金曜日の夜に天神から夜行バスにギリギリに乗りこみ、土曜日の朝には名古屋に着いた。この日は岐阜市内にある森家史跡を散策する予定で、まずは岐阜に向かうことにする。 森家イベントでは毎度お会いする関東の愛平さんが携帯電話の電池寿命切れでライフラインを断たれてJR名古屋駅で立ちつくしていたところで再会。そして嬉しくも、急きょ、愛平さんが私の今日の森家ストーキングドライブ(マイナー系)の旅の友となる。
まずは岐阜駅そばでレンタカーを借りる。ボスニアンブルーの可愛いスモールカーだ。古い私の車と違ってギアが横でなく前についているので、バックをするでも何度も間違って左手が虚空をよぎった。こんなんで大丈夫なのか…。
まずは森可成(蘭丸父)が織田信長から金山城を貰い受ける以前に住み慣らしした蓮台へ向かう(現・田代/デンダイ)。まず目につく白鬚神社にお参りする。ここには、八幡神社も合祀されており、この八幡神社というのは「道三・信長両将別れの地」でもある。
ここは富田の正徳寺で「であるか会見」を果たした織田信長と斎藤道三がそれぞれの国に帰るために帰路についた別れの地だそうだ。ここから歩いて10分ほどの蓮台城を居城となしていた森家はこの両名の面会にどのように関わったのだろうか。
まさか、斎藤道三と織田信長が遊びにきても「今日はちょっと…。」と言える森可成ではなかろう。
白髭神社(八幡神社合祀) |
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白髭神社境内
村社・白髭神社。小さな神社だが、境内には
「道三・信長両将決別の地」というビッグイベン
トを説明する看板がある。 |
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蓮台寺の塔礎石
奈良時代前期には大きな寺があった証拠で
ある(笠松町の説明看板による)。 |
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道三・信長両将決別の地
天文22(1553)年に富田の正徳寺で
対面を果たした2人はここで決別の
儀を行って別れた。 |
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昔の勘と本能を頼りにして住宅地に入りこんで、蓮台城跡へたどりつく。「蓮台古城跡」の碑は今は、個人のお宅の庭に刺さっている…そして倒れかけて松の木に寄りかかっている。「嫡男・可隆を十一代城主として金山城へ入った」という謎説明が素晴らしい。
森可成が生を受け、妙向尼が嫁いできて、可隆や長可が子供時代を過ごした森家の幸せの香りのするこの城跡…でも、今は民家ばっかでなんか違和感ありすぎて感動が胸に迫ってこない…。
何より、ここで興奮しすぎると地域住民に怪しまれそうな感じなので、神妙に城跡を見学した。
蓮台城跡
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蓮台城跡遠景
後方の民家が建ちならぶところが城跡。
昭和の中頃までは高台にお堀もめぐっていた
というが、もはや今は当時の面影ナッシング。 |
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心の目で見れば蓮台城でございます! |
蓮台城跡の碑
個人宅の庭に刺さっている。
運があればこの碑にたどり着く事が
できる。グッドラック。 |
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次は、岐阜城の近くまで戻って、岐阜信長神社にお参りする。カーナビが示しているのは「橿原神社」なので、「あれ?どういうこと?」と動揺したけど、この橿原神社の境内に小さな信長神社が君臨していたのだ。お参りをすれば、信長神社の横にはブロンズ製の「天下布武」の打出の小槌(こづち)まであった。これを渾身の力をこめて自分のデコにブチ当てる流血ギャグをしなくてはならないのかと思ったら、小槌は固定されていてまったく持ちあげられないのであった…。
社務所に「信長神社のご朱印」をお願いして、その間にまた境内を散策する。
その後、できあがったご朱印を社務所に受け取りに行って拝見すれば「橿原神社」となっていた。わぁああああ!信長神社じゃないいいいい!!Σ(T□T;
「橿原神宮は夫婦のご縁結びで有名な神社で、普通はみなさんこちらをお参りされるんですよ。」
と、宮司さんに説明されても、うぉおおお!そんなん知らんとです!世間一般の普通の女性は信長を神とあがめたてまつるのであって、信長神社のご朱印が欲しかったんだぁああああ!!!!
宮司さん:「信長神社のご朱印はないです。」
そこから、何か話があーなって、こーなって、気づけば愛平さんと一緒に拝殿で正座して神前で宮司さんから小一時間ほどご縁結びのための男指南を受けて、彼氏を作れと言われた。なぜだ!信長をたたえる神社で信長が好きだと言ったらどうしてそうなるのだ!
「今度来る時は男のヒトと一緒にお参りにくるんだぞ。」と言われつつ、何度もお礼を述べて神社を去る。ご縁むすび(?)のお守りと野菜ジュースまでいただいてしまった。「織田神社のご朱印も作らなくてはいかんな。」とおっしゃってくれたのが嬉しかった。そう、早く信長神社のご朱印を開発してください。
信長神社をあとにしてレンタカーを運転しつつ、「今どきの車はサイドブレーキがないの?」と言っていたら、愛平さんに今どきの車はサイドブレーキは足元にあるのだと教わった。アオッ!Σ(゜□゜;
ついに車内の自分の足元でサイドブレーキ発見!
今までサイドブレーキせずにパーキングしてたよ、ははは。
次は、道三塚に車を走らせる。道三塚は岐阜市長良道三町というところにある。道三町というところが何ともファンタスティックであるが、説明の看板を読んでも意味が判らずに愛平さんに「結局どういうことなの?」と遺体のありかを尋ねる私の頭もファンタスティック。
■道三塚の解説(部分):道三の遺体は崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されたが、塚は長良川の洪水にたびたび流された。その後、天保八年(一八三七)、斎藤家の菩提寺である常在寺の第二十七世日椿上人が、この場所に移して現在の碑を建てたものである。 |
そしてしばらく足元のサイドブレーキを外すのを忘れたまま不思議走行。
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道三町にある道三塚
大きく戦国の世をゆり動かしたその夢のおくつき
は、小さなこんもりした塚であった。 |
「斎藤」の対義語といえば「織田」であり、「織田」の類義語といえば「森」であるが、要するに「斎藤塚の次は織田塚だっ!」と、岐阜市霞町におる織田塚に車を走らせてみればさっきの橿原神社のすぐ側だった。ふ…コースの組み立て方を間違った。塚は廃業ホテルと他の建物に挟まれて狭苦しく存在した。塚の前の動きの悪そうな鉄扉をガシガシと力をこめて頑張って開ける(愛平さんが)。
「織田塚伝」の説明には天文3年9月22日としてあったけど、説明の内容はどう見ても
天文16(1547)年9月22日の加納口の戦いのことなのだけど…。織田信秀(信長おとん)が加納口より斎藤道三を攻めて、コテンパンにされた時の戦いだ。『森家先代実録』の流れでは、森可成はまだ斎藤家のほうで頑張っているのだ。
その数年後には森可成は織田信長の元で斎藤家に刃を向けて戦っている運命の不思議。
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織田塚伝
加納口での戦いの戦死者を葬った土饅頭を物
見塚と呼んでいたが、後日織田塚と呼ばれる
ようになった。 |
次は新加納方面に車を走らせてゆく。永禄6(1563)年4月に、稲葉山城奪取を試みて美濃に侵入した織田信長が斎藤龍興の軍と戦った新加納の戦いの舞台だ。森可成もバッチリと信長に従軍していた。
私の運転する車は、知らない間にきちんと中山道を走行していた。美濃攻略を狙った織田信長が、森可成が駆け抜けただろう古い道だ。長森高田にも勝手にたどり着けて嬉しかった!
しかしまずは斎藤軍と対峙した新加納の戦いで焼かれた少林寺にお参りしようというのだが、寺の姿は見えるのに、寺にいたる入口がまったく分からないというハプニングで色々と誤った細い路地に侵入して車を何度もバックさせ、時間ばかりが経ってゆく。カーナビもその辺は曖昧にごまかしてくれちゃって、ああ無常。ようやく迷路の謎が解けて隣の寺の入口と思えた道に入り込んでようやく少林寺にたどり着く。
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少林寺(各務原市那加新加納)
説明などが無かったけど、とにかく新加納の戦
いで燃えた鎌倉時代よりの名刹。 |
長森高田。4月の新加納の戦いで斎藤軍にコテンパンに敗れた織田信長だが、信長はめげずにレッツ再チャレンジで、8月にはまた美濃に侵入しているのだ。森可成は後陣をつとめている。なーんか、結局この信長の美濃侵入もすぐに引揚げで終わっちゃったわけだけど(『戦国合戦大辞典』情報)。
ダメでもダメでもチャレンジを繰り返す、織田信長の「何度も頑張ってたらいつかうまいこといくんじゃねーか」的な、その小刻みな立て直し度が好き。普通の人間なら以前の失敗に気をとられてそれを引きずってしまうものなのだけど信長は違う。
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長森高田付近
この辺も戦いの舞台であったかと想像して車
から下りて急きょ撮影会。 |
さて、続いて、新加納の戦いとは時期がずれるものの、織田信長の信仰厚い手力雄神社へ参拝。で、手力雄神社にお参りに行っても、境内には信長の信の字もない。看板の説明や由書きを見れば、信仰厚いというより、むしろこの近辺を織田信長に蹂躙されている。
どういうことだ…。
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手力雄神社(岐阜市蔵前)
斎藤氏や、織田秀信により織田家の
祈願所ともなった。 |
ご朱印をいただいてからも、何か違和感を拭い去れずに自分の作成した旅程表を見れば、信長の信仰厚い手力雄神社は、住所がまったく違う。
カーナビをチェックすれば近くにもう一つ手力神社があることが判明!そちらのほうが織田信長がゆかってる神社であった。
アブナッ!!!!ものすごく隣り合った土地に社務所があるような規模の手力雄神社が2つもあるなんて!油断大敵!!Σ(゜□゜;
ようやく納得してたどり着いた手力雄神社(各務原市那加手力町)には「信長」づくし。やっぱこうでなくっちゃ!!
永禄年間に信長が稲葉山城攻めの際に戦勝祈願をし、成就の後には社領や宝物を寄進したものであるという。
大祭に現在も使う神輿や刀剣も織田信長の寄進の実物とのこと。すごい!
手力雄神社(各務原市那加手力町)
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手力雄神社
床下をぬけて本殿に入って、一対の龍の彫刻
を見ることができた。本殿に体を巻きつけるそ
姿はものすごくかっこいいものであった。 |
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手力雄神社看板
信長公ゆかりの社と書いている。
( ゚∀゚)o彡ノーブナガ!ノーブナガ! |
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docomoショップで愛平さんのケータイをよみがえらせ、お次は私の世界最大のお気に入りの森家スポットの一つである武芸川町の武芸八幡宮へ向かう。
観応2(1351)年に森蘭丸の先祖にあたる森又太郎泰朝が社殿を再興したという本殿はまだ当時のままに残る。
そしてここには森可成や坂井政尚の連署状もあれば、織田信長、織田信忠、織田信孝の安堵状まである(書状は神社で見ることはできない)。( ゚∀゚)o彡ノーブナガ!ノーブナガ!(しつこい。)
入口から奥に到る道は清浄な森。緑が香って空気が美味しくって優しくって、しばし外界の世界の存在を忘れてしまうほどだ。
前回ここにお参りした時にはうかつにも織田信長が建てさせた「下馬」の字が刻まれた石を意識せずに通り過ぎていた。今回はちゃんと意識して石見学した。
その「下馬」石は、参拝者に抱きしめられてはいけないのか、柵で囲まれていたのが残念。
Σ(゜□゜;しまったぁ!本殿の写真を撮るのを忘れてた!!!
こうやって和んだところで、また合戦シリーズに戻る。
今日の残りは森長可(蘭丸兄)メインだ。
天正12年に戦死したはずの森長可がなぜか天正13(1585)年に秀吉の越中征伐に従軍していると書かれている『戦国合戦大辞典』(たまに不信感でいっぱいになる)によれば、森長可は郡上の遠藤氏の征伐に2度(天正元年&天正11年)ほど赴いている。
『森家先代実録』には載ってないケド、そういうこともあったらしい。
■須原山の戦い(美濃市洲原)天正元(1573)年
織田信長に恭順しながらも一方では甲斐の武田に通じていた遠藤慶隆の信義を疑った信長は、金山城主の森長可と、鉈尾山城主の斎藤秀方に遠藤氏を討伐させた。
(…って、その『戦国合戦大辞典』の次の行の説明はもう表記ミスで「織田軍(金森・佐藤連合)」と、なっているので「おいっ!」とツッコミたくなるのだけど、とにかく森長可も出向いたことになっている。)遠藤慶隆は須原山に布陣して織田軍(金森・佐藤連合)を迎撃したが、最終的には慶隆は立花山に陣を張る斎藤秀方の元に出向いて降伏した。
■立花山の戦い(美濃市立花)天正11(1583)年
織田信孝側についた遠藤慶隆は、軍を率いて南下し、立花山を占拠した。豊臣秀吉側についた鉈尾山城の佐藤秀方は秀吉に急を知らせ、秀吉は森長可を急行させ、池田信輝と一柳直末(誰?)にも援軍を命じた。
この時には長可は十六所山砦に着陣し(遠ッ!)、佐藤軍と連合して長良川を渡河して立花山を包囲し攻撃したらしい。結局、遠藤慶隆は織田信孝の援軍をあてにできないことを知って降伏。
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なーんか現地に行けば、もっと情報判るのかなぁ、という思いがあって鉈尾山城跡の登り口ある美濃運動公園に車を走らせた。森林文化アカデミーの前を通り過ぎた時は「森」の字ではしゃいでいたものの、鉈尾山城跡の麓にきて…「ま、登らなくていいか(森家じゃないと愛着まったくなし)。」と引き返した。
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鉈尾山城登山口
登山口には「1月6日出没情報有
注意ください!」の看板があった。
一体何が出没したのだ。 |
鉈尾山城跡
いつか山頂の休憩所に行くことは
あるのだろうか。 |
続いて立花山方面へ車を走らせる。途中で知らない山に城っぽい建物を見つける。
私が「金森長近の小倉城じゃないかなぁ。」と言うと、愛平さんは「金森長近にはいつも勘違いさせられてガッカリさせられる。」とのこと。
Σ(゜□゜;
もしかして金森長近の文字を一瞬”森長可”と思って見て次の瞬間にガッカリしてしまうのは、この世で私だけじゃなかったのか!
変な盛り上がりをみせつつ向かう立花山。かつて佐藤秀方が遠藤慶隆と戦うために陣を張り、そしてその後に遠藤慶隆が陣を張ったという立花山はよっぽどいい感じの山に違いない。しかし山と長良川とに挟まれた狭い一車線道路を走っていると「立花」という地名に気づきつつも駐車スペースがなくてそのまま後ろから来る車に追われて駆け抜けてしまった〜。
Uターンしてまた戻ってきたけど、「立花」の土地はやっぱり手狭すぎる。現代の印象からか「こんなとこでせせこましく合戦したんかい!」という気持ちになる。合戦があったことを示す石碑や看板なども皆無。山がぐちゃぐちゃにいっぱいあって、どれが立花山か分からないので山にも登る気がない。
ははは〜。本当に森長可はここまできて戦ったのかどうか、謎のまま。他に史料を求めねば…。私にとっては課題の残るものとなった。
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立花山の麓を流れる長良川
この景色は美しいけど求める立花山の合戦は
情報なし。 |
日没が近づきつつある。今日の私のもう一つの野望、それは、以前登った時に判らなかった関城跡の説明看板を確認することなのだ。関市にある関城(安桜山城)跡の城主は、森可成が仕えていたとされる長井隼人(斎藤道三の義弟と言われる)だ。長井隼人は、先ほどから頻出している遠藤慶隆のお母さんの再婚相手でもある。
前回この関城跡のある安桜山に登ってみたところ、城の遺構っぽいものがまったく判らずに山を下った。遺構もわからぬ上に城跡を示す石碑もなかったし、説明看板も見つけられずにいたし、城山のトンネルにはバックリとトンネル穴があいていたので、なんかモヤモヤッとした気分でこの地を去ったので、「私の登ったのは間違いなく関城跡よね!」と、もう一度確認に来てみたかったのだ。
で、今回、安桜山に行くと、説明の看板をあっさり発見。よかった…。
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関(安桜山)城跡
トンネルトンネルトンネル…
そんな関城も織田信長に攻め
落されてしまうのであった。 |
安桜山城(関城)の由来
今回はこれだけチェックしたかった。
■安桜山城下町絵図←クリック! |
最後に、かつて関城の支城であった十六所山砦へ。後の時代の合戦には森長可がこの砦を利用(遠藤慶隆を攻めるのとか)している。
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十六所山砦
以前この山に登った時は、長い間人が踏みこ
んでないようで道がなくて山頂まで行くのに一
苦労だった。 |
夕暮れの中、車を走らせて岐阜市内に戻ってレンタカーを返す。
レンタカー店のヒト:「車の中に忘れ物はございませんか?」
「ありません。」と自信満々に言いきって、店を去ろうとして、トランクにキャリーバッグを入れたままだったことに気づいて、慌てて踵を返した2人。
岐阜駅から本日の宿泊ホテルのある可児市に行くことにするが、その前に食事(8時でお腹すいていた)。本数の少ない電車の時刻に合わせて「30分の電車に乗りますから」宣言をし、店のかたに急いで味噌煮込みうどんを作ってもらい、出てきたアツアツを必死で食べて電車に間に合わせた…別のものを注文しろよという話なのだけど。
ようやくホテルに着いて部屋に入ろうとすると、反対側の部屋から「やっぱり!」と扉を開けて繭さん[URL]がパンパカパーン!と登場!
手には森蘭丸ファンには伝説の書『史談 信長』!アオッ!Σ(゜□゜;
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