森家刻印ついでに兵庫の城ショー         2009年11月7日 in 兵庫県 

井城登城記念で全体的に黒くしてみました。

黒井城本丸跡から眺める丹波
■ 竹田城跡でマチュピチュ

 
下の画像は但馬の竹田城跡です。
豊臣秀吉がウッキキと但馬攻めした時にはまだこんな立派な石垣はなかった竹田城跡です。
映画「天と地と」のロケ地になった竹田城跡です。
 森家とは深くは関係ない城モノですけど、これが「天空の城」「日本のマチュピチュ」として名高い竹田城跡です。
 下の画像はクリックすると、さらに大きくて美しい画像を見ることができる竹田城跡です。
竹田城跡(※画像は介さんより奪取)
のたうち回りたくな
る雪景色。
神様を信じたくなる
日没か日の出の情
景。
ドライアイスでは
再現できない幽
玄の世界。

 こんなに美しいものを見れば、「もう死んだっていい!」と思うだろう。私は思わないけど。


 今回の旅は、お城好き仲間さん達に、但馬の竹田城跡、丹波の黒井城跡(森家がらみ)、篠山城跡(森家がらみ)に連れて行ってもらえるのだ(行く先はすべて私のリクエスト)。


 夜行バスで朝6時に三ノ宮駅前に降り立てば、もうみんなが駅前で待ってくれている。
城スキーの、しん様さん、介さん、NACKさんが今日の旅のお供。森家好きの友達は来れずに残念!


 早速にしん様さんカーを走らせて、兵庫県朝来市に向かう。
だんだんと高速道路は360度霧に突入して前が見えないほどになったので、これは竹田城跡の雲海も期待できると、胸を踊らせる。

「これはほぼ大丈夫でしょ。」「霧が見れるヒトは竹田城に愛されているんだよ。」としん様さんに太鼓判を押されてますますヒートアップしつつ、最後のトンネルを抜けて但馬に入ったとたん、そこは霧が晴れ上がって見通し抜群のカラッと爽快ワールドだった。

何だろう、期待させられた後の、この”突き落とされた感”は。
誰かドライアイスばらまきでもよいから、竹田城に霧を出してぇ〜!(:_;)
この際、消化器を竹田城にブシューっと吹きつけるのでも可。
 
 竹田城跡は、それでも、かすかーーーに、プチ雲海というか、ガスっていた。

竹田城跡(※画像は管理人撮影)
ちょっと雲海のようなものがあるのを視認。

 でも、よいのだ。
マスコットの霧がなくても竹田城跡は青々とした空の下に翼を広げて君臨している。私はこの石垣で囲まれた美しく整う曲輪の左右の広がりに、心奪われて目が離せなくなる。

竹田城跡
日本のマチュピチュ。天空の城。
山城の聖地。
竹田城天守台(奥)
目が離せなくなるような風景。

 初めての竹田城跡!
森家は関係ないけど、森家は関係ないけど、来ることができてよかった。
森家は関係ないけど、嬉しくてホイホイと城跡を回った。もう絶対にこの配置しかない!という感じにそびえる石垣を見上げた。本当に美しい、森家が関係ないにしては素晴らしい城だ。

 森家は関係ないけど、感動も覚めやらぬまま、竹田駅観光案内所に寄って、本などを購入。(^u^)
案内所の方がしきりに私に語る。
「残念ね。昨日だったら雲海すごかったのにね〜。せっかく福岡からみえたのにね。昨日だったらね、昨日じゃなくて、残念ね〜。昨日はすごかったのよ〜。昨日だったらよかったのにね〜。(くり返し)」

 霧がなくても十分竹田城跡の景色に満足していたはずなのに、私は地味に感動指数を削り取られて、むしろ無念でいっぱいになったまま、この地を後にする。

■ 黒井城でズンドコベロンチョ

 それから再び車に乗って丹波の黒井城跡へ。

 『森家先代実録』によれば、天正二(1574)年の丹波攻めには、明智光秀、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀とともに、森長可も加わっていた。
 多くの小城の主などは逃げ出したり、降参したりで、丹波攻めもうまいこといっていたのだけど、黒井城の城主・赤井悪右衛門直正は降参しようとしなかった。
黒井
城なのに、城主が赤井というのは当時より数百年間、何度となくツッコマれたであろうから敢えて深く掘り下げないが、それはともかくも、黒井城が粘っている間に勝家一益、長秀、長可にはご帰陣の命令が出たので丹波を去らねばならなかった。そして光秀だけが残って、丹波平定を成し遂げる(赤井は病気で亡くなってしまった)。

 そう。
 この黒井城の事は『森家先代実録』にもちょっぴり登場するので、行きたいと思っていたのだ。森長可とは実際にはかすってないかもしれないけど、かすってたらいけないので、私は黒井城跡に登らねばならない。森長可は、黒井城をチラ見ぐらいはしたかもしれない。
いや、黒井城という単語が森長可の頭をかすめただけでも、登ってみる価値はあるのではないだろうか。

 とりあえず黒井城跡の山の麓に車を停めようとすると、交通整理してる人に付近の駐車場は満車と言われて遠い場所にある駐車場を案内された。
Σ(゜□゜;なんで!
なんで黒井城跡にそんなに人来るの?!
黒井城跡のために、交通整理があるの?!
竹田城跡にもぶたれたことなかったのに!
 
 不思議すぎるので、交通整理の人に尋ねたところ、「黒井城まつりです。」とのこと。予期せずにお祭り当日に春日町に来ちゃったようだ。
 黒井城の麓は、春日町という住所。
 明智光秀が黒井城を攻め落とした後は、家臣の斎藤利三がこの地にいた。その娘、春日局(お福)の生誕地でもあるらしい。

 まずは、赤井悪右衛門直正が開基の興禅寺へお参りする。
お寺で買い求めた本の情報では、打倒信長に燃える武田勝頼から赤井直正に宛てた書状も残っているらしい。甲斐と丹波との遠距離挟み打ち。
興禅寺の水堀と高石垣
この寺の敷地は、かつての黒井城の下館だっ
た。
  興禅寺惣門
黒井城の門材を使った門
と言われている。


 そして、いよいよメインの黒井城跡へ登ることにする。
私以外のメンバーは黒井城跡は過去に登城済み。リアクションを見るにしんどい山城のようだ。NACKさんは「もう二度と登らない。」と豪語しながら、登るのは二度目という黒井城跡へいざ。

黒井城跡
山の麓にある石碑。

 獣避けの金網の扉を開けてあとはひたすらに傾斜のすごい坂道を本丸めざして登る。キツイと聞かされていたけど、坂の勾配よりも、コンパスの短い私にとっては足場の幅が広さがどうにもキツイかった。
これを攻め立てるのだから、昔の兵士すごいよ!かっこいいよ!(明智光秀を除く) 

 山で我らがそんな風にひーこらしている時に麓の小学校で黒井城まつりが始まる。
そこで校内アナウンスのマイク音声が山にも響き渡る。


放送:「ズンドコベロンチョさぁん?準備はできましたか?ズンドコベロンチョさぁん?


思わずドリフコント状態で山からずり落ちてしまいそうになった。

ズンドコベロンチョって…この、ヤケに脳裏に刻み込まれてしまう言葉は何?!
汗をぬぐいつつ、熊が出るかも知れない山中でズンドコベロンチョとは何ぞと話題になる。
まだめぐり会ったこともないズンドコベロンチョを胸に、黒井城の山頂を目指す。

黒井城跡の遺構「三段郭」の案内版発見。

「うわ、この黒井城の三段郭の構造ってどこから始まるの?」

それは、ズンドコベロンチョ。

太鼓櫓跡は先に行く?帰りに寄る?」

それこそズンドコベロンチョ。

 30分ほど登ってようやく山頂の本丸跡を踏み締めた。
空は青々として石垣がよく映える。
しばらくは本丸跡の草の上に腰掛けて360°の大パノラマの景観を楽しんだ。山頂は草も温かくてモフモフしていて、つい寝ころびたくなる。しかし、ネコロビレンジャーの介さんが我先にと転がっていたので、出遅れた。

黒井城跡
丹波の赤鬼・赤井悪右衛門直正の城
東曲輪跡 本丸の石垣
本丸の石垣 本丸跡
あれ??保月城になってる???


ズンドコベロンチョついでに、追加のもう一枚。

本丸と二の丸を渡す土橋
こんなにキレイに土橋を撮れたのは
私史上初かも!

 下りは滑りやすくて登りよりも気を遣う。しん様さんやNACKさんがいきなり視界から消えたかと思うと、坂道で滑ったり転んだりしていた。
いや、NACKさんは転びそうになるのを一瞬ムン!とふんばって耐えた。でも、ふんばったまま転がっていった。その様子を私は静かに見学。
 
と、いうことで、やっぱり黒井城は名城だった。

黒井城まつり会場
偶然にもこの日がおまつりだった。


 お昼どきに山を降りると、黒井城まつり会場では戦国汁松茸ご飯が無料でふる舞われていたので、さりげなく侵入して美味しくいただいた。
 黒井小学校児童による赤井さんの学習発表も参観。彼らの演じる明智光秀はかなり悪いヤツで、なんて素直な子供たちなのだろうと感心することしきり。

 介さんによれば、同じ丹波でも明智光秀は地元の評価は東側ではいい人だけど、西側では悪者とのこと。でも、丹波の外では明智光秀は地元を除いて全国一律に悪者扱いだと思うので、光秀の味方は全国で丹波の右側と地元だけということになる。
 

戦国汁と松茸ご飯
黒井城跡
黒井小学校児童による赤井さんの学習発表

 突然どこからか歩いて来たゆるキャラにも不意をつかれたが、このピンクは両ワキを見せているだけですぐに子供達に寄ってこられて、たかられて、叩かれていた。
(※丹波竜の「ちーたん」だそうです。赤井悪右衛門と名乗られたらどうしようかと思った。)

 武者行列もあった(10人くらいの列)。時代考証ひっちゃかめっちゃかの武者達が車輪のついた手作り大砲を押して、たまに前の人から遅れて「待って〜」と小走りしながら会場へ入り、あとは校庭のトラックに沿って歩いていた。
「えい!えい!おう!」のかけ声、そして、不意をついて大砲ドーン!
大砲は造り物と油断していたら、ものすごく大きな音で鳴るんかい!!

黒井城まつり武者行列
赤井モデルの大砲デター!!!
黒井城まつり武者行列
「毘」「武田のムカデ隊」もあります。


 「黒井まつり」の美味しいとこどりを済ませたところで、春日町を後にする。

猪ノ口山
黒井城跡のある山。
■ 寄り道の柏原で織田信長に出会う。
 
 そして念願の篠山城跡(今回こそ刻印探し!)に行くはずが、車内から「柏原の太鼓櫓」コールが…。謀反だ。陰謀だ。

結局は柏原の太鼓櫓なるものに寄ってくことになった。
 この地のかつての栢原藩は織田信長の弟の信包の系統の藩だ。
太鼓櫓に行くのに駐車場を探していたら道の案内に「建勲神社」と書いてあるのを見つけて「えええ!」と、私が騒いだ。
建勲神社といえば、織田信長が神様の神社だ。兵庫県にあるなんて思いもよらずに感激した。
建勲神社
柏原藩主が元録8年に藩邸内に祠を立てて織
田家先祖の織田信長を祀ったのがはじまり。
建勲神社
現建物は平成18年に再建されたもの。

建物は平成18年に再建。
 どう見ても建物がピカピカな建勲神社へ参拝。
この健勲神社は全国で、ここ柏原と京都と天童にしかないと書いてある。私は京都の建勲神社へは既に参拝しているので、あとは天童に行けば全国の建勲神社を制覇できるのだ。もう折り返し件数を過ぎて私は全国2/3の健勲神社に参拝しているのだ。しかも今回の訪問でリーチ!!凄いじゃないか!!!

建勲神社
全国で柏原・京都・天童にしか
ないという。
信ながくん
まさか兵庫で君を見むとは。
商標登録の関係でそんなハンパな
かなまじりになったのだろうか。

 戦国森家から離れてしまうけど、せっかくなので江戸期織田家の柏原の史跡を掲載。

栢原藩陣屋跡
織田信休が正徳4(1714)年に陣屋を造営。
現在の建物は焼失後の再建。
栢原藩陣屋跡内部
至る所にちりばめられた織田家の家紋は観光
用ではなくて本当に生活の中で役立てられた
もの。
織田神社
栢原藩三代目藩主・織田信勝を祀った神社。
  織田神社

柏原歴史民俗資料館には織田信長ゆかりの品々も展示してあった。

 ■伝織田信長所用の硯箱
 ■伝織田信長所用の兜立物
 ■織田信長所用の天国長刀(あまくになぎなた)
 ■織田信長所用の天大山鍔(てんだいさんつば)

こういう思いがけぬところで、ひょっこりと出会いがあるとは、やはり何事にも関心を持たなくてはいけないんだと思い知らされた。
来て良かった。ありがとう、太鼓櫓。おかげで、不意に織田信長を堪能できた。

太鼓櫓
かつて大手通りにあったこの櫓内に
は寛文8(1668)年作成の太鼓が吊
るされている。


■ 篠山城で刻印探し

 
  篠山城跡にたどり着くも、もう大書院には入らない。

レッツ石垣!レッツ森家の刻印!


と、大手から堀下に華麗に飛び降りようとしたところ(←本当)、みんなに止められた。
そしてそれはいけない事だと言われた。
いや…私はこの為に丹波に来たのだけど……(汗)。
 前回来た時は築城400年祭に向けての工事中で「立入禁止」バーが立てられていたものの、今日はそれがないのだ。工事も終わっている。だから大丈夫と言うのに、止められる。
 私はこの為に篠山城跡に来たのに、堀下に降りて石垣が見れないなら意味がない。

「大丈夫だ!」「ダメだ!」「お前の血は何色だ!」と、大手側でもめてグダグダやりあった後に、人の少ない反対側の搦手側に回ればあっさり普通に石垣をめぐる犬走りに入ることができた…。
ようやく、石垣を間近で見あげる事ができたのだ。
篠山城石垣(二の丸〜本丸)
見上げればあるのは青い空と石垣ばかり


 「三左之内」という池田輝政に関わる石垣の刻印から「☆」「○」やら何やら、どんどん見つかって楽しいの何の♪
刻印をおかずにしてごはんが食べられそうだった。

篠山城の石垣刻印


(もしや楽しいのは私だけだったか…?)

 大阪城刻印広場と東京の市ヶ谷見附で私が介さんを引っ張りまわして「一緒に森家の刻印さがして!」と、お願いして探してもらった過去の実績から、介さんは森家刻印専門調査員として大いにその能力を発揮してくだすった。

 「犬走り」というには幅の広いスペース…城と水堀の間のスペースをぐるぐると回る。
私が脅したわけでもないのに、皆も一緒に森家マークを探してくれ、本丸北側の隅石と、大手黒鉄門付近に森家の刻印で頻発する「かさね山」マークが見つかり、実に清々しい気分で日没を迎えた。

(清々しい気分だったのは私だけか…?。)

 他にも、津山城や大阪城で見受けられるものと同じ形の刻印があったけど、他家も共通に使っているものかも知れないマークなので素人の私には特定しづらい…。
篠山城の隣に津山城を並べて、石垣にある森家の刻印を見比べながら判断しなきゃ無理だ。そう考えていると、津山城跡に行きたくてたまらなくなって涙が出そうになってきた…。

 それに、どうやら篠山城の石垣全体の様子を見渡して、「森家の刻印=森家が普請担当した場所」でもなさそうだ(これは私の感覚なので嘘いっぱい)。

篠山城本丸(左側のでっぱりエリア)
その隅石の刻印は見事。
「かさね山」刻印もここにある。
「かさね山」マーク

森家?
本丸隅石
石の両側に刻印がワサワサ。
「かさね山」と同じ石に「かさね丸」が二面に
分けて2つずつあった。
本丸隅石(大手側の側面)
かさね山とかさね丸が同じ石に。
本丸隅石(搦手側の側面)
かさね山とかさね丸

 これで森家に関係ある刻印じゃなかったら、かなり切ないな(撮影しまくった)。
ちょっと見づらいけど、大手黒鉄門のかさね山マークもご紹介。

大手黒鉄門石垣
かさね山マークがあるようだけど、風化してる。
大手黒鉄門石垣
裏、トイレ。


 ついでに初めての日本100名城スタンプをこの「篠山城跡」で押した。

篠山城から見る夕日
100名城がどーのこーの言いつつ日没を迎え
る。

 日没まで森家を愛し、森家の刻印を探してくれて、みなさんありがとう。

■ 花隈城は眠らない。
 
 これで全ての旅程を終えたので、私が帰国する為に三ノ宮に向かってもらい、途中、花隈城跡に寄り道してもらう。森長可の岳父(妻の父親)の池田恒興が一時この城を持っていたのだ、なのでやはりここは一目見ておきたいのだ。
 花隈城跡は町のど真ん中にあった。
聴くところによれば、この城は近代化の波に飲みこまれて当時の遺構は何もないようだ。でも、城跡には純正のインチキ嘘石垣がめぐっているのだ。
 嘘石垣の上に嘘石垣が積み上げられて、その上には鉄の手すりが刺さって一丁あがり。
なんか…ショック…。
花隈城跡
解説プレートも石垣(現代の)に埋め込まれてい
て、なんじゃこれ感がぬぐえない。
花隈城趾の石碑
「花隈城趾」は池田侯爵の筆跡による
石垣deちょいアンテナ
こ…これは面白いけど、ひどい。


 三ノ宮の居酒屋で反省会となる。
夜行バスの時刻まで、みなさんがつきあってくださった。
しん様さんが「季節のピザ」を注文すると良識を疑うイカ明太子ピザがでてきた。見たまんま、マズかった。他の料理は美味♪

反省会まとめ→今度は宇佐山城跡へ行く

 みなさんと別れて私は再び夜行バスに無事に乗って福岡へと帰国。
今回もよい旅をしつつ素晴らしい人達と素晴らしい一日過ごせて、感謝、感謝。
 私は森家を好きになってよりこの方、数多くの人や場所との出会いがあって、どれほど私の人生は深みを増したことだろう。
それを思い返すたびに胸の中に喜びが満ち満ちてゆく。

と、言う訳で森家はやっぱり偉大。