐山城を修復した時のものという可能性もあるので、私は実は光秀の仕事を褒めちぎっているかも知れないというハラハラな一面もあるが、やはりこの城の基礎を築いたのは森可成なので、このままの勢いでかけめぐります。)

宇佐山城跡の石垣
山を登るとまず目に入ってくる大手の石垣。


 そして、道なりに城の中心部分に入ると、頭の上には曲輪が突出してい る。
武者隠し」という仕掛けを持つ施設で、塹壕の形状をしている。ここから森軍の武者たちは上から目線で大手道、搦手道から登ってきた敵をパーン!パーン!と撃つことができるのだ。
 さらに敵兵の足元に叶姉妹の水着写真などをばら撒いて足留めを食らわせれば、攻撃力が倍増するかと思われる。

武者隠し
こーんな風に塹壕に入って、下方の道か
ら攻めのぼってきた敵をウェルかめ。
武者隠し
攻めのぼってきた敵を迎え討つ
塹壕。
 


 実際に籠城経験を持ち、死守しきった宇佐山城だ、この武者隠しも活躍したかも知れない。

大手道と搦め手の交わるところ。
侵入者が本丸をめざしてここを駆け
抜けると武者隠しから攻撃をうける。
武者隠しからの攻撃
鉄砲で狙われる。

 本丸に登る前に、南北に伸びる曲輪を見て回った。
準備してきた縄張り図には書ききれていない曲輪もある。まるで、棚田のように曲輪が展開し、なんだか衝動的に田植えをしたくなる。敵が城に登ってきたら、曲輪から攻撃し、その曲輪を突破されたらまたその次の曲輪から攻撃する。城好きさん達をもときめかす、システマチックな構造だ。


 そして、いよいよ本丸へ___。

宇佐山城本丸
鉄塔やら何やら、広くない敷地は
建物でひしめいている。


 決して広くはない本丸は鉄塔などの建造物に面積を奪われて、もぅ、どう写真を撮影していいのやら。しかも、当時のものと思われる石の列や暗渠が建物の下敷きになっている。床下にもぐりこんで撮影せねばならなかった。

宇佐山城本丸跡
現代の建物の床下にもぐるとそこ
には宇佐山城メモリー。
床下には…
宇佐山城跡の遺構かも知れない石の列。

床下には…
宇佐山城跡の遺構かも知れない暗渠。


 さらに、本丸跡には桝形虎口(発掘調査によれば櫓つきだったみたいだ)や石段らしき遺構もあり、虎口のそばには四角い大きめの穴ポコもあり、感激して夢中で落ちてみて、ふと気づけばメンバー五人の姿がどこにもない。

長方形の遺構
空堀?


Σ(゜□゜;がふ!またか!また置いてかれた!!
去年の蔚山城(韓国)でも気づけば城好きさん達は一目散に石垣に走り、気づけば私は一人きりだった!


 諦めていたところ、一名だけが私の存在を気にかけて戻ってきてくださり、ホッとする(/_;)

 皆の所在が分かり、私もそこを目指せば、一段低い場所にある石垣に皆はもう夢中になっているというか、興奮しているというか、木の上に登るわ、高額な一眼レフをドスドスと急斜面を転がすわ、石垣がまだ土の下にあるとかきわけるわ…。

城好きさん達をここまで虜にさせる宇佐山城は魔物だ。
森可成の宇佐山城___
父よ、貴方の創造物は、今まだ一部の人々をかくも夢中にさせるのです。

東南の石垣
この木の根ように、私も石垣に めりこみたい。
  東南の石垣
キレイ。

 さらには、城好きさん達は
「崖のとこに、ちょっと石垣があるから!崖、降りようぜ。」
と、背丈以上にある草むらの中にワシャァア!!!と、飛び込んで消えてゆく。

ちょっぴり命に関わる感じな斜面のような気もするけど、なんてサイコーなんだ!
一人で山に入る時はさすがに勇気を出せない場所なので、城好きさん達と一緒にこれて本当によかったと感激した。(^O^)/
私も草むらに入ってゆき、崖をくだる。


この草むらの中を抜ければ!
そこは雪国である!

 って、何もしてないのに、いきなり私のデジカメが壊れた。Σ(゜□゜;

デジカメ最期の画像
ギャアアア!!!雪国ぃいい!!

 「デジカメが!私のデジカメが!!」草むらの中で大騒ぎしながら崖下に降りると、そこには、今ではほとんどの人の目に触れない場所にプチ石垣が本当にあった。
さらには、スライダーのような竪堀が何本も走っている。これを滑れば麓まで滑走できそうだ。

 
デジカメ討死につき、以下の2画像をiPhoneカメラでお送りします。

南西の崖にある石垣
どうしようもなく見づらいけど、草に隠れそうな
小さな石の列。
  南西の崖からのびる巨大な竪堀
こういうのが山の中腹から尾根に
向かって数本走っていた。

 宇佐山城を満喫した後は、大阪に入り他の城好きさんとも合流して、なんの脈絡もない氷見の魚に舌鼓をうちつつ反省会。調子こいて飲み食いしてしまい、大出費の反省会そのものが一番反省を要した。あー、大名になりたいー。
でも、帰りの夜行バスの時間ギリギリまで楽しんだ。

城好きの皆さま:
しん様さん、介さん、NACKさん、くうくうさん、
そしてわざわざ反省会に参加くださった志麻さん、
今回もお世話になりました。(^O^)/

お陰さまで、宇佐山城のことが今まで以上によく理解できました。
私が森家が好きだから宇佐山城がよいと思うのではなく、城の遺構を理解したうえで、宇佐山城がよい城だと思えたので、とても嬉しかったです。m(_ _)m 

 参考書籍

・『大津市・宇佐山城跡調査概要』
滋賀県教育委員会 昭和47年
・『滋賀県中世城郭分布図9』
滋賀県教育委員会 平成4年
・『戦国の大津』
大津市歴史博物館 平成19年
・『戦国の堅城 U』
学研 2006年
・『近江の山城ベスト50を歩く』
中井均 編 サンライズ出版
・『近江戦国探訪』
滋賀県教育委員会 サンライズ出版
・『城と湖と近江』
「琵琶湖がつくる近江の歴史」研究会 編 サンライズ出版