森長可花*花ご命日

                2009年4月9日10日 in 尾張・美濃 

金山城下で日なたぼっこする森家家臣団
たぶん真ん中が武藤。

■ 4月9日(木) 花のじゅうたん武蔵塚


  早朝。名鉄バスセンターに到着する。

 地下鉄に乗り、まずは朝のうちに名古屋城ニの丸のみを見に行ったはずが、驚くべき事に名古屋城一帯は柵でグルっと囲まれていて堅き門にあっさり閉ざされて、全体的に入れない無情な造りになっていた。織田信長が子供の頃より城主として居城していた那古野城は現・名古屋城の二の丸から三の丸にあたる。二の丸に、城址の碑が残っている。だからわたしゃニの丸にしか用は無いのに、そこにすら入れなくなっていた。
 まだ8時にもなっていない刻限。名古屋城を守る警備員は「開館は9時からです。」と入れてくれない。ああ、「はるばる九州から来たのなら開けてあげるから入っていいよ。」という魔法が都会では存在しない。
しかも入場料に500円を払うのだという。
しかも、名古屋市のマンホールの図柄はアメンボである。
しかも、カラスが上空から私の頭上にハンガーを落してきた!ひどい!
名古屋市のバカん(胃炎再発)!!!

名古屋市マンホール!!
開けたらアメンボあいうえお

                     (1時間経過)


 出直してきたぞ、名古屋城!500円も払っちゃる!
そしてやっと那古野城跡にやってくることができたのだった。若き日の森可成(父)も、いつの日のことか、織田信長の招きに従ってこの城を訪れたはずなのだ。信長が清洲城を分捕って引っ越すまで、ここが信長の本拠地だったのだ。
ここでどんな森可成ドラマがあったのだろう。

那古野城跡
名古屋城二の丸から三の丸にかけて、かつて
ここは信長の那古野城跡。

 今日は急ぐ旅ではなし、城内の桜にセミのように抱きついてのんびり過ごした。
徳川時代の名古屋城天守閣(しかも再建鉄骨コンクリ)はどうでもいい。

 『森家先代実録』によれば、森忠政(蘭丸末弟)が名古屋城の普請手伝いをしたとされているけど、津山市は「名古屋城普請には行ってない。」と言うし、名古屋市は「来てない。」と言うし、それでは、こちらとしてはまったくやる気を無くしてしまうのだ。忠政が来てないんなら、どうでもいい。

 でも、すでに入場料500円も払っているので、何か悔しくなってきて、やっぱり登城。

名古屋城
手前のアスパラガスみたいなのは、本丸御殿再
建予定地の縄張り??
名古屋城炎上
ホンモノは戦争で燃えてしまいました。
緑色の炎でキレイだったそうです。

金のシャチホコ。

使い方の判らなかった名古屋城
純金メッキのシャチホコ

たぶん、デコの上に腰かけて登城記念撮影す
るためのもの?

 名古屋城は徳川家が豊臣恩顧の西国大名らに分担して造らせた。20家の大名が携わったという天下普請。石垣の材料である石にしても自分たちのマイストーンが他に紛れないように、いろいろな刻印が施してある。それを見つけてはしゃぐ。ダンゴ3兄弟の刻印もあるらしいけれど、見つけきれなかったのが残念。

名古屋城石垣に見受けられる刻印の一例
長々と書きこみしてるっ!!!

 名古屋城をあとにして、地下鉄に乗り、リニモに乗り換えてはなみずき通駅(長久手町)で降りればそこは既に森圏内。森家アンテナビンビンだ。
 駅から信号無視して徒歩30秒の常照寺には長久手の合戦で討ち死にした森長可(蘭丸兄)と、池田恒興(勝入)と元助(之介・庄九郎)の三将の墓がある。お墓参りをすませて、今回はご住職にお話を伺ってしてしまった。
 本堂で常照寺のご由緒を尾張藩の寺社奉行にお知らせした書状のコピー(天保四年)を見せていただいた。「池田勝入殿同紀伊守殿森武蔵守、其の外戦死の人々数多の死骸、夫々(それぞれ)取納め」中でも「右三将の亡霊別段当寺へ葬り」や「位牌など取拵え」ていることなどが書かれていた。

お寺は火災に遭ったために、彼らのご位牌は残っていないとのこと。
なおまた三将の墓の並びについての豆知識をご住職に教わった。

・本当はどれが誰のだか分からない。
・あの3つの墓で古いのは1つだけだと聴いている。

Σ(゜□゜;

常照寺(長久手)
常照寺山門へ至る階段
桜が満開。空は青。
親切な墓マップ
これでもう、二度と誰も迷うことなく
武蔵墓にたどり着ける。
ご朱印
三将の墓
意外と順番はわかんないらしい。
 

 そして再び車上の人となりメインの長久手会場へ。

 長久手古戦場駅に着けば足は自然、森長可の死地・武蔵塚に動く。民家を縫って、通い慣れた道を進めば、かの一角は雲霞の湧くが如くに桜が満開で、風が吹くたびに地上は花びらの嵐となって地面も桜色。そんな春の盛りの最も美しい時期に武蔵塚にお参りができた。嬉しい。あとは、もう、武蔵塚の前で心ゆくまでお花見。

武蔵塚
桜のはなびらジュータン。
見上げれば桜
武蔵塚一帯は桜の名所(当社比)。

  武蔵塚に別れを告げて、庄九郎塚勝入塚にお参りしてから長久手町郷土資料室に入る。
 次に目指そうと思っている耳塚安昌寺の道を資料館の受付で尋ねるという初の試みの中で、ママチャリ(レンタルサイクル)を貸してもらえるようになった。
 ママチャリにまたがり、青い空の下を走ってゆく。
耳塚に行きたがっているけど、そもそも「耳塚」の由来はよく判っていない。でも、どうも私のロマンスの神様(森家専用)が誘導するので、気になって赴くものである。長久手の合戦とは関係あるのかどうかもわからない。
 前回の旅でもこの耳塚に行こうとしたけど、トラップ耳塚にたどり着いてしまい、本物を拝むことができなかった。よって、今回こそはリアル耳塚にたどり着きたいのだ。
 先ほど、資料館の方にも「耳塚に行きたいんです。」と告げたものの、資料館の方は首塚を案内なさっていたようで、途中まで話が噛み合わずにいたのだけど
「いや、首ではなくて耳のほうに行きたいんですけど。」
「いや、耳はないよ。首でしょう。」
とようやくお互いに違う部位を主張していることに気づいた。
資料館の方が、耳塚について、「ああ、消防署の裏のアレね!」と思いだしてくださり、耳塚にはどこから入るのかわからんながらも、消防署の裏に行けばいいと判った。
耳塚クエストはだんだんと現実味を帯びてきた。めざせ、消防署!

耳塚
由来は判ってないけど、勝手に合戦の香りをキ
ャッチ。

 消防署の裏は田んぼ。道路から耳塚は見えているものの、たどり着くための道がない。
自転車を道路に停めて、わが身ひとつで田んぼを駆けぬけて到着した。
二度目の正直でようやくたどり着けた。

 次は安昌寺に向かった。ここは、岩崎城主・丹羽氏次の田畑寄進状もある。長久手の合戦の時、彼は徳川方についたので、いうなれば森家とは敵方の関係の寺院。ちなみに、丹羽氏次の弟・氏重(16)は、池田軍と森軍に岩崎城兵もろとも討たれてしまってる。
 しかし、当時の安昌寺の雲山和尚は素晴らしい方で、敵方である森長可と池田父子も弔ってくれている(雲山和尚は長久手合戦戦死者の首塚もこしらえている)。

今回、彼らのご位牌を拝見することが叶ったのだ。なんて素晴らしい日なのだろう。

鉄圍秀公大禅定門 
   森武蔵守長可
顕功永節大禅定門 
  池田庄九郎之助
護國院雄嶽宗英大居士 
   池田勝入信輝

 驚くことに、ご位牌とは言っても、いずれも長くて黒い一枚板に上の法名・俗名が彫ってあるものだった。さらには法名の上方・中央に小さな錐穴が開いていたのだ。

 現ご住職にお話を伺うと、「お寺としては敵にあたる長可らを堂々と弔うことができなかったためにこのような位牌なのでしょう。」とのお考えだった。また、上に穴があいているのでどこかにさげてたのかも、とのこと。斬新だ。

ご朱印
安昌寺
岩崎城主・丹羽氏次も田畑を寄進した寺。
お寺の紋も、丹羽氏の家紋と同じものだった。
 


お寺の裏にある長久手合戦慰霊碑と、お寺の近所にある首塚にもお参りした。

 

長久手合戦慰霊碑
安昌寺の裏山の金色山(つーか、
家康本陣)に平成16年に建立され
たのもの。
首塚
安昌寺の素敵な雲山和尚が兵の屍を集めて
手厚く葬った塚。

 長久手は何度となく訪れているけど、訪問するたびに新たなことに気づかされる。
今回は特に印象に残る訪問だった。

 そして、次は尾張一宮

 一宮駅に着いたものの、「あ〜コインロッカー探してお金入れるの面倒くさぁ。」と、いう思いにかられて、キャリーバッグを引いての一宮めぐりとなった。

 一宮は森長可や蘭丸の義兄であり、長可を追って共に長久手に散った関小十郎右衛門共成(長安)ゾーンである。
彼の居城、一宮城跡。いや、UFJ銀行と言うべきだろうか。とにかく、UFJ銀行のすんごいビルが建っている場所が一宮城跡なのである。開き直るしかないのである(何を?)。
 以前は花壇の観葉植物の中に半分隠れていた一宮城跡の石碑。デジカメに画像を納めるためにはガッサガッサと葉っぱを広げて石碑を見えるようにしなくてはならなかったのに、嬉しくも今は綺麗に整えられて説明プレートもついている。おお、なんか、配慮されてる。関城が、関小十郎によい風が吹いている予感がする。キャリーバッグをドンドコ叩いて喜びを示したいたい気分。

一宮城跡
関氏の居城。義弟・森長可とともに秀吉に味方
することに決めた小十郎は、一宮を捨てて長可
の待つ金山城へ向かった。

嬉しいので、もう一回貼り付けよう。

一宮城跡
関氏の居城。義弟・森長可とともに秀吉に味方
することに決めた小十郎は、一宮を捨てて長可
の待つ金山城へ向かった。

 キャリーバッグが面倒になってきた。
 アスファルト道路の場合は負担にならなかったけど、一宮城跡から先の歩道ときたら、いきなり工事中でアスファルトを剥がしていて、私は砂敷きの道で完全に「アリジゴク」状態。キャリーバックのコロが動かないので、砂に線を引きながら完全にぞろ曳き。何か目に見えない力に阻まれつつの前進だった。それにも負けず、関氏の菩提寺・常念寺へ向かう。

 キャリーバッグを引いて常念寺の境内にお邪魔すると、お寺の方に
「どうしてここが関家の菩提寺ってご存じなの。」
と尋ねられた。それは、私が森家ストーカーだから。
 なんと、本日のご命日だけでもお参りに来た女性が私で6人目とのこと。やるじゃん、小十郎。関家のお墓で手を合わせていると、背後に視線を感じて振り向けば、生垣の向こうから三人の若者たちが私を見つめていた。Σ(゜□゜;)
「何を拝んでいらっしゃるんですか?」と尋ねられて、「ああ…と、関小十郎右衛門が…」と、関家のお話になった。

常念寺
奥の建物は寺務所。右奥が本堂。
関氏三代の塔
常念寺本堂前に並ぶ関家の供養墓。
当時の墓は太平洋戦争で破壊された模様。
ご朱印
 


 今日は、嬉しくも安昌寺の長可のご位牌に続き、関家のご位牌も拝見できたのだった。

関十郎右エ門先祖累代精霊  
常功院殿瑞厳長重浄蓮大居士
瑞光院殿祥運英公長安大居士
←こちらは、関父子の二代を二行にして
一つのご位牌に拵えられえていた。
家紋が鶴丸になっていた。

 ご位牌を拝んでキラキラお目目で本堂を出たところで、先ほどの三人の方々が
「一緒に、真澄田神社に行きませんか。」とお誘いくださった。

関氏が神官をつとめていたとされる尾張一宮・真澄田神社
関小十郎が奉納した蘭奢侍も宝物館に現存する。

真澄田神社の境内は、シンボルともいうべき桃の花で真っ盛りだった。

真澄田神社
関小十郎が奉納した名香・蘭奢侍も現存する。
髪の毛先ほどしか残ってないデスガ…
本殿にいたネコさん。
幸せ?(*^_^)


  その後、三人の皆さんと一緒に喫茶店に入る。何を飲もうかとメニューを見て、「レモンスカッシュ」を選べば「ゆで卵かトーストがつきます。」とのこと。

え?(゜.゜)

 名古屋圏内にはコーヒーを頼むとちょっとしたスナックがつくという奇習を聞いたことがあるけど、ゆで卵やトーストは激しくないか?(゜o゜;;

 聞けば喫茶店でコーヒーなどにスナックをつけるサービスの風習は、ここ一宮発祥であるらしい。戦国時代にはまだ無かったサービスと思われるが、さすがは関家の故郷だ。さらにお店の方に
「トーストには何(ジャム)をおつけしますか。」
と問われた。私はマーマレードをチョイスしたのに皆さんは「やっぱり一宮では小倉でしょ。」と小倉あんを注文。
「トーストにアンコをのせるんですかッ!!!」とツッコむと「あんパンとかもあるし。美味しいよ♪」とのこと。とにかく、昼ご飯を食べてなかったので、トーストのオマケは嬉しかった。
でも、せっかくのトースト写真を撮るの忘れた。

 この三人の皆さんは今度、イベントにやってくるお客さんを観光案内なさるようで、そのコースを考案しながら常念寺を訪問していたとのこと。関小十郎ゆかりの地めぐりを強力にプッシュしてみる。

 優しい一宮の方々に別れを告げ私は再び名鉄一宮から旅を再開。
次は兼山だ!
と思っていたものの、兼山の古文書の師匠には「また明日。」と言われるし、結局、兼山訪問は翌日にして、可児市内の行きつけの店で知人と一緒に味噌煮込みうどんを食べる。

よいご命日でした。

■ 4月10日(金) 兼山。信長休み石の上で休む

と、言う訳で今日は始発で兼山着。プラスチック森蘭丸が迎えてくれる。
兼山入口の森蘭丸像
渾身の力で抱きしめると割れてしま
いそうな、儚(はかな)い君。

 続いて、森家の氏神様でもあった貴船神社を参拝。

貴船神社の額
秋になると貴船神社のお祭に合わ
せて蘭丸武者行列が開催される。

戦国時代には既に経営されていた兼山湊で水鳥達を見つめながら、優雅に朝ごはん。

兼山湊
私を穏やかにしてくれる癒しの景色。

 森家菩提寺の可成寺と、林家(蘭丸母の家)菩提寺の常照寺へお墓参りする。また兼山に来させてくださってどうもありがとう。

可成寺
森一族の眠るお寺。
常照寺
山門がおニュー!

 森家の居城の金山城のあった古城山。その麓に作られている「蘭丸ふる里の森」は桜が満開で、それはものすごいことになっていた。しかも、この風景を独り占め!
 ふる里の森でゆっくりしたことはないので、今日はここでゆっくりしてみることにする。

鶴丸紋な植えこみ
ム!

 蘭丸ふる里の森はいくつかのゾーンに分かれていて、「蘭丸広場」、「坊丸広場」、「力丸広場」と名前がついているらしい。城主である森可成・森長可・森忠政はまる無視して弟達が前面に押し出されるという、全国的にもめずらしいパターンである。
いつもは素通りのふる里の森で、今日はのんびりと過ごした。

蘭丸広場から見た古城山
山頂には金山城跡。
蘭丸売店
もう、とにかく蘭丸と命名するのである。
坊丸広場
アスレチックな城。
力丸広場
狭すぎ…。
蘭丸ふる里の森の桜
とにかくピンクの黄金律に心奪われる。
金山城出丸跡
力丸広場から見上げて撮影。

 桜の元で英気を養ってから、金山城跡に登る。去年の12月に行われた発掘調査場所で露出した物見台下の犬走り(?)や、新たに出てきた礎石などで縄張りをチェックしながら山頂の本丸を目指した。

金山城本丸虎口
グィンと左90度に曲がって本丸に入る。
二の丸(にあったと思う…汗)の礎石
金山城内の建築物の支柱を支えて
くれていたんだなぁ。

 森家が金山城主時代だった頃に可成寺の境内敷地だった寺が峰に登ってみる。
ここには絶対に人がいないと確信して登ったのに、電気会社の方々が団体でいたので、それはもうケモノかと思って驚いた。
「手わけして作業しよう。」
そう言って、電気会社の方々は二手に分かれて身の丈ほど草の生い茂る壁面をズザザザザと降りて解散してしまった…。
そこ…道じゃないのに…(゜□゜;

可成寺跡
当初(元亀2年)はこの場所(寺が峰)に可成寺
が建立された。
信長の休石(説明板倒れてます)
武田討伐に向かう途中、天正10(1582)年
3月9日、織田信長は金山に泊まり
その時にこの石に腰かけたという。

織田信長が腰かけたという休み石は、寺が峰の奥も奥の鬱蒼と生い茂る木々の中にある。とっても涼やかでつい、石に腰かけて深呼吸。また1時間くらいそこで目を閉じて静かに過ごした。

 山を降りてからは、兼山でお世話になっている方々にお会いして、いろいろとお話した。師匠ともたっぷり森家のことや、プライベートなことをお話した。

金山城下・六角堂付近の桝形
今はもうカーブに舗装されているけれども、昔は
カチカチッとした桝形になっていた。

 実は今回、私生活で精神的に疲れ果てていて、このままではどうにかなっちゃう!!と、突発的に旅立ったこともあるのだけど(会社を2日立て続けで休んでしまった…汗)、どれほど心が摩耗しても、私をワクワクさせて、元気にしてくれる存在があるなんて、幸せなことだなぁ…と…信長の休み石の上で涙ながらに思った。

ありがとう、森家。ありがとう、森家を通じて出会った多くの人々。