東京駅
から森家史跡始まる旅

2009年9月19日-21日 in 東京と日光と甲府めぐり 

織田信長のストリートウォール
東京のどっかで発見。
やはりあなたが一番かっこよし。
■ 2009年9月19日(土) 森家のそばで暮らせるならば辛くはない東京砂漠
 
 江戸。

 まだ、まともに江戸の森家関係の史跡を回ったことのない私は、このシルバーウィークを利用して江戸見物をすることにした。

 江戸にあるという森蘭丸の墓(未確認)。森忠政(蘭丸の末弟)も天下普請の手伝いをした江戸城。その後(津山森家・赤穂藩森家)の森家の史跡も考慮に入れれば、江戸には見どころはいっぱいある。
 
 せっかく江戸に行くので、このチャンスに江戸城下にあった森忠政のお屋敷の跡地(跡地であろうが何であろうが構わない!)へ訪問しようと、一生懸命に古地図と現代の地図を重ね合わせてみて凹んだ。
 森美作守忠政屋敷跡敷地←クリック!
江戸城下の「森美作」屋敷、「森右近」屋敷、「美作
下やしき」
の敷地を現在の地図と重ね合わせてみま
した。
参考『武州豊嶋郡江戸庄図』。

 Σ(゜□゜;こうなったら、勝手にドリル持って行ってJR東京駅を掘って何か発掘してやる!
…と、息まいていたけど、JR東京駅を掘ったところで出てくるのは地下鉄や地下街なのだ。


…ああ、早速に気分は東京砂漠だが、おのぼり計画を立てて、だんだん心も弾んできた。
 
 

 ゴージャスな東京おのぼり予定

夜行バス(福岡)→JR東京駅(森忠政屋敷跡)→南泉寺(蘭丸の墓) →
浜松町1丁
目(赤穂藩森家上屋敷跡) 江戸城(残りの時間をすべて
森忠政普請手伝い石垣探し)

時間があれば
・日比谷公園
(烏帽子石:森長継造営の石垣のなごりの石)
・市ヶ谷駅
(森長継造営の桝形跡)


 しかし!



 18日(金)に東京行きの夜行バスに乗り、目覚めれば大渋滞。Σ(゜□゜;

 東京駅への到着予定時刻(11:50am)になってもバスは静岡の茶畑にある。いつ、東京にたどり着けるかも判らず、ましてや東京駅に友達を待たせてあるので気が気ではない。
しかし、どうしようもない…。
心を落ち着けて山手線内回りの駅の順番を暗記していた。そんな私は渋滞の中でバスの車窓から初めて富士山を見た。Σ(゜□゜; あれが、母里太兵衛以外の日本人全員が日本一高いと認める名峰・富士!

武田攻めの視察ついでに織田信長が観光しておおはしゃぎしたという富士山。
小姓たちと”御くるひ”という馬遊びを繰り広げてから信長がご覧じた富士山。

バスの車窓から見た富士山
信長も富士山を見て大いにはしゃいだ。

 たまたまバス内で隣の席になった人に自己啓発について説かれ、人生に目標を持つべきだと諭されつつ、3時間以上の遅れでJR東京駅に到着した。
ようやくにして今日の旅のお供である愛平さんと東京駅で合流(大大遅刻ごめんなさい。)
今日は3:30ごろの史跡めぐりスタート。組み立てた予定も、もはや役に立たない。

 ■(予定修正):森忠政屋敷跡→南泉寺→江戸城

と、いうことにする。

森忠政屋敷跡推定地
東京駅がこんな思い出の地となるなんて…。
ちなみに、津山城から出てきた瓦と同じ成分の
「作州瓦」が東京駅前から発見されましたが、
これは津山藩松平家の屋敷に由来するものだ
そうで、残念。


 今は敷地のほとんどが東京駅としてえぐり取られてしまった森忠政屋敷跡。森忠政は、息子の忠広が徳川家の養女を妻に迎えた事情もあってか、このように江戸城からかなり近い場所に三つの屋敷を構えさせてもらえたらしい。
 このままいけば森家も安泰、森忠政も救いのある晩年だったのに、息子の嫁も、息子(忠広)さえも先立って忠政には息子が一人もいなくなってしまう上に、津山からの転封を言い渡される。
 息子の死の翌年に忠政自身も体調を崩して亡くなっているのは、やっぱり息子の死に気落ちして心身ともに弱っていたのではないかと勝手に想像してしまう。

南泉寺
ここの「1」に「横山大観・森蘭丸の墓があ
る。」って書いてあるので真に受けて上京
したのですが…移転とぞ悲し。
南泉寺のお向かい
屋上でラクダを飼ってる東京怖い。
 


 
 愛平さんと森忠政屋敷跡にある山手線に乗って西日暮里駅へ。歩いて南泉寺へ行けば、ちょうど玄関にお寺の方がいらっしゃったのでともかく森蘭丸の墓について尋ねる。
すると、
「森蘭丸のお墓はもう、ここにはありませんよ。」
と、ショッキングな回答。
 蘭丸の墓は浅草の"りゅうせんじ"だったかに移動したとのこと(お寺の方もうる覚え)。その"りゅうせんじ"もまだ浅草にあるかどうかわからないという。更にはあの辺のお寺は関東大震災で"カラスヤマ"に移ったりしているとのことで、そっちにいってるかもとのこと…。

 もうここにはないのか、森蘭丸のお墓。なんかまた心が折れた。蘭丸の墓の由来も分からないと言われたので、あとはもう、自力で調べるしかない。

 愛平さんと「悲しいね。」「ショックだね。」「泣きそうだね。」、と言いつつまた山手線で森忠政屋敷跡(東京駅)に帰る。
もう、こうなったら江戸城に愛と情熱のすべてをかけるしかない!

 徳川家康の江戸城の天下普請には美作国主(津山城主)の森忠政も手伝いをさせられている。私は今日のために森家の刻印が遺る石垣のある場所を効率よく回れるようにちゃんと予習をして地図に書き込んできた。

江戸城を見るにあたっての参考図書:『石垣が語る江戸城』同成社・『江戸城を歩く』祥伝社

江戸城で確認された
ザ・森家の刻印。


 やる気まんまんで江戸城へ向かう。森蘭丸のことが残念だったので、江戸城内で森家の刻印が刻まれた石を1個でも多く見つけてやるんだ!
 東京駅からまっすぐ歩けば、桔梗門に皇宮警察(?)が立っている、さすがは江戸城。警察官に大手門へ行く道を尋ねる。

警官:「もう閉まってますよ。」

 心の中で鑓がグサリと身体に突き刺さった。しかし、動揺は見せずに大手門へ行く道を尋ねる。ミラクルでまだ開いているかもしれないと大手門へ行けば門は閉ざされて本当に江戸城内に入れない。

江戸城大手門
この門の先に私の行きたかっためくるめく森家
ワールドがあるのに…。

 城内の森家情報を緻密に調べておきながら、基本的なことが抜けていた。開城時間があるなんて知らなかった……(最終入城は4:00)。頑張った予習も、中に入れなければ全く意味がない。時間外に入るには、もう、皇族になるしかないのか…。



 夕方18:30には別の友達・介さんとも森忠政屋敷跡(東京駅)で合流する手筈になっていて、その時間まで江戸城に居座るつもりだったのに、これでは逆に時間が浮いた。
 結局、近隣の森家史跡を見ようという事にして、急遽予定変更した。

 江戸城近くの日比谷公園の中の日比谷公会堂そばの交番裏烏帽子石というのがあるので、それを見に行くことにした。
 森忠政の後を継いだ津山森家二代目の森長継に関係する石だ。
森長継は江戸城外堀の市ヶ谷見附の造営を仰せつかったが、その桝形は明治時代に壊されて今はなく、その時にこの桝形に使われていた烏帽子石も日比谷に移動させられた。
 行き方帰り方も愛平さんにお任せモードで有楽町駅に行き、日比谷公園を歩けば、ここには烏帽子石だけでなく、不思議ストーンが点在していた(ケルト文字の石碑とか、両手で転がして運ぶくらいに巨大な石のお金とか)。


ようやく目にした烏帽子石。
ああ、今日の私が問題なく見れたのはここだけじゃないか。
蚊に刺されつついろんな角度からこの烏帽子石を撮影。

日比谷公園の烏帽子石(表)
もとは市ヶ谷見附の桝形に使われた石だった。
市ヶ谷見附は森長継が徳川家に命じられて
造営。烏帽子石とは石の形状から。
日比谷公園の烏帽子石(裏)
もう暗いので高感度カメラで撮影しなくては
形状がわからない。
日比谷公園の烏帽子石(横)
明治時代の道路拡張で市ヶ谷の石塁が
壊されたので、烏帽子石はここに持って
こられたとのこと(説明看板より)

 
 もはや丸投げ先とした愛平さんが「ギリギリ浜松町へ行けるかも知れません。」と連れて行ってくれた!JR中央線で浜松町駅下車。
 赤穂藩時代の森家の上屋敷跡(お隣は縁戚の関家)は住所でいけば浜松町一丁目。
現在はビルビルビル!

注:森家の移動 尾張蓮台→美濃金山→津山(江戸期)→赤穂(江戸期)
 

 goo!古地図『赤穂藩森家上屋敷←クリック!
『森越中守』『関但馬守』の名を探してください。
浜松町1丁目
新見藩関家の屋敷跡付近(ビルの建っている
ところが)
しかも、デジカメ高感度モードで手ぶれ!
浜松町1丁目
赤穂藩森家の屋敷跡付近(左側のビルの建っ
ているところが)


 手っ取り早く見てまた電車に乗って森忠政屋敷跡(JR東京駅)へ戻る。
「東京駅の着時間は6:30です。」とのことで、丸の内口で6:30に待ち合わせの介さん(たまたま今日は東京にいらした城スキー友達!)に「30秒遅れます!」ととりあえず連絡。今日は遅刻して皆にご迷惑をおかけしてばかりだ。

 この後、介さんと合流しての飲みも楽しみながら、今日の森家史跡巡りは終了かと思うと、何とも言えない無念が漂う。今までの森家ストーキングツアーでは感じた事のない怒りや失望感。
足りない。森家が足りない。このままでは東京砂漠で心が遭難したまま、心が乾いて折れてしまう。

 と、いうことで「東京駅周辺で飲も。」と提案した私が「みんな、市ヶ谷で飲も♪」と強要して提案してみる。でも市ヶ谷への行き方は分からないのでまた、愛平さんに丸投げだ。

 何をどう乗り継いだか忘れつつJR市ヶ谷駅から出れば、そこはちょうど森長継(津山森家二代目)が造営した市ヶ谷見附の石垣があった場所。見附とは江戸城へ入る門があって、見張りが常在していたところらしい。その防御施設であった桝形門も、残念ながら明治に壊された。
 しかし、駅を出てみれば思いがけずも橋のところに教育委員会の看板があって、そこには「森長継」の名が!!

「市ヶ谷橋」案内看板
暗くて看板が読めない写らな
い〜!!!


 森家に飢えていた愛平さんと私にとっては「森」という字にもう何とも言えない喜び。もはや日も落ちて夜の暗闇の中でデジカメ撮影を試みればフラッシュが反射して自分がまぶしいステンレス製の説明看板。しかし、やっと出会った森家看板に果敢に立ち向かった。
 更に交番裏に回れば、桝形の残骸か何か分からないけど石垣(市ヶ谷御門橋台の石垣石)があって、暗闇で撮影会となる。大阪城で森家の刻印を探してくれた介さんに「刻印探して」。なんか、○の刻印があった。○の刻印は確かに森家も使っているけど、他の大名も使っている。

市ヶ谷御門橋台の石垣石
 暗くてわかりずらいけど交番の後
ろの公園に少しだけ森長継の仕事
の残骸が。


 しかし、さらにさらに!橋を渡って橋下の釣り堀(なんか熱帯魚も売ってる)に出れば、ちょうど橋のたもとの駐車場には、人知れず石垣の一部が残っているではないか!門は破壊されたけど、門に続く橋台が残っていたのだ。三人で石垣をなで回していたところ、森家の刻印発見!!Σ(゜□゜;
間違いない、これは森家の刻印だ!

釣り堀脇に残る橋台の石垣
 現代の橋の下には江戸時代の名残が。
刻印も(森家に限らず)わんさかあった。
  森家の刻印
津山城や大阪城でも見る森家の刻
印「かさね山(勝手に命名)」。
上の画像は山が斜めに傾いていま
す。


 東京は完全に砂漠な訳でなかったのだ。こんな大都会の誰も気づかないような橋の下の一角に、森家の仕事が残っているのだ。もぅ、愛平さんと私は興奮して大騒ぎ。森家の石垣にでくわして介さんはどうして大騒ぎなさらずにいられるのだろう。

 こんなサプライズがあるとは思わなかった。でも、今度は日中に見たい。

 
 市ヶ谷見附の全体が見渡せるビル8階の居酒屋で三人で美味しい料理を食べつつ楽しく飲んだ。終わりよければすべてよし。

 帰りはさらに、東京メトロ市谷駅構内の江戸歴史散歩コーナーへ寄った。
 ここは九段下の石垣を移築再現してある上に、いろいろと江戸城築城工事の様子や市ヶ谷見附の発掘状況の説明などあってとっても楽しい。

発掘された木枡・木樋(暗渠)
木枡を置き、それに木樋(木製の排水管)をつ
なげて暗渠としている。
発見された石組(暗渠)
竹を束ね、それを石で囲った構造の暗渠を
設置している。
江戸歴史散歩コーナー
にあった市ヶ谷駅発掘調査の
写真
※画像の説明は写真に
加えられた説明のまま掲載。
発見された竹柵(土留め)
竹を束ねた暗渠を設置し、土手を補強するため
に竹と木杭を用いた竹柵(たけしがらみ・土留
め)を設けている。
 


 再び森忠政屋敷跡(JR東京駅)に戻って解散となる。
介さん、愛平さん、どうもありがとうございました。

そしてとうとう、私はこの大都会で一人になってしまった。
 「一人で列車に乗って自力で中野のホテルに行く。」
という、今日の最後のひと仕事をやらねばならない。愛平さんに教わって「中央線に乗る。」ということだけは何度も何度も確認していたので、中央線に乗れさえすれば、それだけで、列車は私を中野駅に運んでくれるはずだ。


 東京駅構内の数ある線の中から中央線を選りすぐって乗って、何とか中野駅に着いた。私一人でもできるじゃないか。
 そしてホテルへ向かうが、歩いても歩いてもホテルがない。もしや五差路で入る道を間違ったのだろうか…もう夜の11時を過ぎてこれ以上道に迷っても心細いので、ホテルに電話して助けを求めた。
 
私:「すみません、中野駅からまっすぐ歩いてきて、途中の五差路で曲がってずいぶん歩いたおですが、ホテルがありません。ここは●丁目でコインパークの前にいるのですけど、このまま歩きつづけて大丈夫でしょうか。」
ホテルの人:「今、お客様が立っていらっしゃる道に中央線はございますか?」
私:「いや。もう中野駅からずいぶん歩いてきましたので。」
ホテルの人:「いえ、私がお尋ねしているのはお客様のいらっしゃる道に中央線はございますか?」
私:「いや、だからもう中野駅から離れています。」
( 噛み合わないやり取りを4ターンくらい繰り返し。「お客様は、コインパークに背を向けて立つという概念がおわかりですか?!」とまで言われる。 )

私:「いやでも、中野駅から大通りをまっすぐ歩いて進んできたので、(中央線の)線路なんてここにはないです!」
ホテルの人:「中央線とは、道路の真ん中に引かれている黄色い線のことです。中央線はございますか。」
私:「………………………………………あります。」
ホテルの人:「その道で正しいですよ。まっすぐ歩いてきてください。」

そうして道を教わり、ようやくホテルにたどり着き、「お疲れ様です。」で迎えられる。

 東京は、やっぱり砂漠なのか。


■ 2009年9月20日(日) 日光けっこう森家があれば。
 

 今日は、森可成公のご命日です。(-人-)


 朝。中野駅へ向かいがてらの散歩。
津山森家が犬小屋普請をさせられた犬屋敷跡を見に行く。
森家が財を蓄えていると思われたか、徳川幕府によるいじめで、広大な敷地にお犬さまのための屋敷を造営させられる。
 結局ここから森家はどんどん追い詰められてしまい、御家取りつぶしの危機にまでなる。森家にとっては果てしない悲劇の地だ。
犬屋敷跡(中野区役所にある犬の像)
この付近一帯は徳川綱吉の時代、元録8(169
5)年に津山森家が造らされたお犬屋敷がある
ところ。
  何か凶暴な感じの犬の銅像
ギャアアアア!!!!


 新宿駅から特急日光1号に乗る。
今日は、日光東照宮へ行く。境内には数多くの大名家寄進の燈籠があって、森忠政寄進の石燈籠も二基、今に残る(近所の大猷院には森長継寄進の銅灯籠もある)。それを見に行くのだ。
 列車内で寝ているうちに日光に到着。天気はよい。東照宮へ行くためのバス停も人の行列、東照宮へ至るいろは坂も大大渋滞。
 それを尻目にテクテク歩いて日光東照宮へ向かう。偶然見つけた日光図書館に寄って、郷土資料を色々とコピー。司書の皆さんがとってもとっても親切で東京暮らし(2日目)で疲れた私はものすごく癒された。

天海大僧正の像
日光山の貫主となる。
※注意:明智光秀かも知れません。


 メインの日光東照宮は後回しにして、まずは、3代将軍・家光を祀る霊廟・日光輪王寺大猷院へ。

日光輪王寺大猷院
これだけの華美な色彩を上品で優雅にまとめ
あげてあるのは流石に匠の技。
  ニ天門の上方
すべての造形が見飽きることなく
美しい。


 この大猷院に、森長継(津山森家二代目)が銅燈籠を寄進している。大猷院に入るなり、それはもう沢山の大名寄進の石灯籠や銅灯篭が建ちならんでいてまるでムーミンに出てくるニョロニョロが群生している感じだ。森長継の灯篭のある場所を知って行かなければ、一日かかっても探し当てられるかどうかわからない。
 長継の銅灯篭は夜叉門の前にあった(二基あるけどお互いちょこっと離れた場所)。大名達は自分の思い思いに燈籠を造って寄進している訳ではないようで、大名それぞれ同じ鋳物師に発注しているらしく形も統一感があった。


奉獻銅灯籠兩基
日光山
大猷院殿 尊前
承應二癸巳四月二十日


美作國主
従四位下侍従源姓森氏長継



冶工 椎名源左衛門尉吉林
森長継寄進の銅灯籠
手前のほうの燈籠がそれ。
もう一基のほうには立ち入れず。
銅灯籠に刻まれた銘文
美作國主
従四位下侍従源姓森氏長継
銘文(全文)



 それから日光東照宮宝物館へ。関ヶ原の合戦で徳川家康が着用していた具足などを拝観する。驚いたのは、日光東照宮のお祭である百物揃千人行列には、徳川家康と源頼朝と、そして…なんと豊臣秀吉の神輿が出てくるらしいのだ。

 それからいよいよメインの日光東照宮へ。参拝客の数がはんぱなくてすごい列ができているので驚愕する。森家史跡をめぐってきて、こんなに森家目当ての人々の大群に出くわすのは初めてだ。さすがは世界遺産になった場所。

森忠政寄進の石燈籠(1)
二基のうちの一基。
森忠政寄進の石燈籠(2)
もう一基。
奉寄進 石燈籠二基
東照大権現 寶前


元和三丁巳年四月十七日
森美作侍従


藤原朝臣忠政
灯籠(2)に刻まれた文字
森美作侍従
藤原朝臣忠政
石燈籠の銘文
私にはこう読めたけど…。


 表門をくぐって、陽明門へ向かう輪蔵の前に私の求める森忠政寄進の石燈籠二基があった。  
東照宮の御鎮座の年である元和三(1617)年に献納されている。

 森美作侍従藤原朝臣忠政 

源氏を名乗った森忠政が「藤原朝臣」になっている。彼と同じ元和三年四月十七日に石燈籠を献納した大名たちの銘文には源姓もいるけど「藤原」も多い。
 忠政が寛永三年に従四位に叙された時も「藤原朝臣」になってるので、なんかあったんだろね、大人の事情があったのだ、きっと。

燈籠探しにあたっての参考図書:『大日光19号・65号・77号』日光東照宮・『日光山輪王寺75号』輪王寺
  『日光東照宮』日光東照宮

 石燈籠をこの目で見ることができて満足。まぁ、このまま踵を返して帰ってもいいのだけど、せっかくなので東照宮を参拝してきた。

東照宮陽明門
 いやはや、目がくらむくらいに美しいばかり。


 この後、輪王寺輪王寺宝物展を見てから日光を後にする。
帰りにふと思う。
せっかく
栃木県に来たのだから、宇都宮に出て餃子を食べよう。
 関ヶ原の合戦に至る前に、会津の上杉討伐で森忠政も徳川軍として従軍して、秀忠のいる宇都宮に着陣したのだ
。と、いう訳で宇都宮もまた、森家ゆかりの地。
宇都宮よ、誇るがいい。
まぁ、上杉討伐で裏の狙いであった石田三成がうまく釣れたために(挙兵)、徳川軍は会津進軍をやめて、家康(東海道ルート)と秀忠(中山道ルート)は関ヶ原へ進発する。森忠政は秀忠軍のほうについていけと言われて「えええっ!」Σ(゜□゜;という感じだったようだけど、とにかくも私は宇都宮へ行って森家に浸りつつ餃子を食べよう。

 
JR日光駅から宇都宮駅へ出る。有名な餃子像の写真を撮影。駅近くには餃子の店が何軒も並んでいるのでそこでポンと飛びこんだお店で餃子を食べる。
マズかった〜♪チーズ入り餃子(チーズ入れるな)を涙目で飲みこんだ〜♪

餃子像
宇都宮駅前にある。
なんかよく見ると女神。
森家とは関係ありません。
宇都宮城
何か、見る角度で色々と感想が
変わります。



 せっかくなので宇都宮城跡まで行ってみた(森家とはズレるけど)。街の繁華街を抜けるといきなり通りの奥に宇都宮城が見える。
表側のある角度から見れば宇都宮城であるが、また別の角度から見れば宇都宮城跡は餃子(具たっぷり)であり、土塁の真ん中には、ショッキングなほどの大穴が
開けられて橋を通しており(現代人のしわざ)、さらに真後ろから見れば、びんぼっちゃまの豪邸のようである。自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。
 
 道の途中で小山の上にあった二荒山神社のライトアップも気になって立ち寄る。
また夜になってしまったが、宇都宮駅から中野駅へ戻らなくてはならない。ケータイで路線検索して所要時間5時間と出て一時は大パニックを起こしたが(群馬県にも中野駅があって、愚かにもそのルートを検索していた。)、2時間くらいで新宿へ戻れると判って安堵した。また、列車に揺られて東京砂漠へと帰ってゆく。


■ 2009年9月21日(月) 甲府で降伏しそうになる。
 
 新宿から朝7:00に高速バスに乗って甲府へ行く。甲府は武田信玄とぶどうと桃の国だ。今日の予定では、甲府駅に9:10に到着して、レンタカーで一日、森家&関家関係の史跡をめぐることにしている。
 天正10(1582)年に森長可も織田信忠に従軍していた武田攻め。最終的には森家も(親戚の関家も)この甲府まで乗りこんでいる。
 
 ところが、余裕を持って出かけて新宿駅だが、高速バスのりばがわからずに3ヶ所の高速バス乗り場を渡り歩き、出発時間ギリギリになる。
慌っている所にさらに外国人に道を尋ねられて威嚇しそうになる。その外国人たちは「甲府行きのバスに乗りたい。」というので、結局やらんとするところは私と同じなのであり、やっと見つけたバス(乗り場までいきなり変更してあるし…)一緒に乗りこんだ。

 が、すぐに大渋滞に遭遇する。甲府に着いていなければならない時間にまだ八王子にいた。…信じられない事態である。しかもパトカーがサイレン鳴らしてやってくる…。ああ…武田の領地は遠い。バスの中でやることなくなって和歌でも読んでみた。

■恐ろしや 人が石垣人が城 交通渋滞 玉突き衝突

■今日もまた渋滞激し旅の空 十センチ単位の甲府への道

 結局、バスはいつも寄ることのない談合坂サービスエリアにも寄って3時間20分遅れで甲府駅に到着した。ああ、もう12:30だよ。
甲府だ、甲府!


 まずやったのは、帰りの高速バスのキャンセル。今日は東京駅20:30発の福岡行き夜行バスに乗らなくてはならない。高速バスで東京に戻ろうとしてまた大渋滞に巻き込まれて福岡行きに乗り継げなかったらそれこそシャレにならない。JR甲府駅みどりの窓口で相談し、16:48発のJRホリデー快速ビュー「やまなし」号で帰れば間に合うことが判った。絶対の絶対にこれに乗って帰ることにし、1日予約していたレンタカーを借りにゆく。4時間でできる限りを見てやるのだ。

…ところが甲府市内も渋滞している罠。いや、渋滞というより、むしろ、皆が法定速度を厳守して40キロで走っているので、急ぐ私も前に進めないのだ。しかもほとんどの道路が一車線なので追い越すわけにもいかずにノロノロと走るしかない。くぅうう、武田の騎馬軍団め!!!Σ(゜皿゜;

当初の豪華絢爛な旅程(太字は実際に行けた場所)
1.逍遥院:森軍がぶった切った武田逍遥軒の菩提寺

2.恵林寺:織田信忠の命で関小十郎が焼いた名刹

3.
時間があれば 雲峰寺(武田家の「風林火山」旗あり
4.甲斐大和駅:武田勝頼像

5.鳥居畑古戦場:武田家最後の戦場

6.四郎作古戦場:勝頼に蟄居を命じられていた小宮山内
膳友晴がかけつけて織田軍と戦い殉死した場所。

7.景徳院:勝頼夫妻の墓 生害石、首洗い池など…
勝頼の首は関可平次が信長に持ってく。

8.土屋惣蔵片手千人切り: 土屋さんがターザンしながら
織田軍を切りまくった場所。

9.姫ヶ淵:北条夫人侍女たちが身投げ殉死

10.大蔵原思案石:勝頼が腰かけて悩んだ

11.武田信玄の墓(甲府市岩窪町県立青年の家の前)

12.武田神社: 躑躅が崎館跡
この付近?「府中立石」で森軍、逍遥軒をぶった切る?
  森長可、この後は上野国へ武田狩りの旅

13.法泉寺(武田勝頼の墓)

14.秋山信友ん家:岩村城で信長に逆さ磔された人

15.穴山信君ん家:森蘭丸が使者をした人

16.武田信兼ん家:逍遥軒の家

17.甲府駅:武田信玄銅像

 時間の都合ですべてを回るのは完全に無理だ。せっか今回はレンタカー借りたので、車がないと行きにくい場所を選んで回ることにした。
 まずは、武田信玄の弟であり、影武者もやっていたという武田逍遥軒(信廉)の菩提寺・逍遥院にお参りした。お寺は石和温泉エリアにある。

逍遥院
武田逍遥軒が北高全祝(天地人に出てきた和
尚だ!)字を自ら彫って作った位牌がある。
  武田逍遥軒の墓
でも、実際には遺骸がどこに眠って
いるかどうか不明とのこと。


 武田逍遥軒は、『信長公記』においては「成敗」「生害の衆」として名前のみあげているが、『森家先代実録』では逍遥軒は織田軍に降伏して森長可のお預かりになったとある。長可は織田信忠の命でこの逍遥軒を始末することとなった。
長可は家臣の各務兵庫と豊前采女に命じて逍遥軒を切らせる。
 各務兵庫は逍遥軒に
「旦那(長可)名誉の駿馬がございますが、お慰みにご覧になりますか。」
と言って庭へおびき寄せて愛刀「雲次」で切りかかる。抗戦しようとする逍遥軒を背後から豊前采女が切り殺すと、その豊前采女を逍遥軒の小姓・河野孫六が切り付け、その河野孫六を背後から各務助右衛門が切り殺す。

 逍遥院でご朱印もいただいて、ご住職とお話をして、逍遥軒が生前自分で彫った位牌も拝見した。

 次は甲州市を目指す。恵林寺や武田勝頼滅亡スポットのある甲州市。車で急ぐもブドウ狩りの観光客の群れに巻きこまれるし、目の前を走る観光バスがずーっと法定速度で走って、どうにもならない。「バス、早くどこかへ行ってくれ〜。」と思っていたら恵林寺まで四六時中一緒のルートだった。

 森長可は逍遥軒を始末した後は武田の残党狩りに上野国方面へ派遣されたようだ。この頃、信長は(恐らくは森蘭丸も同行)森家の居城のある金山で宿泊もしつつ、武田領の視察に向かっていた。

 武田勝頼との最終決戦の場には森長可は居あわせなかったのかも知れないけど(記述がでてこない)、ここらは関家がチョコチョコ関わっている。

 恵林寺は武田の残党をかくまったので、織田信忠から成敗されることになる。その奉行には(放火奉行?)、関小十郎右衛門(蘭丸義兄)もいて、お寺のみなさんを押し込めて寺ごと焼いてしまう。
 この時に一緒に焼かれた快川国師のセリフ「心頭滅却すればも自ずから涼し」はあまりにも有名だ。その「」に関家が関係しているので、私にとっては心が痛い…。
 さらに余談ながら、この時、托鉢に出ていて難を逃れた小坊主がのちの津山森家菩提寺・龍雲寺(本源寺)の創建の和尚となる。

恵林寺
山門には快川国師の
「安禅不必須山水滅却心頭火自涼」が

なんか、関家も大好きですみません。
  恵林寺境内の石碑
「安禅不必須山水
滅却心頭火自涼」

まただ!
武田信玄公墓所
五輪塔と宝篋印塔。寛文12(1672)年に建立さ
れたもののよし。
  (伝)三門の礎石 天正時代
天正時代の真ん中は〜♪


 いやはや。写真などでは何度も見たけど、実際に訪問してみれば、恵林寺は大した名刹だった。でも、ここにかけられる時間は30分と言う過酷な運命の私。鴬張りの廊下を足早にケキョケキョ言わせて武田信玄のお墓にもお参りし、信玄の胸毛を貼ってみたという武田不動尊坐像も拝観し、続いて境内の宝物館をフルスピードで見学。なぜか、森蘭丸の浮世絵があった。



  それから景徳院に照準を合わせて車で走る。この「大和村田野」にある景徳院が勝頼の最期の地だ(武田勝頼最期の地に徳川家康が景徳院を建てた)。
 多くの家臣に見放され、身内にすら裏切られ、妻子を連れて少ないお供で勝頼が落ちのびてきた田野の地。
 しかし、かつて勝頼に勘気を蒙って蟄居を命じられていたにも関わらず、勝頼の身を案じてここに駆けつけた家臣もいた。小宮山内膳友晴(友信)という人だ。心の弱った勝頼はどれだけ感激したことだろうか。小宮山さんは、勝頼に申し出てわずかな兵で織田軍(滝川軍)と戦って討死した。それが四郎作古戦場
 道なりにあった四郎作古戦場石碑を激写。それから先を行けば、鳥居畑古戦場の石碑に気づきながらも、アクセル踏み込み過ぎて通り過ぎてしまう。 あと、近藤勇の幻覚を見た気がする。あああああああ…、これで史跡めぐりと言えるのか…。

鳥居畑古戦場
武田勝頼に最後までつき従った数少ない家臣
が織田・徳川勢数千と抗戦して敗れた武田家
最後の戦いの場。
四郎作古戦場
小宮山内膳友晴(友信)は
「譜代の身でありながら、武田最
後の戦いに加わらないのは末代
のまでの恥辱」と馳せ参じ、ここ
で戦って討死した。
 
姫ケ淵
勝頼の妻・北条夫人につき従った侍女16人が
この石碑の背後の淵に身を投じたことで、後世
ここを「姫ケ淵」と呼んだ。石碑は北条夫人も
含めた17人で表現されている。
首洗い池
武田勝頼、信勝父子の首を洗った
場所と伝わる。
 



 景徳院は武田勝頼が亡くなった場所。この寺院は勝頼を弔うために徳川家康が建立したお寺で、武田勝頼ゆかりの物が多かった。
ここには30分かけようと散策してまわる。帰りが渋滞だったら帰りの列車に間に合うのかとか色々と気になるけれど、もう自分の勘にかけて行動するしかない。
 しかし、本堂では法事があっていて近寄れず、ご朱印もお願いできなかった。Σ(゜□゜;


景徳院
天正16年(1588)
の建立。
二度の大火があり、
当時の建物はこの山門
を残すのみ。
旗竪松
勝頼公は己の命運尽きたことを悟る
と、この松に武田家の宝旗を立て、
16才の嫡子信勝に新羅三郎
以来武田家に相伝された楯無の鎧
を着せて「かん甲」の式を挙げた。

 武田勝頼はともに落ちのびてゆく16歳の我が子・信勝に向かって「私自身のことは”一栄一落、これ春秋(世の中は繁栄と衰退の繰り返し)”でしかたがないけど、まだ齢も足りないそなたが こうなってしまったことが可哀想だ。花のつぼみが花の春にも逢わずに嵐にもまれて落ちてしまうようだ。無念なり。」と嘆く。
しかし、信勝は笑って父を励まし、辞世を兼ねて慰める(『理慶尼の記』)。

 
まだき散る花と惜しむな遅くともつひにあらしの春の夕暮(武田信勝)
早くも散ってしまう花と惜しまないでください。遅くともいずれ最後には嵐が吹いて散ってしまうのですから。)

 ここで「つぼみのままで夢を見ていたい♪伊代はまだ16だから〜♪センチメンタルジャーニー♪(by松本伊代)」(゜0゜)♪などとウケ狙いで父の前で歌い出さないところが、さすがは名門武田家の御曹司、優雅で気品があり敵ながら天晴れである(ちなみに、信勝の母は信長の養女。だから信長にとって信勝は義理の孫ということになる…。)


 この信勝のことは『信長公記』にすら「武田太郎信勝は十六歳、さすが歴々のことなれば、容顔美麗、膚(はだへ)は白雪のごとく、うつくしき事、余仁に勝(すぐれ)、見る人あつと感じつつ、心を懸けぬはなかりけり…」と、敵さえ若き信勝に魅了されていると、牛一が特筆されているほどだ。敵にこんだけ行を費やすなら「森乱」のことをもっと描写しといてほしいとの意見もあるが、ともかくもそういうことだ。


 あ、ちなみに、そんな武田勝頼・信勝父子の首は、関小十郎の弟・嘉平次が信長の元へお届けしている。

武田勝頼の墓
(中央)武田勝頼の墓
(右)北条夫人の墓
(左)嫡男・勝信の墓
武田夫妻の生害石
生害石というのが謎だけど、勝信の生害石も
あったらしい。(大慌てで気付かなかった。)
没頭地蔵尊
首のない武田父子の亡骸を埋めた場所。

 
 景徳院からまた、アクセルを踏んで甲府駅へ走る。先ほど通過してしまった鳥居畑古戦場の石碑を激写、つづいて甲斐大和駅で武田勝頼の銅像を激写して、再び甲府駅へ急ぐ。
 

武田勝頼公之像
家族愛にあふれるよい人だったし、
よい武将だったと思う。
私は好きだ。


 で、渋滞遭遇。

 このシーズンは、ぶどう狩りばかり。武田狩りをしているのは私だけかも知れない。ともかくもともかくも、時間に間に合って甲府駅へ帰りつくようもはや念じるしかない。途中に、武田二十四騎の誰かの家を通過した気がするが、もはや気もそぞろで説明看板の文字も目に入らない。
 レンタカー店に車を返却できたのは列車の出る10分前という恐ろしい状態。なのでガソリンスタンドにも寄れずにレンタカーの人に走行距離分のガソリン代を渡して、猛ダッシュで甲府駅前の武田信玄像を激写しつつ、駅にかけあがって列車に乗りこむ。本当にギリギリ間にあった…。
自分でも鳥肌が立ったよ。神様、どうもありがとう…。

武田信玄像
わぁああ!やっぱりきちんと撮影で
きてない!

なんか、森家を追って行ったのに、
武田チックなエンディングになって
しまった。

 
 列車に乗ることができ、我慢し続けていたお手洗いにもやっと入れた。
隣の席の同じ年頃の女性に袋ごとトマトをいただき、わいわい楽しく話をしながら新宿へ。
しかし、車窓から見える甲斐は山山山。山と山の間をどうにか人が生活している感じだ。
隣の席のヒトの話では、千葉県で一番高い山と甲府市の標高がほぼ一緒とのこと。

 新宿駅のロッカーに預けていた荷物を取り出して東京駅に行き、最後の晩餐は駅の中でてっとり早く、ハンバーグカレー。福岡へ戻る夜行バスに無事に乗れて、ようやく全てが終わった事に安堵。
しかし、もちろん、帰りも渋滞!

 江戸と甲府を充分に見ることができず、また絶対に来ようと心に誓う。 
不測の事態ばかりだったけど、楽しい旅だった♪